ホタルの季節に考えたいこと
あれはもう20年も前のこと。結婚したばかりで東京23区内に住んでいた頃のことだ。東京生まれ、東京育ちの妻が、「ホタルを見たことがない」という。子供のころ、初夏になるとさんざんホタルを追いかけた想い出のある私は、「それはイケンじゃろう」といって妻にホタルを見せてあげたくて、近くのホタル生息地に出かけていったのだった。そこは都会の中にポツリと谷津田が残されている場所だった。夜に何度か行ったもののなかなかホタルは見ることが出来なかった。しばらくして、ようやく見ることが出来た。そこはヘイケボタルの生息地だったのだが、日が暮れるにつれ、どこからともなく淡い光の点滅が表れて、やがて飛び回るようになる。ふわふわと光りながら飛ぶホタル。夜の谷津田の静けさと、音もなく光るホタルに自然の素晴らしさを感じたものだ。
今、私の住んでいる場所のすぐそば、歩いていける場所にホタルが生息している場所が沢山ある。夜、探索に行くことがあるが、そうすると、ホタルが見られる場所というのはだいたい同じような場所であることに気付く。流れのゆるやかな湧水があり、アカガエルやドジョウなども沢山生息している場所であることに気付く。もうひとつ、明りがないこと。街灯もなく、真っ暗な奥まった谷のような場所に多くいる。そして、月明かりがある日には、月の影になっている場所に多い。水や土や光などの環境が多様な生物をはぐくんでいるような場所で、ホタルは音もなくふわふわと飛び、光を点滅させるのである。
このあたりではホタルはそれほど珍しいものでもない。ホタルの生息環境がどういう場所であるかを知っていれば、ちょっと歩くだけで、ホタルが見られるのだ。しかしながら、多くの人々はその存在にすら気づいていないし、おそらく見たことがないであろう。地元の講演会などで「このあたりにはホタルが普通に生息しています」というだけで、驚く人がいるのだから。
私の近所のホタルの多くは紛れもなく野生のヘイケボタル(ごく少数ではあるがゲンジボタルもいる)だが、それとは別に、近くには、昔からホタルの養殖に取り組んでいる公園があり、ホタルの名所になっている場所もある。私も何度かそこにホタルの季節にいってみたことがあるが、ものすごい人の多さに圧倒される。夜の水辺の静けさなど皆無。中には、ラジオを腰にぶら下げて、ラジオの音をばらまいている人もいる。周辺の道路は路上駐車で大変なことになる。そこで人々は何を見ているのだろう?まるで、花火見物のように、ホタルの光だけを見ている。
かつて、田舎にいけば普通に見られたホタルが、生息環境の悪化に伴い、いつしか珍しいものとなった。だから、妻のように大人になるまで一度もホタルを見たことがないという人も珍しくない。ホタルの光というのはそれはそれで美しいものであり、人を惹きつけるのも事実。昆虫というだけで毛嫌いするような人でも、「ホタルを見たい」という。昆虫なのに。昼間見たら、ゴキブリを小さくしたような虫なのに。
近年、ホタルの養殖技術が開発されて、養殖したホタルを放流して見世物にし、観光資源にしたり、地域のイベントにしたりすることが多くなった。まるで花火大会のようにホタルを見に来る人々。放流されたホタルはその周辺に生息できる環境があるわけでもなく、初夏の夜空に舞うだけで一生を終え繁殖することもない。それを見て、「ホタルが見れた」といって喜ぶ人々。そんな人が、命の大切さを訴えたって、なんの説得力もないし、地球に優しい生活なんて、何をもっていうのか。ホタル養殖業者はいかに沢山ホタルを育てて、いかに沢山飛ばすか、いかに光らせるか、だけに興味がある。ホタル本来の生息環境を守り、ホタルが生息しているような場所の生態系全体、地域の自然全体を考えるなんてことは、まずあり得ない。そりゃあイケン!
「ホタルを見たい」そう思う気持ち自体はいい。しかし、それはホタルだけが見られればよいのか?養殖して、放流して、初夏の夜空をむなしく舞うだけのホタルが見られればそれで良いのか?そうではなかろう。ホタルの一生がどんな一生で、ホタルが生きるのには、何が必要で、どんな場所である必要があるのか?そうして、ホタルをとりまく生態系はどうなっているのか?ホタルの天敵は?ライバルは?そういうことまでちゃんと考えて、ホタルがホタルとしてまっとうな一生を過ごすことが出来る環境。ホタルがまっとうに命をつなぐことが出来るような環境の中でまっとうに光るホタルを大切にすべきだろう。そうしてホタルをとりまく環境全部を大切にして、まっとうなホタルを見たいと思わないのか?単なる見世物のホタルには嫌悪感を覚えないのか?と思う。
少なくとも、子供たちが、生まれて初めて見るホタルが見世物のホタルで、それだけでホタルを見た気になって一生を終える、そういう世の中じゃあイケンじゃろう。すでに、見世物のホタルだけを見て育った大人が、さらに自分の子供に見世物のホタルを見せる。もう、そこには、自然の中の一員としてのホタルの存在はない。そんな世の中にしちゃあイケン!そりゃあイケン!
襲いかかってくる蚊と戦いながら、暗闇に目をこらし、アマガエルの合唱の中、草むらで静かに呼吸をするがごとく光るホタルを見つけた時のなんとも言い難いときめき。そして、やがて、あたりを舞う光の点滅を目で追いかける。足元を踏み外してずぶぬれになったりしないように気をつけながら、そして、あたりをとりまく植物の寝息のようなゆったりとした湿った空気を吸い込みながら、ゴロスケホーホーと鳴くフクロウの染みいるような声を聴きながら、露に濡れ始めた草の閉めった感覚を感じながら、夜が更けていく。それがホタル。そういう体験が普通に出来るような日本であって欲しい。いつまでも、日本のホタルはまっとうに生きて、まっとうに光っていて欲しい。たったそれだけのことが、もうすでにとても難しいことになっていることを感じる。今はホタルを見る人々の感覚さえも狂ってきているから。そりゃあイケン!
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