きれいなものカワイイものを贔屓することのどこがエコなのか?
ヤマユリは美しい花である。自然の中を散歩していてこの花に出会い、その香りを感じ、美しい花を見ることができると、この花を咲かせている自然の素晴らしさを感じ、だからこそ、この自然を大切に守っていきたいとは思うのは確かだ。だが、時に、人々はその気持ちが行きすぎる。
この自然の中で、際立ってみえる花。それは昆虫をひきつけるためにその美しさが備わっているともいえるわけだが、そこだけに目を奪われて、「この花を守りたい」と思った途端におかしなことになる。以前、里山に自生するヤマユリを保護するといって、ヤマユリを食べる昆虫を憎み、殺虫剤を撒きまくり、弱いヤマユリの茎が風で倒れるのを防ぐのに支柱を立てたりする人がいて唖然としたものだ。ああ、花といえばそういう感覚なのだと思った。これは、花壇の花にやることであって、自然に自生している花にそんな風に接することは、非常に違和感があるし、それでは自生しているこの素晴らしい花を台無しにしていると思った。
ヤマユリは、自分の力で芽を出し、天敵である虫とも闘ったり、大雨、暴風といった天災とも闘いながら、一生懸命生きて、美しい花を咲かせる。それは自然の奇跡である。その花を咲かせるために、咲くことが出来なかった沢山の花があっても、それは自然成り行きであり、であるからこそ、ここでこうして大輪の花を咲かせている素晴らしさがあるというものだろう。そうして少しずつ大きくなっていき、一株に咲く、花の数も増えていく。大輪の花を沢山咲かせているヤマユリがあるなら、それは、厳しい自然のめぐりの中で、ほんの一瞬見せる奇跡であるからこそ素晴らしいと思うわけだし、そういう花を育む自然全体に対して、素晴らしいと思うことになるわけだ。
ところが、これ、人が手を加えて、大輪の花を沢山つけるヤマユリがあったとしても、それはそのヤマユリを育てた人に「ご苦労さん」と言うだけのことで、だからなんなの?花壇に植えて、殺虫剤撒きまくっておればもっとなんぼでも咲くじゃろうが?と思える。言ってみれば、そういう「よかれと思った」行為によって価値が暴落する。
「綺麗な花が沢山咲けば良いことだ」というような安易な価値観ですぐ行動を起こすから、おかしなことになる。その地に太古の昔から自生している地味な草をことごとく刈りとって、何の関係もない園芸種、最近ではコスモスやらマリーゴールドなんかがよく植えられるが、そんなのを植えて、ああ、一面に綺麗な花が咲いたね~、といって喜んでいる。見る人も見た目に綺麗であれば、それが環境が良くなったと勘違いするから、「よいことをしている人がいる」と勘違いをする。これ酷いよ。見た目に地味な植物が太古の昔からそこで命をつないできていて、そこはその植物にとって貴重な生息場所、とても微妙な生息環境があったのに、それをブルトーザーで根こそぎ壊滅的に破壊しておいて、その地とはなんの関係もない植物を植えるのだから。そして、人々に、「ほら、綺麗になったでしょ」とアピールする。それで人々はその見た目に騙される。そりゃあイケン!
いや、園芸種でなくても自生種でもそういうことがある。ヤマユリもそうだが、千葉県あたりではカタクリなどがそういう運命にある。綺麗な花を咲かせる自生種。それも、生息環境が微妙であって、自生する場所が限られるようなものがあると、そいつを守ろうと、それ以外の雑草やらはことごとく敵視して排除する。そして、その雑草が繁茂する場所を生息場所にしている生き物はことごとく絶滅の淵に追いやっておいて、「綺麗な花を咲かせる植物を守っています、だから、私たちは自然を大切にしています」って、馬鹿言うな!ていうんだよ。イケン!そりゃあイケン!
以前、「ホタルの季節に考えたいこと」という記事も書いたが、同じようなことが言える。たとえば、西日本のゲンジボタルと東日本のゲンジボタルを比べると、色々な点で特徴が異なり、たとえば光の点滅の周期が異なっているなどという特徴があったりする。もともと、それほど遠くに飛んでいくことのできないホタルであるから、ホタルの遺伝子も地域でかなり差異が出来ている。しかし、今、関東地方では、どちらかというと西日本のゲンジボタルの特徴をもったホタルが圧倒的に増えているということだ。ホタルを放流して「綺麗なホタルを増やした!」という。そうすると、なんにも考えない人々は「ああ、綺麗なホタルを増やしてくれてありがとう。綺麗なホタルを見ることができた」といって喜ぶ。喜ぶということは、そういう行為をしている人のことを「良いことをしている人々」と無条件に思ってしまう。だが、そういう行為によって、東日本のゲンジボタルの特徴を持ったホタルが絶滅の危機に追いやられているということを知ったらどうだろうか?それでも「綺麗なものが見られるのだから良い」というのだろうか?これはその地に固有な野生生物という貴重なものを取り返しのつかない程に酷い状態にしていることに他ならないのだ。
また、放流したホタルが命をつなぐことが出来ないような場所に放流して、死に絶えるホタルを増やすだけの人々や、ホタルを守るといって、ホタルの天敵など、ホタルを増やすためにはホタル以外の生物のことなど知ったこっちゃない、というか、ホタルの害になるような生物には絶滅してもらわにゃならん、とでも言い出しかねない人々もいる。
それでも、「そんなことは知ったこっちゃない。わしらは、美しいホタルを多くの人に見せて、それで喜んでもらえばいいのだ」と言い張る人すらいる。それで本当に良いのだろうか?多様で複雑な日本の自然をズタズタにしておいて、綺麗に光るホタルが見れればそれでいいのか?といいたい。
そんな人々のやっていることは、「綺麗な花が咲く公園を作りましょう」といっていることと同じだ。うちの近所でもあるよ。様々な生き物がたくましく生きている里山を更地にしておいて、そこに芝生を植えて、園芸種を植える。それで「みんなが自然にふれあえる公園を作りました」と言う。そりゃあイケン!私は断固反対する。そんなことしなければ生きられない人々であるならば、そこから考えなおさにゃならん。
そういや、どこかの誰かが、「かわいい動物や綺麗な花を咲かせる植物だけを守ろうとするために、ちょっと気味が悪かったり、地味で綺麗ではなかったりする生物がどんどん絶滅している」といっていた。そりゃあイケン!そりゃあイケン!
近所のエライ人が「里山を四季折々の花の咲く公園に」とか馬鹿なことをいって(といっても、普通の市民感覚からしたら、良いことなのだろうけど)、やらんでもええのに、言ったからにゃあ公約じゃ~ゆーて、わたしゃ~こんなに仕事しょーるんですよ~ゆーて、アリバイ工作というどうでもええことのために、実際に実行にうつしやがった。そうして、里山ぶっこわしてそこにソメイヨシノを植えて公園作ってお祭りやったりしてたね。そのために樹齢百年はあろうというヤマザクラを伐り倒してもなんの罪悪感もないという。百年かけてこの地が育んできた自然の植物を殺しておいて、どっかからもってきたソメイヨシノですか?そりゃあイケン!
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