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2012年5月

2012年5月29日 (火)

ホタルの季節に考えたいこと

 Hotaru20070623p あれはもう20年も前のこと。結婚したばかりで東京23区内に住んでいた頃のことだ。東京生まれ、東京育ちの妻が、「ホタルを見たことがない」という。子供のころ、初夏になるとさんざんホタルを追いかけた想い出のある私は、「それはイケンじゃろう」といって妻にホタルを見せてあげたくて、近くのホタル生息地に出かけていったのだった。そこは都会の中にポツリと谷津田が残されている場所だった。夜に何度か行ったもののなかなかホタルは見ることが出来なかった。しばらくして、ようやく見ることが出来た。そこはヘイケボタルの生息地だったのだが、日が暮れるにつれ、どこからともなく淡い光の点滅が表れて、やがて飛び回るようになる。ふわふわと光りながら飛ぶホタル。夜の谷津田の静けさと、音もなく光るホタルに自然の素晴らしさを感じたものだ。

 今、私の住んでいる場所のすぐそば、歩いていける場所にホタルが生息している場所が沢山ある。夜、探索に行くことがあるが、そうすると、ホタルが見られる場所というのはだいたい同じような場所であることに気付く。流れのゆるやかな湧水があり、アカガエルやドジョウなども沢山生息している場所であることに気付く。もうひとつ、明りがないこと。街灯もなく、真っ暗な奥まった谷のような場所に多くいる。そして、月明かりがある日には、月の影になっている場所に多い。水や土や光などの環境が多様な生物をはぐくんでいるような場所で、ホタルは音もなくふわふわと飛び、光を点滅させるのである。

 このあたりではホタルはそれほど珍しいものでもない。ホタルの生息環境がどういう場所であるかを知っていれば、ちょっと歩くだけで、ホタルが見られるのだ。しかしながら、多くの人々はその存在にすら気づいていないし、おそらく見たことがないであろう。地元の講演会などで「このあたりにはホタルが普通に生息しています」というだけで、驚く人がいるのだから。

 私の近所のホタルの多くは紛れもなく野生のヘイケボタル(ごく少数ではあるがゲンジボタルもいる)だが、それとは別に、近くには、昔からホタルの養殖に取り組んでいる公園があり、ホタルの名所になっている場所もある。私も何度かそこにホタルの季節にいってみたことがあるが、ものすごい人の多さに圧倒される。夜の水辺の静けさなど皆無。中には、ラジオを腰にぶら下げて、ラジオの音をばらまいている人もいる。周辺の道路は路上駐車で大変なことになる。そこで人々は何を見ているのだろう?まるで、花火見物のように、ホタルの光だけを見ている。

 かつて、田舎にいけば普通に見られたホタルが、生息環境の悪化に伴い、いつしか珍しいものとなった。だから、妻のように大人になるまで一度もホタルを見たことがないという人も珍しくない。ホタルの光というのはそれはそれで美しいものであり、人を惹きつけるのも事実。昆虫というだけで毛嫌いするような人でも、「ホタルを見たい」という。昆虫なのに。昼間見たら、ゴキブリを小さくしたような虫なのに。

 近年、ホタルの養殖技術が開発されて、養殖したホタルを放流して見世物にし、観光資源にしたり、地域のイベントにしたりすることが多くなった。まるで花火大会のようにホタルを見に来る人々。放流されたホタルはその周辺に生息できる環境があるわけでもなく、初夏の夜空に舞うだけで一生を終え繁殖することもない。それを見て、「ホタルが見れた」といって喜ぶ人々。そんな人が、命の大切さを訴えたって、なんの説得力もないし、地球に優しい生活なんて、何をもっていうのか。ホタル養殖業者はいかに沢山ホタルを育てて、いかに沢山飛ばすか、いかに光らせるか、だけに興味がある。ホタル本来の生息環境を守り、ホタルが生息しているような場所の生態系全体、地域の自然全体を考えるなんてことは、まずあり得ない。そりゃあイケン!

 「ホタルを見たい」そう思う気持ち自体はいい。しかし、それはホタルだけが見られればよいのか?養殖して、放流して、初夏の夜空をむなしく舞うだけのホタルが見られればそれで良いのか?そうではなかろう。ホタルの一生がどんな一生で、ホタルが生きるのには、何が必要で、どんな場所である必要があるのか?そうして、ホタルをとりまく生態系はどうなっているのか?ホタルの天敵は?ライバルは?そういうことまでちゃんと考えて、ホタルがホタルとしてまっとうな一生を過ごすことが出来る環境。ホタルがまっとうに命をつなぐことが出来るような環境の中でまっとうに光るホタルを大切にすべきだろう。そうしてホタルをとりまく環境全部を大切にして、まっとうなホタルを見たいと思わないのか?単なる見世物のホタルには嫌悪感を覚えないのか?と思う。

 少なくとも、子供たちが、生まれて初めて見るホタルが見世物のホタルで、それだけでホタルを見た気になって一生を終える、そういう世の中じゃあイケンじゃろう。すでに、見世物のホタルだけを見て育った大人が、さらに自分の子供に見世物のホタルを見せる。もう、そこには、自然の中の一員としてのホタルの存在はない。そんな世の中にしちゃあイケン!そりゃあイケン!

 襲いかかってくる蚊と戦いながら、暗闇に目をこらし、アマガエルの合唱の中、草むらで静かに呼吸をするがごとく光るホタルを見つけた時のなんとも言い難いときめき。そして、やがて、あたりを舞う光の点滅を目で追いかける。足元を踏み外してずぶぬれになったりしないように気をつけながら、そして、あたりをとりまく植物の寝息のようなゆったりとした湿った空気を吸い込みながら、ゴロスケホーホーと鳴くフクロウの染みいるような声を聴きながら、露に濡れ始めた草の閉めった感覚を感じながら、夜が更けていく。それがホタル。そういう体験が普通に出来るような日本であって欲しい。いつまでも、日本のホタルはまっとうに生きて、まっとうに光っていて欲しい。たったそれだけのことが、もうすでにとても難しいことになっていることを感じる。今はホタルを見る人々の感覚さえも狂ってきているから。そりゃあイケン!

2012年5月20日 (日)

自然は荒廃なんかしない。荒廃しているのは人間だ。

 私の愛する散歩道の個性豊かな自然。それが都市開発といって、均質な都市にどんどん浸食されていく。そして、どこにでもある均質な街が出来上がり、ただの地球上の一点に過ぎなくなる。それをなんとかしたくて、ここにある複雑で多様な自然の営みを多くの人に知って欲しくて、そうして、多くの人がその自然の凄さ、かけがえのなさを知れば、何か変わるかもしれない。そう思って始めたのが「散歩道プロジェクト」だ。もう、10年も、来る日も来る日もカメラをもって歩きまわる日々。地球全体、日本全体からすれば、ほんの小さな小さなこの場所。でも、私にとっては、最も大きな存在であるこの場所に、これほどまでに力を注いできた。そうして、少しは、この場所の自然のこと。身近な自然の営みのことを、記録し、伝えることが出来てきたと思う。多くの人が、ここの自然を愛してくれれば。ただ、私にはその先の懸念がまだまだある。

 私がいつもの散歩道で写真を撮っていれば、もう、誰も不思議に思う人はいないだろう。だが、少し離れた場所の湧水が流れる場所で、わけあって写真を撮っていた時、通りかかった人から声をかけられた。「何をしているんですか?」と。

 私は、たまたまここでイモリを見つけたので、その写真を撮っていたことなどを告げたが、怪訝そうな様子。「あなたはどこの人?名前は?」と、まるで警察官の職務質問だ。まあ、私のような怪しげなヤツが怪しげな写真を撮っていたりするのだから、無理もない。しかし、しばらく話しをするうちに事情がわかってきたのか、このあたりの自然の話しになった。その谷津田の斜面林を指差して、「ここ、荒れてるでしょう。市にもなんとかしろって言ってるんだけど、全然放置されたままで、酷いもんですよ」「私は、あっちの方の山を綺麗にして、水辺にメダカを放流したりしてたんだけど....」「あそこは、最近綺麗になったけど、あれ、誰がやったのか知ってる?」などという。私は圧倒されて、終始「はあ」「はあ、そうですか」というだけ。「荒れてるって何?私が見た限り、物凄く多様な生き物がいて自然豊かなところだけどな」「メダカを放流?それ、どこのメダカ?」などと思ったけれど、そんなことを言ったところで理解されるわけもなく、適当に友好的な会話で終わったのだった。

 放置されて荒廃する。だから、整備する、手を入れる。などと、最近やたらあちこちでそういう話しをきく。私はそのたびに、「荒廃するって、なんだよそれ?」と思う。

 里山自然というと、伝統的農地とその周辺に出来上がった自然環境のことをいうわけで、薪炭材として時々適度に刈られるコナラやクヌギなどの落葉広葉樹林や、畑や田んぼの周辺の草刈りされた場所の独特の自然環境というのがあって、それは、いわゆる人が適度に手を入れないと維持できないものであったりする。だから、それを維持できなくなって、環境が遷移していくというのはわかるし、遷移していくことで、そこにあったものが数が減るということもわかる。しかし、それをもって、「荒廃」という言い方はおかしいと思う。まるで、「良い自然」と「悪い自然」という明白な判断基準があって、「良い自然」が「悪い自然」になっていくかのようなことをいう人がいるが、それが、私にとっては非常に違和感があるのである。

 地元で講演すると、同じような疑問をもった方に時々質問される。「とにかく荒れているから整備するといって藪を根こそぎ刈りまくって、もともとそこに生えていた植物もなくなったり、藪に身をかくしていた鳥や動物などが、いなくなったりするが、それはいいことなのでしょうか?」などという質問。こういうのは少なくないのだ。これはもっともな意見だと思う。そういう時、私はこう答える。「大切なのは多様性です。多様な環境があって、多様な生き物が生きられる。一律に良い自然があれば良い生き物が生きられるという考え方はおかしいのです。草を刈るといっても、植物には二年生植物とか、三年生植物などというものもあります。それは、数年に一度実をつける。毎年刈られてしまうと、実をつけることが出来ないため、消えてしまいます。どこもかしこも綺麗に刈ってしまうと、そういう植物は絶滅します。手入れするというのは、人が自然を上手く利用するために、適度に自然にストレスを加えることであって、ストレスを加え過ぎたら死んでしまいます。」と。

 そのあたりの理解もなく、ただただ、「綺麗にすることはいいことだ」とだけの単純な考え方からひたすら草を刈り、木を間引き、などといったことをやっていることが多すぎると思う。それが「綺麗にする」「荒れた自然を治す」というように単純に「良い行為」と思われているところに私は非常に危機感を感じる。さらに、継続的な観察もないため、もともと生えていた植物なり、生息していた生き物が、どう変化しているのか?そういう行為がどう影響をあたえているのか?といった評価も出来ていないため、そのような「綺麗にする」行為によって、絶滅した生き物がいても知らん顔。それでいて、綺麗な花をつける植物には農薬を撒いてでも増やしたいという人もあらわれたりする。それはもはや「お花畑」であって、別に自然を大切にしているわけでもなんでもないのだ。

 さらに言えば、そういう植物の盗掘を恐れて、人が立ち入ることを禁じ、頑丈な柵まで作って関係者以外はそこがどうなっているのか見ることすらままならない状況にしているのを見ると、何のために、誰のためにやっているのか?と思ってしまう。

 ある「人からきいた話し。とある市で、とある森に貴重な自然が残っているというので、市が市民の森として「整備」することになったという。そこで、市民の森発足のために市長さんを始め、偉い人がやってくるが、「こんな汚いところにお偉いさんがやってくるんじゃあ、いけんじゃろう」といって、地元のオッサン連中が総出で整備しまくって、貴重な植物も刈りまくり、コンクリートの歩道まで作って....こうなってくると、もう悲劇としかいいようがない。

 Koen20080211002 うちからそう遠くないところに、こんな看板がある。ここには、かつて広い広い里山の中にあった池と、その周辺に流れる小川があったのだ。かなりの昔から、人々に愛されてきた。多くの人がここを訪れて、ここにこんな素晴らしい自然があることに感動したものだ。それが、心ない人に「発見」されてしまったから悲劇である。「さあ、ここをみんなの憩いの自然公園に整備しましょう」といって悲劇が始まる。この看板、良く見ると、字が一文字消されているが、これ、なんだかわかるだろうか?

「釣り」という字が消されているのだ。その証拠に、この看板のすぐそばには、

Koen20080211003 こんな「つり禁止」の立て札が。ここは、もっと酷くて、整備するといって、ここの水を抜いて魚をほとんど皆殺しにした挙句、いつのまにかブラックバスとかブルーギルとか、そういった魚が放流されているのである。ここにかつていたメダカもドジョウもフナも絶滅した。なぜなら、近くの小川は公園整備によって、こんな風になっているのだから。Koen20070311 周辺は落葉樹がいっぱい植えられたから、秋になると落ち葉がこのコンクリート水路に落ちる。そうすると、コンクリートだから分解される筈もなく、ヘドロが溜まる。そして、「環境を綺麗にしましょう」とかいって近所の人がやってきてドブサライをする。そうすると、一時的に綺麗になるから「環境に良いことをした」と思う人々。おかしいでしょう!それ!

ああ、ここにはカワセミが来るよ。カワセミ。だって、魚放流してるからね。カワセミがいれば自然が豊かなの?違うだろう、それ!

 また、少し離れているけれど、これも近所の公園。ここは、もともと溢れんばかりの生き物が力強く生きていた場所。なのだけど、今はこれ。Koen20070211 公園です。池が見えるけど、これ「トンボ池」って立て札がある。ここにはすでにミシシッピーアカミミガメがいる。もともとこの周辺にはクサガメが沢山いたのに、ここにはもういない。

 そうなのだ。まず、人々の自然に対する感性がおかしなままでは、「大切にしよう」といった途端に、おかしなおかしな方向に進んでしまって、せっかくの自然も消えてなくなるのだ。そりゃあイケン!そりゃあイケン!

Koen2007120201 はるか昔から多種多様な生き物が、ずっと命をつないできた水辺。それが、公園として整備されて、根こそぎなくなり、そうして、その水辺につながっていた森も消えてなくなった。消えた森を子供を連れて歩いている人。この人は何を考えているのだろう?私には悲しい光景に見える。Koen20080211001 自然は荒廃なんかしない。荒廃しているのは人間だ。人間の自然に対する感覚が荒廃しているのだ。そのままでは、やがて本当の荒廃がやってくる。人間の荒廃に荒廃させられてしまう自然。地球。そりゃあイケン!そりゃあイケン!それをなんとかしなければ、私のライフワークは完成しない。

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