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2012年4月

2012年4月30日 (月)

カエルを駆除しようと思う前に考えることはないのか?

Kaeru20050718 散歩道プロジェクトに「そんなにカエルを駆除したいのか?」という記事を載せて、一躍有名になったのが2008年のことだった。それから、毎年、この季節になると出てくる出てくる。「カエル 駆除」で私のブログを検索してやってくる人々。何らかのワードで検索して私のブログにやってくる人の上位はこの時期になると「カエル 駆除」「カエル駆除方法」「かえるうるさい」などで占められることになる。このことをどう思うだろう?あなたはどう思うのか?

2009年には「それでもカエルを駆除したがる人々に告ぐ」という記事を書いたし、2010年にも「カエルの駆除方法を調べて、結局どうした?」という記事を書いた。いずれもかなりのヒット作になった。

 それだけ多くの人の目にとまる記事となれば、色々なご意見をいただくようになるが、的外れなものも多い。「外来種のオオヒキガエルなどの駆除はむしろするべきだ」とか、「人に危害を加える生き物を駆除しないのか?」などが代表的なものだろうか。私の文章をよく読んでいただければわかるのだけど、別に外来種であったり人に危害を加えるような状況があったりして、駆除が必要な場合の駆除をこれっぽっちも否定していない。しかし、考えて欲しいが、そもそも、人や生態系に害を及ぼすほどのカエルとか、外来種カエルに悩まされている地域が日本の何パーセントの地域なのだろう?それは例外というでしょう。そんなことに対して言っているわけではありません。わかるでしょう。お願いしますよ。ホント。

 何度も何度も繰り返し言わなければわからない人がいるから言うが、私が問題にしているのはずっと一貫して、「カエルの声がうるさいとか、カエルが気持ち悪いとか、そういうだけの理由で、駆除剤のようなものを撒いたりしてカエルを駆除したいと考える人々」のことだ。これについてあなたは「問題ない」と言えますか?

 中には、「カエルを見ただけで気絶しそうになる程カエルが嫌い」という人もいた。そんなにカエルが嫌いだったら、それはそれで日常的に困るだろうとは思いますよ。でも、だから「カエルを駆除する」のですか?むしろ、気絶しそうになる程カエルが嫌いなことが問題なのでは?そっちをなんとかしようと思わないのですか?

 まあ、実際には稀なケースで、カエルが嫌いでもなんでもないのだけれど、カエルが寄りつくと日常生活などに支障をきたす場合もあるようなので、それはそれで理解しましょう。そういう悩みをもった人がカエルを寄せ付けなくする方法を考えるのであれば、カエルの生態に詳しい立場から一緒に考えて差し上げますよ。

 で、前置きが長くなってしまったのだけど、(そもそも、なんでここまで説明せにゃならんのか。今の日本のクレーマー感覚は深刻だね)その、何にも考えず、「カエルがうるさいなあ。駆除できないのかなあ。駆除剤みたいなの売ってないのかなあ」みたいに考える人がいるのだよ。それも大勢。「庭に嫌いなカエルがいて困る」というふうに、意味不明に「困る」人がいるのだよ。その感覚はどうかしていると思う。私はその感覚を問題にしている。その狂った感覚に、もっともっと問題意識を持ってもらいたいと思って挑発しているのだ。

 その前に、今の日本のカエルが置かれている現状に目を向けて欲しい。私の散歩道フィールドでもここ数年の間に1/10にも数を減らすニホンアカガエル。ごく普通に身近にいたカエルが、もはや絶滅の危機に瀕している。これが現実。

 ところで、先日から、トキの雛が自然の中で孵ったといって話題になっているが、トキは私たち日本人が絶滅させてしまったのだ。今、保護されているトキは中国からもらってきたものを繁殖させたもので、日本のトキは日本人が絶滅させたんだ。そのことの認識が甘すぎる。絶滅した生き物をあとになって復活させようと思ったって、そう簡単にはいかないということだ。

 気付かないかもしれないが、日本には絶滅寸前のカエルが多数いる。なにも大自然の中で暮らすカエルではなく、ごく身近にいる里のカエルがである。私の身の回りを見ても、ニホンアカガエルとアズマヒキガエルはごく普通の身近なカエルから、絶滅寸前のカエルになってきている。それが現実なのだ。カエルを保護しようとする人々は、それを何とかしようと、ああでもない、こうでもないと、色々頭を悩ませているのだ。

 カエルだけではない。ごく普通に身近にいる生き物がどんどん姿を消している。だいたい、そのような場合、ある地域でどんどん数が減り、その地域で絶滅し、絶滅した地域がどんどん増えていき、最後に「ああ、もう、ここにしかいないじゃないか!」という状態になる。たいてい、世間一般の人々はその最後の「ああ、もう、ここにしかいないじゃないか!」の状態になってようやく騒ぎ出すのだ。実際には私はカエルをずっと見てきたので、身近なカエルが、今まさに、その順番に絶滅への道を歩んでいることがよくわかる。

 それが現実なのだ。それなのにあなたは「カエルがうるさいのぅ。薬でも撒いてカエル全滅させちゃろうか」と思って、ネットで「カエル駆除」で検索している。その安易な感覚。それ、問題ないですか?

 別なパターンもあった。都会の公園の池でシーズンになるとカエルが鳴く。そうすると、近所の人が「カエルがうるさいからなんとかしろ!」と公園管理事務所に怒鳴りこむ。そうすると、公園管理者もめんどくさいから「駆除」する。たまたま、ヒキガエルの卵があったから、「ああ、こいつがいけないんだ」と思って卵を取り除いて、捨てる。これ、どうですか?問題ないですか?

 それでいて、「地球にやさしい」とか「エコ」とかがいいのですか?あなたの生活を「地球にやさしく」したいのですか?おかしいでしょう。CO2排出を減らしたから、カエルは駆除してもいいのですか?おかしいでしょう。

 おかしいのです。日本人の自然に対する感覚が狂っているのです。それは、身近な自然を見て、身近な生き物と接し、日常的に身の回りの生き物を感じて、生き物とともに生きる感覚がなくなっているからです。それは、生き物を遠ざけること、自然と切り離された生活こそが進歩だと思いこんでいるからではないですか?自然を破壊しないと人間は生きていけない、進歩がない、と思いこんでいるからではないですか?いつからそんな風に思うようになったのでしょう?それは、そのように思いこませるように仕込まれているからなのではないですか?もし、身近な自然に色んな生き物があふれていて、それを感じながら生きることが幸せだと思っていれば、その身近な自然を守ることを考えるのではないでしょうか?身近な自然を感じたり、守ろうとしようとしたら困る人々もいるでしょうね。そこには、今、みんなが電気を節約したら原発が要らなくなって困る人がいて、必死こいて人々を洗脳しようとしている人々がいるのと同じ構造が見えます。そんな風になっていいことがありますか?あなたはそれでいいんですか?

 何の関係もないホッキョクグマを守るためにCO2減らすことに必死で、身近なカエルは皆殺しにして絶滅させるような人々が日本人の姿だとしたら、そりゃあイケン!

2012年4月 5日 (木)

人間の感覚尺度を越えるものは正しく認識できないのか?

2012040514440000東京都内、ようやく桜が咲き始めた。今週末には見ごろになるだろう。去年もだいたい同じだったが、平年にくらべると随分と遅い。そういえば、我が家ではようやく梅が散った。それ以外にも、ニホンアカガエルの産卵、アズマヒキガエルの産卵、などなど、私が定点観測している色々な生物季節の進行が普通の年より2週間から一月近くも遅い。春の訪れが遅かったのだ。

 数年前までは、どちらかというと春の訪れが早い年が多かった。年々、早くなるような傾向があったこともあり、これは温暖化が急速に進行しているのでは?と思わせる傾向だった。私自身も、なんとなくそんな気がしていたものだ。しかし、わずか数年の動きで判断するのはいささか早合点であろう。その後の数年の季節進行は実際そうではなかったわけだ。

 非常にあいまいな記憶で漠然とした話しで申し訳ないが、およそ10年ほど前、地球温暖化についてのある学者が雑誌に投稿していた記事に「あと10年待てないか?」というものがあった。CO2温暖化説が急激に騒がれるようになり、京都議定書が制定されたりと、急速な動きのあった頃のことだ。その頃騒がれていた、温暖化予測シミュレーションは不確かであり、すぐに行動にうつるのではなく、あと10年まってじっくり研究し、見定めてはどうか?ということだった。それがどう違約されたのか、「あと10年も待てない」という日本語タイトルで紹介されたこともあったと記憶している。

 今の世の中、CO2が増える=地球温暖化=環境破壊という風な理解がもう地動説のごとき明白な事実だとして認知されているようだが、実際のところ、アヤシイと私は思っている。そんなことをいうと、最近は地球温暖化の言論統制にひっかかってバスターズさんたちにやっつけられる傾向すらある。ただ、言えることは、私にとって今のCO2温暖化説は自分自身を充分に納得させられないままである。さらに、CO2温暖化説は世の中に悪影響さえ与えていると思う。少なくとも、CO2排出を減らしさえしていれば、どんなに悪いことをしていても地球環境に良いから善だとされるのは大きな間違いである。

 普通の人間は、地球規模の環境なんて想像出来ないし、CO2が増えている実感なんてないし、でも、なんとなく暖かくなっている気がするし、それで、ちゃんと説明できもしないのに、CO2=地球温暖化=悪という。少なくとも、CO2温暖化論の基礎になっている、温暖化ガスの放射強制力とか、大気の短波放射の透過性、長波放射の非透過性、といったことを説明出来る人がどれだけいようか?それは、「だれかがCO2排出増加=地球温暖化といっているから、そうなのだろう」という漠然と信じているだけであって、それは「偉い人が言っていることは正しい」ということに他ならない。だから何度もいうように、世間一般がほとんどそんなことだから洗脳だって簡単なのだ。簡単に「原発は必要不可欠」と誰かが言えばまんまと騙されることになり、なんの根拠も知識なく「○○なのだ」と偉そうに断定しまくって、なんの恥とも思わないことになるのだ。

 じゃあ、考えてみようといっても難しいかもしれない。けれど、物凄く乱暴に大雑把なたとえ話をしよう。今、一年という単位で季節がめぐってくることはみんなよく知っているし、誰も異論を唱える人はいない。これは当たり前だ。なぜなら、一生のうちに何十回と同じことが繰り返されて、同じように季節が進行することが経験出来るからだ。これがもし、季節が1年でめぐってくるのではなく、1000年だったらどうだろうか?たとえば、地球が1年で太陽のまわりを一周するのでなく、1000年で一周するとしてだ。そうすると、冬だけで250年くらいあるのだ。そうすると、冬の始めころに生まれた人は、世の中はどんどん寒くなって、植物がどんどん枯れていくという悲惨な状態だけ体験して一生が終わる。逆に冬の終わりころに生まれた人は世の中はどんどん暖かくなって、いろんなものが芽生えてくるような状態だけを体験して一生を終る。生まれた時期の違う二人が考える「世の中はこんな風なもの」というのは全く異なる。いくら、1000年の間に春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来るんだよ、といっても実感できる筈がない。そんな世の中でも、ガリレオやケプラー、ニュートンくらいに賢い人がいて、太陽や星の動きを調べて、1000年の間に春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る、それは地球が傾いて自転しながら太陽のまわりをまわっているからだ、と説明して初めて納得出来る。でも、多くの人は自分が体験している一生の間にそんなことはまるで経験し得ないから、感覚的に納得できる筈もなかろう。冬の終わり頃の時代に、誰かが、「今、どんどん暖かくなっている。このままいけば地球は灼熱地獄になっていずれ生きていられなくなる。」といったら、そっちを信じてしまうだろう。さらに、「生き物がどんどん増えてくるから、そいつらが活動してCO2を出しまくるから、そのせいだ」といったらもっと信じるかもしれない。それよりも、地球が太陽のまわりをまわっているから季節が生じているんだ、ということを誰が信じようか?

そんなことでは、やはりガリレオの宗教裁判とたいしてかわりない。人々はそんな程度にしか賢くなっていない。そりゃあイケンじゃろう!と私はいつも言っているのだ。これを乗り越えなければ人類は進歩しない。そこが今の世の中には足りない。情報が氾濫する世の中の危うさ憂う人が、本当に心配すべきはそこだと思うのだが。

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