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2012年5月20日 (日)

自然は荒廃なんかしない。荒廃しているのは人間だ。

 私の愛する散歩道の個性豊かな自然。それが都市開発といって、均質な都市にどんどん浸食されていく。そして、どこにでもある均質な街が出来上がり、ただの地球上の一点に過ぎなくなる。それをなんとかしたくて、ここにある複雑で多様な自然の営みを多くの人に知って欲しくて、そうして、多くの人がその自然の凄さ、かけがえのなさを知れば、何か変わるかもしれない。そう思って始めたのが「散歩道プロジェクト」だ。もう、10年も、来る日も来る日もカメラをもって歩きまわる日々。地球全体、日本全体からすれば、ほんの小さな小さなこの場所。でも、私にとっては、最も大きな存在であるこの場所に、これほどまでに力を注いできた。そうして、少しは、この場所の自然のこと。身近な自然の営みのことを、記録し、伝えることが出来てきたと思う。多くの人が、ここの自然を愛してくれれば。ただ、私にはその先の懸念がまだまだある。

 私がいつもの散歩道で写真を撮っていれば、もう、誰も不思議に思う人はいないだろう。だが、少し離れた場所の湧水が流れる場所で、わけあって写真を撮っていた時、通りかかった人から声をかけられた。「何をしているんですか?」と。

 私は、たまたまここでイモリを見つけたので、その写真を撮っていたことなどを告げたが、怪訝そうな様子。「あなたはどこの人?名前は?」と、まるで警察官の職務質問だ。まあ、私のような怪しげなヤツが怪しげな写真を撮っていたりするのだから、無理もない。しかし、しばらく話しをするうちに事情がわかってきたのか、このあたりの自然の話しになった。その谷津田の斜面林を指差して、「ここ、荒れてるでしょう。市にもなんとかしろって言ってるんだけど、全然放置されたままで、酷いもんですよ」「私は、あっちの方の山を綺麗にして、水辺にメダカを放流したりしてたんだけど....」「あそこは、最近綺麗になったけど、あれ、誰がやったのか知ってる?」などという。私は圧倒されて、終始「はあ」「はあ、そうですか」というだけ。「荒れてるって何?私が見た限り、物凄く多様な生き物がいて自然豊かなところだけどな」「メダカを放流?それ、どこのメダカ?」などと思ったけれど、そんなことを言ったところで理解されるわけもなく、適当に友好的な会話で終わったのだった。

 放置されて荒廃する。だから、整備する、手を入れる。などと、最近やたらあちこちでそういう話しをきく。私はそのたびに、「荒廃するって、なんだよそれ?」と思う。

 里山自然というと、伝統的農地とその周辺に出来上がった自然環境のことをいうわけで、薪炭材として時々適度に刈られるコナラやクヌギなどの落葉広葉樹林や、畑や田んぼの周辺の草刈りされた場所の独特の自然環境というのがあって、それは、いわゆる人が適度に手を入れないと維持できないものであったりする。だから、それを維持できなくなって、環境が遷移していくというのはわかるし、遷移していくことで、そこにあったものが数が減るということもわかる。しかし、それをもって、「荒廃」という言い方はおかしいと思う。まるで、「良い自然」と「悪い自然」という明白な判断基準があって、「良い自然」が「悪い自然」になっていくかのようなことをいう人がいるが、それが、私にとっては非常に違和感があるのである。

 地元で講演すると、同じような疑問をもった方に時々質問される。「とにかく荒れているから整備するといって藪を根こそぎ刈りまくって、もともとそこに生えていた植物もなくなったり、藪に身をかくしていた鳥や動物などが、いなくなったりするが、それはいいことなのでしょうか?」などという質問。こういうのは少なくないのだ。これはもっともな意見だと思う。そういう時、私はこう答える。「大切なのは多様性です。多様な環境があって、多様な生き物が生きられる。一律に良い自然があれば良い生き物が生きられるという考え方はおかしいのです。草を刈るといっても、植物には二年生植物とか、三年生植物などというものもあります。それは、数年に一度実をつける。毎年刈られてしまうと、実をつけることが出来ないため、消えてしまいます。どこもかしこも綺麗に刈ってしまうと、そういう植物は絶滅します。手入れするというのは、人が自然を上手く利用するために、適度に自然にストレスを加えることであって、ストレスを加え過ぎたら死んでしまいます。」と。

 そのあたりの理解もなく、ただただ、「綺麗にすることはいいことだ」とだけの単純な考え方からひたすら草を刈り、木を間引き、などといったことをやっていることが多すぎると思う。それが「綺麗にする」「荒れた自然を治す」というように単純に「良い行為」と思われているところに私は非常に危機感を感じる。さらに、継続的な観察もないため、もともと生えていた植物なり、生息していた生き物が、どう変化しているのか?そういう行為がどう影響をあたえているのか?といった評価も出来ていないため、そのような「綺麗にする」行為によって、絶滅した生き物がいても知らん顔。それでいて、綺麗な花をつける植物には農薬を撒いてでも増やしたいという人もあらわれたりする。それはもはや「お花畑」であって、別に自然を大切にしているわけでもなんでもないのだ。

 さらに言えば、そういう植物の盗掘を恐れて、人が立ち入ることを禁じ、頑丈な柵まで作って関係者以外はそこがどうなっているのか見ることすらままならない状況にしているのを見ると、何のために、誰のためにやっているのか?と思ってしまう。

 ある「人からきいた話し。とある市で、とある森に貴重な自然が残っているというので、市が市民の森として「整備」することになったという。そこで、市民の森発足のために市長さんを始め、偉い人がやってくるが、「こんな汚いところにお偉いさんがやってくるんじゃあ、いけんじゃろう」といって、地元のオッサン連中が総出で整備しまくって、貴重な植物も刈りまくり、コンクリートの歩道まで作って....こうなってくると、もう悲劇としかいいようがない。

 Koen20080211002 うちからそう遠くないところに、こんな看板がある。ここには、かつて広い広い里山の中にあった池と、その周辺に流れる小川があったのだ。かなりの昔から、人々に愛されてきた。多くの人がここを訪れて、ここにこんな素晴らしい自然があることに感動したものだ。それが、心ない人に「発見」されてしまったから悲劇である。「さあ、ここをみんなの憩いの自然公園に整備しましょう」といって悲劇が始まる。この看板、良く見ると、字が一文字消されているが、これ、なんだかわかるだろうか?

「釣り」という字が消されているのだ。その証拠に、この看板のすぐそばには、

Koen20080211003 こんな「つり禁止」の立て札が。ここは、もっと酷くて、整備するといって、ここの水を抜いて魚をほとんど皆殺しにした挙句、いつのまにかブラックバスとかブルーギルとか、そういった魚が放流されているのである。ここにかつていたメダカもドジョウもフナも絶滅した。なぜなら、近くの小川は公園整備によって、こんな風になっているのだから。Koen20070311 周辺は落葉樹がいっぱい植えられたから、秋になると落ち葉がこのコンクリート水路に落ちる。そうすると、コンクリートだから分解される筈もなく、ヘドロが溜まる。そして、「環境を綺麗にしましょう」とかいって近所の人がやってきてドブサライをする。そうすると、一時的に綺麗になるから「環境に良いことをした」と思う人々。おかしいでしょう!それ!

ああ、ここにはカワセミが来るよ。カワセミ。だって、魚放流してるからね。カワセミがいれば自然が豊かなの?違うだろう、それ!

 また、少し離れているけれど、これも近所の公園。ここは、もともと溢れんばかりの生き物が力強く生きていた場所。なのだけど、今はこれ。Koen20070211 公園です。池が見えるけど、これ「トンボ池」って立て札がある。ここにはすでにミシシッピーアカミミガメがいる。もともとこの周辺にはクサガメが沢山いたのに、ここにはもういない。

 そうなのだ。まず、人々の自然に対する感性がおかしなままでは、「大切にしよう」といった途端に、おかしなおかしな方向に進んでしまって、せっかくの自然も消えてなくなるのだ。そりゃあイケン!そりゃあイケン!

Koen2007120201 はるか昔から多種多様な生き物が、ずっと命をつないできた水辺。それが、公園として整備されて、根こそぎなくなり、そうして、その水辺につながっていた森も消えてなくなった。消えた森を子供を連れて歩いている人。この人は何を考えているのだろう?私には悲しい光景に見える。Koen20080211001 自然は荒廃なんかしない。荒廃しているのは人間だ。人間の自然に対する感覚が荒廃しているのだ。そのままでは、やがて本当の荒廃がやってくる。人間の荒廃に荒廃させられてしまう自然。地球。そりゃあイケン!そりゃあイケン!それをなんとかしなければ、私のライフワークは完成しない。

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コメント

ご提起されているテーマでいえば、そのもっとも究極の自然破壊は「ゴルフ場」です。まことに不思議なことに、現在、このことを問題視する機関も人物も皆無です。

私は、以前、登山をやっていて(今は仕事以外、何もできない)下山途中の山里で、視野が突然に開け、見渡すかぎりの広漠たる「ゴルフ場」の「グリーン」が存在すると「何が、グリーンだ。このくそたれドモが!」と毒づいたものです。

調べてみると、日本全体で「四国の半分の面積」がゴルフ場であるというデータもあります。(ただし未確認)千葉県の地図は、いたるところ、ゴルフ場だらけ。また、ゴルフ場の「宣伝」には「ゴルフ場の緑は、近隣の動植物に生存の場を与えています」などという呆れた虚偽記載が書かれていて、悲憤慷慨、抱腹絶倒いたします。何たる、暴挙。

多量の除草剤による水質汚染、奇形や発ガンの原因にもなります。資源探査衛星で撮ると「ゴルフ場」は「砂漠」とまったく同様に撮影される。「瑞穂のくに」の日本で、なにゆえに、一面に不毛な一部のヨーロッパ地域の「お遊び」をせにゃならんのか?

ゴルフボール1球、ゴルフクラブ1本、ゴルフ場1場に、それぞれ、莫大な多額の取得税でも課税し、このまったく無用なウルトラ自然破壊の責任をとってもらい、自然の「痛み」を痛感してほしい。

はじめまして。
ゴルフ場大国の千葉県に住んでおりますから、どれだけゴルフ場が環境を破壊しているかはわかります。
ゴルフ場がどうやって作られるのかという「現場」を見たならば、「環境にやさしい」ゴルフ場っていうのはいかに嘘かがわかりますよね。バブル崩壊後に多くのゴルフ場が淘汰されたので、以前のようではなくなりましたが。
昔々、「日本ゴルフ列島」という本を読み、物凄く恐ろしいことだと思いました。もう20年以上前の本ですから、世の中の状況が変わってしまっていますが、ご興味あればどうぞ。

http://shinshomap.info/book/4061490559.html

日本の山岳地帯やその裾野を歩いていると、本当によくできた自然だと感嘆せざるをえません。降雨がないときでも、渓流、谷筋には、一年を通して水流があり、それもどうなっているのかよく分からないのだけれど、滔々と流れている。山が水瓶になって少しづつ流しているのですね。こんな美しい環境は海外のどこにもない。

ところが、少し標高が低くなって「山里」といわれる地域にさしかかると、ある種の絶望で胸がいたくなる。そこかしこに見える家屋はすべて廃屋。荒れ放題。以前は耕地だった田畑は、今や完全に耕作放棄地。それが延々と続く。ときには一日行程の大半がそのような「荒れ野」を通過することも...。いったい日本はどうなるのだろう、と思ったものです。

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