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2014年12月 7日 (日)

ほんの少しの力でも、私たちに出来ることを

私が、「散歩道プロジェクト」を始めたころに強く感じて、散歩道日記に書いたこともあったエピソードをふと思い出した。それは、近所の自然の中を一緒に歩いた友人が何気なくこういった。

「ここにこんな自然があったこと、あと何年かしたら誰も信じなくなるかもなあ」

友人には特に意図があったわけでもなく、心に浮かんだことを単に発しただけなのだろうと思う。しかし、私にとっては衝撃的な言葉だった。私たちが大好きなこの自然。それが消えてなくなることは、ごく当たり前の世の中の流れであって、私たちはそれに逆らうことも出来ないのか?それでいいのだろうか?

Sabaku2010031403


私たちの世代(昭和30年代~40年代生まれ)は、子供の頃に身の回りにあった豊かな自然がどんどん消えていく中で育ってきた。だから、世の中というものはそういうものだという感覚が根底にある。いままでの人生を振り返ってみても、自然はどんどん消えてなくなるというのが当たり前であり、自然を守る、自然を残すというのは、世の中の流れに逆らう、とてつもなく大きな労力を要することのように思って育ってきた。そして、そのように世の中の流れに逆らうことは、まるで「悪」のように思って育ってきた。慣れ親しんだ自然は、どこかはかないもの。いずれなくなっていくもの、という感傷を伴った感覚で見てきた。

そんな中で「自然を大切にしたい。守りたい」というと、よく、「でも、人間が生きていくためにはしかたない....」という反論をされたものだ。果たしてそれは本当にそうなのだろうか?そんな疑問を持たずに育ってきたのだ。

だが、よく考えてみたら、まったくそんなことはないことに気付く。今、身の回りで行われている大規模な自然破壊は本当に私たちが生きていくために必要なのだろうか?誰も通らない道路、自然を破壊して更地にして作られる「公園」。数年で廃墟になるテーマパーク、ちょっと見れば、そんなものがいたるところにあることに気付く。人間が生きていくには自然はどんどん破壊していくしかないのだというのは、作られたイメージでしかないのではないかと思う。

よく、「自然を守れというのなら原始時代の生活に戻る必要がある」というような暴論をきく。その暴論があたかも正論のようにきこえてしまうのは、私たちがずっと「人間が豊かな生活を送るには自然はどんどん破壊していかなければならないのだ」という根拠のないイメージを生まれてからずっと刷り込まれているからだろうと思う。そんな中で、心の奥底では、とても嫌な感覚をかかえてきた。本当は、豊かな自然の中で暮らしたいのに、それはどこか世の中の流れに逆らう悪いこと、自然とともに暮らしているのは、古臭いダメな人、などという刷り込みの中で、何か矛盾したものを心に抱えてきた人が多いのではないか?

 なにも自然のことだけではないのである。世の中で語られている様々なこと、たとえば、原発問題にしても、防衛問題にしても、格差社会の問題にしても、「世の中の流れなんだからしかたない」「それを変えようとするのは世の中の流れに逆らう悪いこと」ということが刷り込まれている。本当はそんな世の中で暮らしたくないのに、そんなことをいうことは「悪」のイメージがあり、だからそんなことを表だって言えないし、だから、意思表示も出来ない。しかし、私たちはそれでいいんだろうか?

 私自身を考えてみると、私は今、とても幸せに暮らしていると思う。自然に親しみ、仲間がいて、楽しく過ごせている。私自身はそれでいいかもしれない。だが、子供や孫の世代にどんな世の中を残していくか。そういう責任を負っているのは私たちだと思う。それが、「世の中の流れだからしかたない。世の中そういうもんだ」という刷り込みにまどわされて、何一つ、世の中の「あるべき姿」にむかって、力を発揮しないのであれば、それは無責任というものだ。別に誰もが困難なことをやり遂げる必要はない。選挙にいって一票を投じるという本当に簡単なことでさえ放棄するというのであれば、本当に無責任だと思う。

 以前、身の回りで嫌なことが立て続けにあった年の初詣で、神社でおみくじを引いた。そこにあった言葉が私には忘れられない。こまかいことは忘れたが、それはおおよそ次のような意味であった。

「美味しいものが食べられないとか、よい服が着れないとか、そんな不満ばかり言うのではない。神はこの地上に理想の地を作るために人をこの世に住まわせた。だから、それに向かって一生懸命に働くことが人の生きる意味である」

私はこの言葉にひれ伏しそうになった。自分に出来ることは少なくとも、自分の力は小さくとも、少しでも、良い世の中になることに力を発揮するならば、自分自身が生まれてきて、こうして生きている意味がある。そう思う。

それすら思わない人は本当に無責任だと思う。まわりを見渡すと、なんだか、そんな人ばかりだと思って絶望したこともあった。しかし、人は善良な部分を必ず持っているのだということも、最近よくわかってきた。ただ、おかしな刷り込みでまどわされていたり、自分の力ではどうしようもないと思っているために、自ら蓋をしているのだと思う。少しでも力になるなら、出来ることをやるしかないではないか!やろう!

2012年11月13日 (火)

「つり禁止」の意味

前にも書いたことがあったが、近所の公園にこんな看板がある。Koen20080211002 この看板を作った人は、まさか、私がこんなにあちこちで「悪い例」として紹介することなんて考えたこともなかったろう。

まず、「自然観察のできる公園に整備」とあるが、その実態は次の写真の通りである。Koen20070311 これを見て「なんだこれ?」と思ったあなたの感覚は正しい。ここにはもともとメダカもドジョウもいたのだ。それをこんな風にコンクリートで固め、なんだか知らないけれど、渓流風の石を並べた。たぶん、これを作ろうと思った人の自然のイメージなのね。しかし、底はコンクリートに石が敷き詰められており、これは私は「露天風呂」と呼んでいる。こんな風にして魚が棲めるわけがない。当然ながら、ドジョウもメダカも絶滅した。さらに、この周辺に落葉樹があったりするから、そうすると、落葉の季節になると落ち葉が水路に落ちる。すると、コンクリートの底にたまった落ち葉は分解されないから、やがてヘドロのようになる。そうすると、ここをドブサライをやろうということになる。ドブサライをやって綺麗になったら、「ああ、綺麗になった。環境が良くなった。」と勘違いも甚だしい人々が出てくる。なんてこった!

だけど、ここにはカワセミが来るという。何故か?魚を放流する人がいるから。魚を放流して、ああ、魚が棲める水辺が出来た、よかったよかった、となる。それ、どこが自然なの?魚を放流して餌付けをする人がいるからカワセミもどこかから来るでしょう。カワセミみたいな綺麗なものがやってくると、都会からやってきたなんにも知らない人々は「ああ、素晴らしい自然がある」となる。それを見て「自然観察」という。あなた方、「自然」を見たことがないのだね。

まあ、「自然観察が出来る公園」を目指すなら、自然とは何?自然観察って何するの?くらいはちゃんと勉強してからやったほうがいい。まあ、もっとも、そんなことはこれっぽっちも考えないでやったのだろうけど。

さて、最初に紹介した看板、よく見ると一文字消してある。これが笑える。

「釣や自然観察が出来る公園に整備....」

と書いているのに、「釣」という字が消えている。なぜならば、この看板を見て、後ろを振り返るとこんなだから。Koen20080211003 ここの池は「つり禁止」なのである。

なんだそりゃ?池があったら釣りしたくなるでしょう。普通に鯉やフナなどが棲んでいたら、釣りたくなるでしょう。大丈夫、大丈夫、どんな小さな池でも多少釣ったくらいで魚は絶滅したりしないよ。だって、俺、子供の頃、ここより小さな池でしょっちゅう釣りやってたもん。同級生の友達も釣り竿もってフナ釣って、学校に持って行って、解剖したり、焼いたりしたもん。でも、ここは「禁止」なんです。

何故か。

理由は二つあると思う。

その1.釣りする人が釣るためにブラックバスなどの魚を放流したりするからさ。

放流した魚を釣って嬉しいの?よくわからん。よくわからんけど、そんなものを「釣り」だというなら、釣りという文化が悲しいよ。釣りってそんなもんなの?

その2.たぶんだけど、「善意」でメダカとか鯉とか放流している人がいるんじゃないかな?と思うよ。だから、ここはもともとメダカが普通にいたんだって。それを「整備」して絶滅させておいて、放流はないでしょう、もう何やってるの!ってことですよ。でもって、それを釣ろうとする人がいるもんだから、「おいこら、俺が放流した大事な魚を釣るな!」となる。困った人たちだ。

実際のところ、この周辺が大規模に開発されるずっと前に、この池を見て「素晴らしい」と思っていた人は沢山いる。そして、現状をみて悲しむのですよ。そういう人が沢山いる。その反面、なんだか田舎臭くてきたなかった池を「綺麗にした」と思っている人もいる。「もっと綺麗に、もっと綺麗な魚」なんて思っている人も沢山いる。さてさて、あなたはどちらの人々なのか?

「生き物を大事にしよう」ということと「自然を大事にしよう」ということは、似ているようで大きく違う。放流した鯉やメダカを大事にしても、自然を大事にしたことにはならないどころか、むしろ害になる。自然を大事にするということは、そこの環境がどんな環境であれ、そこで暮らす生き物の生活を大事にし、そこの生き物たちのつながりを大事にし、尊重するということである。綺麗な鯉は大切にするが、汚い魚、ヘビ、虫、ムカデ...そういう一般に気持ち悪いものは絶滅させるというのであれば、一から出直した方がいい。そういう考えでもって「自然観察の出来る公園を整備」というなら、即止めたほうがいい。自然に対して何もよいことはない。そのことがわからなようなら、そもそも、何もしない方がいい。

水辺があって、「釣り禁止」になっている時点で自然環境としてはもうダメでしょう。子供たちが虫を追いかけたり、水辺で釣りをしたりする環境をちゃんと残して大切にするってことが、自然を大切にして、後世に残していくということではないのですか?自然観察が出来る場所が欲しいなら、そういう場所をそういう風に大切にすべき。いまだにそんなことが考えられん人がいっぱいだよね。だから私は繰り返し「そりゃあイケン!」というのです。

2012年9月17日 (月)

マナーを守らないからといって、どんな非礼なことも許されるわけではない!

Keitai20120916先日、通勤時間帯に電車が止まっていた。駅には人があふれ、職場に携帯電話で連絡する人多数。私の目の前にいた年配の男性は、どうやら毎朝職場に一番に行き、職場のセキュリティーを解除してカギを開けるというような役割を担っているらしく、職場の人に手順を一生懸命携帯電話で説明していた。一通り説明しては電話を切るのだが、しばらくするとまたかかってくる。そのたびに何度も何度もけたたましく携帯の着信音が鳴る。最近は少なくなったが、年配の人で、いまだに電車の中で携帯電話をマナーモードにしていない人がいる。特に都会では、携帯電話会社が携帯電話を渡すときに、マナーモードへの切り替え方、戻し方をしっかり教えておいて欲しいと思う。まあ、それはともかく、しばらくするとようやく電車が来た。ギュウギュウ詰めの電車に乗り込む。先ほどから、何度も電話をかけまくっている年配の男性も乗ってきた。

 ギュウギュウ詰めの車内でその年配の男性の携帯電話が鳴る。そして男性は携帯電話を取り出し、話し始める。私はちょっと注意しようかと思ったが、思いとどまった。今は非常事態なのだ。ギュウギュウ詰めの電車と同じく、少しの間、ガマンすればいいだけのこと。男性も、電話の向こうの職場の人も困っている様子だから、少し我慢して協力してあげよう。そう思った。

 電車の中で携帯電話で通話するな、というルールが出来てから久しい。急激に携帯電話が普及して、誰もかれもがところかまわず携帯電話で通話するようになり、そのことが問題となった。最初は「電車に乗る時は電源を切れ」と言っていたものだ。その頃、一日のうちのかなりの時間を電車に乗っていた私は、「これじゃあ、携帯電話が使える場所がないよ」と思ったものだ。やがて、「電車の中ではマナーモードにして通話はするな」にかわっていった。

 今は、むしろ携帯電話で「通話」することが稀になった。携帯電話で通話しているのはほとんど年配者。若者はほとんどメールだ。いや、よく見るとゲームをしているやつも多い。たまに、電車の中で着信音が鳴ると、たいてい年配者だ。そして、たいてい、話し始める。良心的な人は、小声で「いま電車の中だから」と言って切る。そういうのがマナーになっている。世代によって、微妙にそのあたりのマナー意識が違うが、まあでも、ほぼ定着しているのではないかと思う。

 そんな中、新幹線の中では「通話はデッキで」となっている。長時間の乗車を強いられる新幹線。電話したいからといって途中駅にちょっと降りて電話するというわけにもいかない。かつて、新幹線のデッキには公衆電話があった。そもそも、電車の中ではどんな場合でも電話するなというのであれば、新幹線にかつてあった公衆電話はあり得ないものになってしまうだろう。そういうわけで、新幹線に乗車中に着信があると、デッキまで歩いて行って、そこで電話するということになる。

 ところが、帰省ラッシュ時などの非常に混雑した車内では、そもそも、歩いてデッキまでいくということが困難な場合がある。そういう場合はたいてい席で小声でまわりに配慮しながら話すというのがマナーということになるのだろう。明確にどこかにルールが書いてあるわけでもないが、自然にそのようにしていると思う。実際、帰省ラッシュ時などの尋常ではない混み方の時には車内アナウンスでも「通話はデッキで」とは言っていない筈だ。「まわりの方への配慮をお願いします」などと言っている筈。まあ、そもそも、電車の中の携帯電話の使い方というのはマナーなのであって、法律で禁じられていることでもないのだし、マナーというのは、まわりの人への気遣いそのものなのだ。

 ところが、「電車の中で携帯電話で通話するな」ということが、絶対的ルールのように思うやつも多くなってきて、そんなことでトラブルに発展することも多いと思う。

 数年前に、娘を連れて二人で帰省した時のこと。その日も新幹線は非常に混んでいた。そんな中で、私の携帯電話に着信があった。仕事上の非常事態発生で、誰にも連絡がつかないということで、私の携帯をたよりに電話してきた奴がいたのだ。デッキまで歩いていこうと思えばいけなくもなかったが、混んでいたし、娘を一人置いてデッキまでいくというのも少し気がひけた。少しの間ならと思い、小声で通話していた。そうすると、前の座席に座っていた年配の男性が私のところにいきなりやってきて大声で

「いいかげんにしろ!」

とどなった。私は慌てて電話を切り、人をかきわけながらデッキまでいった。「なんだよ、この馬鹿野郎!」と思ったが、デッキにいる間に、こいつにもっと恥をかかせてやろうと思った私は、そいつのところにいき、まわりに聴こえるような大声で、

「携帯で通話して申し訳ありませんでした!」

「でも、仕事上の非常事態だったんです。」

「混んでるし、デッキまで行くの大変だし、すぐに終わると思ったんで」

「でも、いきなり怒鳴らないで下さいよ。怖いでしょう。」

と言ってやった。大声で。

ごく普通のオッサンだったけど。それには何も言わなかった。オッサンは無言で次の駅で降りた。奥さんも一緒だったけど、奥さんもずっと無言。

 これだけは声を大にして言いたい。マナーとは気配りであり、相手のことを思いやることが何よりも大事だ。電車の中でちょっと携帯電話で通話したからといって、いきなり見ず知らずの人に怒鳴り散らかされて良いものではない。それが社会常識というものである。よく考えてごらん。他人にぶつかったりすれば、それは迷惑をかけることになるわけで、そうならないように注意はしなくてはならないと思うが、電車が揺れた際によろけてちょっと体が触れただけで怒鳴り散らかす人はどう思いますか?携帯電話で通話しただけでいきなり怒鳴り散らかす人も同じでしょう。あなたですよ、あ、な、た!あなたこそがマナー違反であり、社会常識を逸脱した行為、責められるのはあなたですよ。

 一般的なマナーを守っていない人がいたとして、その人の事情も配慮せずに、いきなり見ず知らずの人に怒鳴り散らかすようなことが許されてよい筈はない。携帯電話だけではない。まわりを見渡せば、そんなことが沢山あるだろう。相手のことを思いやる心。よく「それは大切だ」というが、本当のところはどうなんだ?子供の声がうるさいといって怒鳴りこんでくる人がいて、子供を外で遊ばせることが出来ない世の中でもある。そんなことだから、まわりのことにビクビクしながら生活しなきゃならなくなるんだよ。マナーマナーというくせに、まったく思いやりのかけらもない奴が多すぎる!そりゃあイケン!

2012年9月 6日 (木)

人間は書いてあることが全て正しく読めるわけではない

ちょっとこのブログの更新に日にちがあいてしまった。まあ、毎日のようになにかと「そりゃあイケン!」と思っているのだが、夏の間は色々と忙しかったのだ。

それはさておき、一時期、よく仕事で京浜東北線の電車に延々と乗って移動することがあった。午後の眠い時間、電車も比較的空いているから、普通に座れたりして、ウトウトする。そして、「はっ!」と目覚めて、電車の中のディスプレイを見る。「ああ、いかん!乗り過ごしたか!」とビックリすることがしばしばあった。それは、まるで、わざと騙しているんではないかというような表示なのだ。

まず、電車が走っている時はこんな表示になる。

Dsc_0011 これは、どういうことかというに、上の大きな文字で次の駅を示している。ここで、「Oimachi」とあるのは、よく見ると、Nextの文字が左にあって、次が大井町であることを示している。

それで、この電車が大井町駅についた途端にこうなる。

Dsc_0012 あれあれ?Omiya??いつの間に大宮までいっちゃったのだ??

と思うだろうが、これはよくみると左に小さく「for」と書いてある。つまり、「大宮行き」ということなのだ。

これでは間違うなという方がどうかしている。たしかに、上のやつはNextとちゃんと書いてあるし、下のはforとちゃんと書いてある。が、あまりに小さく目立たない。これじゃあ間違うよ!JRさん!

そもそも、行き先を表示する場所と、現在の駅を表示する場所が同じ場所で、しかも同じ文字の色、同じ文字の大きさってあり得ないでしょう。並べて書いてあっても、どっちがどっち???になるよ。

こんなもの、設計ミス以外のなにものでもないよ!

人間は書いてあることを、全て正しく読んで判断するわけではない。だから、取り扱い説明書にはやってはいけないことは大きな時で目立つようにかいてあるし、簡単な言葉になっている筈。

そういう基本を理解しないで作るとこんなことになる。実は、世の中見渡すと、こんな風なおかしな表示が沢山ある。これ、小学校あたりでマジメに教えた方がいいと本当に思う。まあ、難しく考えなくても、これを見る人がどう感じるか?どんな風にとらえるか?ってことを、ほんの少しだけ想像したらわかりそうなもんだ。

危険察知能力とか安全意識がなさすぎる人のことを過去にも書いたが、想像力の欠如は色んな弊害をもたらすのだな。

2012年7月24日 (火)

きれいなものカワイイものを贔屓することのどこがエコなのか?

Yamayuri20120716 ヤマユリは美しい花である。自然の中を散歩していてこの花に出会い、その香りを感じ、美しい花を見ることができると、この花を咲かせている自然の素晴らしさを感じ、だからこそ、この自然を大切に守っていきたいとは思うのは確かだ。だが、時に、人々はその気持ちが行きすぎる。

 この自然の中で、際立ってみえる花。それは昆虫をひきつけるためにその美しさが備わっているともいえるわけだが、そこだけに目を奪われて、「この花を守りたい」と思った途端におかしなことになる。以前、里山に自生するヤマユリを保護するといって、ヤマユリを食べる昆虫を憎み、殺虫剤を撒きまくり、弱いヤマユリの茎が風で倒れるのを防ぐのに支柱を立てたりする人がいて唖然としたものだ。ああ、花といえばそういう感覚なのだと思った。これは、花壇の花にやることであって、自然に自生している花にそんな風に接することは、非常に違和感があるし、それでは自生しているこの素晴らしい花を台無しにしていると思った。

 ヤマユリは、自分の力で芽を出し、天敵である虫とも闘ったり、大雨、暴風といった天災とも闘いながら、一生懸命生きて、美しい花を咲かせる。それは自然の奇跡である。その花を咲かせるために、咲くことが出来なかった沢山の花があっても、それは自然成り行きであり、であるからこそ、ここでこうして大輪の花を咲かせている素晴らしさがあるというものだろう。そうして少しずつ大きくなっていき、一株に咲く、花の数も増えていく。大輪の花を沢山咲かせているヤマユリがあるなら、それは、厳しい自然のめぐりの中で、ほんの一瞬見せる奇跡であるからこそ素晴らしいと思うわけだし、そういう花を育む自然全体に対して、素晴らしいと思うことになるわけだ。

 ところが、これ、人が手を加えて、大輪の花を沢山つけるヤマユリがあったとしても、それはそのヤマユリを育てた人に「ご苦労さん」と言うだけのことで、だからなんなの?花壇に植えて、殺虫剤撒きまくっておればもっとなんぼでも咲くじゃろうが?と思える。言ってみれば、そういう「よかれと思った」行為によって価値が暴落する。

 「綺麗な花が沢山咲けば良いことだ」というような安易な価値観ですぐ行動を起こすから、おかしなことになる。その地に太古の昔から自生している地味な草をことごとく刈りとって、何の関係もない園芸種、最近ではコスモスやらマリーゴールドなんかがよく植えられるが、そんなのを植えて、ああ、一面に綺麗な花が咲いたね~、といって喜んでいる。見る人も見た目に綺麗であれば、それが環境が良くなったと勘違いするから、「よいことをしている人がいる」と勘違いをする。これ酷いよ。見た目に地味な植物が太古の昔からそこで命をつないできていて、そこはその植物にとって貴重な生息場所、とても微妙な生息環境があったのに、それをブルトーザーで根こそぎ壊滅的に破壊しておいて、その地とはなんの関係もない植物を植えるのだから。そして、人々に、「ほら、綺麗になったでしょ」とアピールする。それで人々はその見た目に騙される。そりゃあイケン!

 いや、園芸種でなくても自生種でもそういうことがある。ヤマユリもそうだが、千葉県あたりではカタクリなどがそういう運命にある。綺麗な花を咲かせる自生種。それも、生息環境が微妙であって、自生する場所が限られるようなものがあると、そいつを守ろうと、それ以外の雑草やらはことごとく敵視して排除する。そして、その雑草が繁茂する場所を生息場所にしている生き物はことごとく絶滅の淵に追いやっておいて、「綺麗な花を咲かせる植物を守っています、だから、私たちは自然を大切にしています」って、馬鹿言うな!ていうんだよ。イケン!そりゃあイケン!

 以前、「ホタルの季節に考えたいこと」という記事も書いたが、同じようなことが言える。たとえば、西日本のゲンジボタルと東日本のゲンジボタルを比べると、色々な点で特徴が異なり、たとえば光の点滅の周期が異なっているなどという特徴があったりする。もともと、それほど遠くに飛んでいくことのできないホタルであるから、ホタルの遺伝子も地域でかなり差異が出来ている。しかし、今、関東地方では、どちらかというと西日本のゲンジボタルの特徴をもったホタルが圧倒的に増えているということだ。ホタルを放流して「綺麗なホタルを増やした!」という。そうすると、なんにも考えない人々は「ああ、綺麗なホタルを増やしてくれてありがとう。綺麗なホタルを見ることができた」といって喜ぶ。喜ぶということは、そういう行為をしている人のことを「良いことをしている人々」と無条件に思ってしまう。だが、そういう行為によって、東日本のゲンジボタルの特徴を持ったホタルが絶滅の危機に追いやられているということを知ったらどうだろうか?それでも「綺麗なものが見られるのだから良い」というのだろうか?これはその地に固有な野生生物という貴重なものを取り返しのつかない程に酷い状態にしていることに他ならないのだ。

 また、放流したホタルが命をつなぐことが出来ないような場所に放流して、死に絶えるホタルを増やすだけの人々や、ホタルを守るといって、ホタルの天敵など、ホタルを増やすためにはホタル以外の生物のことなど知ったこっちゃない、というか、ホタルの害になるような生物には絶滅してもらわにゃならん、とでも言い出しかねない人々もいる。

 それでも、「そんなことは知ったこっちゃない。わしらは、美しいホタルを多くの人に見せて、それで喜んでもらえばいいのだ」と言い張る人すらいる。それで本当に良いのだろうか?多様で複雑な日本の自然をズタズタにしておいて、綺麗に光るホタルが見れればそれでいいのか?といいたい。

 そんな人々のやっていることは、「綺麗な花が咲く公園を作りましょう」といっていることと同じだ。うちの近所でもあるよ。様々な生き物がたくましく生きている里山を更地にしておいて、そこに芝生を植えて、園芸種を植える。それで「みんなが自然にふれあえる公園を作りました」と言う。そりゃあイケン!私は断固反対する。そんなことしなければ生きられない人々であるならば、そこから考えなおさにゃならん。

そういや、どこかの誰かが、「かわいい動物や綺麗な花を咲かせる植物だけを守ろうとするために、ちょっと気味が悪かったり、地味で綺麗ではなかったりする生物がどんどん絶滅している」といっていた。そりゃあイケン!そりゃあイケン!

近所のエライ人が「里山を四季折々の花の咲く公園に」とか馬鹿なことをいって(といっても、普通の市民感覚からしたら、良いことなのだろうけど)、やらんでもええのに、言ったからにゃあ公約じゃ~ゆーて、わたしゃ~こんなに仕事しょーるんですよ~ゆーて、アリバイ工作というどうでもええことのために、実際に実行にうつしやがった。そうして、里山ぶっこわしてそこにソメイヨシノを植えて公園作ってお祭りやったりしてたね。そのために樹齢百年はあろうというヤマザクラを伐り倒してもなんの罪悪感もないという。百年かけてこの地が育んできた自然の植物を殺しておいて、どっかからもってきたソメイヨシノですか?そりゃあイケン!Sakura2012071401

2012年7月 9日 (月)

自分で見て、自分で考えること

 さすがに、いまとなっては珍しくはなったが、いまだに、「トマトジュースで痩せる」で検索してこのブログに来るひとがいる。たまに「トマトジュース、痩せない」で検索してやってくる人もいる。ああ、そりゃ、痩せませんって。実証済み。

 もう昔話になってしまうが、以前は「みのもんたがテレビで言っていたか否か」が健康に良いかどうかの基準であるという話しがあった。まさにそんな人がいまだにいた。先日のトマトジュースダイエットでは少しは学習効果が現れてきたようだが、まだまだそんなもんである。

 いつの頃からか忘れたが、書店におかしな詐欺まがい本(トンデモ本とよくいわれる)が沢山並ぶようになった。たいてい、「○○すると健康によい」とか「成功するための××」っていうようなタイトル。まあ、こういう本が良く売れるから、出版する方も商売としてはこういうのいっぱい出して儲けるってことになるのだろう。私も試しに、いくつかの本を買って読んだことがあるが、だいたい途中で投げ捨てたくなる。「おいおい!」と突っ込みどころ満載である。特に「科学的成果」をうたっているものがかなりアヤシイ。だいたい、何かの実験結果があって、それについてかなり拡大解釈して「~だから、こうすると良いのである」的な論調。実験の細かい条件や背景などは適当にごまかす。時には、しょーもないたとえ話、寓話の類になっていたりもする。こんな本、大人が読んで「感動した」なんて言うんだから、世も末である。

 実際に、タイトルにあるような物凄い成果を実現して言っているのならまだしも、ちょこっとだけ効果があったように見える事例だけを紹介して、いかにも「これが真実である」のように言っているものがあまりに多い。こんなもんで洗脳されたらロクなことにはならんね。

 本当に立派な成果をあげている人がいたとして、その偉業にいきつくまでのことはそんな一言で言いあらわせるようなものではないというものだろうし、本当に凄いなと思う人は、物凄く多面的にいろんなことを考えて常にその場その場で判断して行動していると思う。「この本読んで、この通りにしたらノーベル賞級の成果が出た」な~んて人がいたら、その人はかなりの確率で詐欺師であるし、「これだけやったら健康になった」「これをやるだけで簡単に痩せた」というのも同様である。

 現代のような詐欺師だらけの世の中で、どうしたら騙されないで生きることが出来るだろうか?それは、物凄く当たり前のことになるが、まずは自分の眼で見て、自分で考えることである。簡単なようで、実は難しい。自分の眼で見ているようで、他人の言っていることをただ鵜呑みにしているだけだったり、自分で考えているようで、他人の考えの受け売りだったりするのではないだろうか?そこには、ほんの少しだけ「科学」が必要であると思う。「科学」には正しいことと誤ったことを選別する方法論がある。私たちは、このことをしっかりと身につけようではないか。そうしないと、詐欺師の都合のよいように騙されるだけである。右の詐欺師に左の詐欺師。どっちもどっちなにのに、どちらについていくかはどっちの声が大きいかとか、言っているヤツが悪いやつだとか、良いやつだとか、そんなあてにならないことを基準にしたらエライコトになる。

 世の中、「ヒッグス粒子」発見か?と話題だが、あんなとんでもなく目に見えないものが存在するということを科学的に証明するにはどうしたらよいのだろうか?それが科学的に証明できるということはどういうことだろうか?それが、どこかの誰かが勝手に言っていることとどう違って、何故、科学で判明したといえるのだろうか?そこを今一度考えてみてほしい。

 ところで、私は何度もいうけど、「あなたは天動説か地動説か?」

 たいていの人は地動説であると答えるだろう。太陽の周りを地球がまわっている。これはなにも主義主張の違いではなく、科学的事実に基づいている。これは人類が長年、科学という方法論で獲得してこれたことなのである。

 では、何故、天動説ではなく地動説が科学的に正しいと言えるのかということを今一度考えてみて欲しい。それにスラスラと答えられなければ、あなたは地動説を知識として知っていても理解していることにはならない。そんな人々が今、裁判をやったら、ガリレオの宗教裁判と同じことが起きる筈だ。まったく進歩していない。だから、「そりゃあイケン!」というのだ。

 では、何故、科学的な思考方法を身につけなければならないのか?

 それは、真実は何かを見極める力を得ることだからだ。

 原発問題にしてもそうだが、私たちは、将来こんな世の中にしたいという将来像をもつべきだと思う。その将来像が本当によりよい未来となって、よりよい未来を実現していくためには何をしたらよいか?は、まず、今この世の中の真実を見極めて、判断を下し、行動していくことだ。「トマトジュースで痩せる」程度のイカサマに騙されていたら将来ろくなことにならんじゃろう。そりゃあイケン!

2012年6月23日 (土)

まともに環境教育なんて出来もしないんならするんじゃない!

Hotaru20120617 テレビのニュースでどこか都心で子供たちに環境について考えるイベントを云々というのを見た。「おおっ、また意味のないことやってるな」と思ったら案の定だった。たんなるフリーマーケットみたいなもの。子供たちが不用品を持ち寄った子供たちのフリーマーケット。たったそれだけのこと。これでどうして環境について考えることが出来るというのだ?「ゴミを減らすから環境にいいことをするということになるだろう」ということを言うひとがいるかもしれない。じゃあ、それでどうしてどうやって環境が守られるのか?具体的に述べよ。実際に参加した子供たちにどういう環境をどんな風に守る意識ができたのか?という問いにちゃんと答えられるのならね。それで、どこのどういう環境がどんな風に守られたのですか?

 だいたい、ほとんどの大人が環境教育なんて出来っこないんだよ。だって、環境なんて考えたこともない奴ばかりだもの。とってつけたような環境教育。それで、何がどう役に立つのか?実際にそういうことをやっている人自身、自問自答してごらん。ちゃんと、具体的に何がどうなって環境を守るとか、環境について考えることにつながるのか答えられますか?ただ単に、ゴミを減らしたり、リユースすれば環境に優しいのだと思いこんでいるだけでしょう。そんなもの百害あって一利なし!なぜなら、単に不用品をリユースするだけで環境に良いことをしたと錯覚をすることになり、本当に今、自然環境がどんな状況にあって、その環境のためにやらなければならないことは何なのか?ということをまったく考えなくなってしまうからだ。

 はっきりいって、リサイクルやリユースは思考停止のためのツールでしかないのだよ。だから、前にも言ったけど、「牛乳パックからうちわを作る」というようなむしろ害になる(リサイクルされるべき牛乳パックが余計な加工されて新たなゴミを増やすし、牛乳パックを全部うちわにしたら、不用品を増やすだけ)ということなんて考えもしないことになる。(それが、国家的一大イベントの愛知万博なんかで堂々と展示されているんだから、この国の環境意識の低さを示して世界に恥をさらしている)。

 自然環境を守ろうというならば、その自然環境は具体的にどこにどんな風に存在しているもののことをいうのだろうか?そして、それは今現在、どんな状況にあるのか?それにこたえられないままに環境教育なんて出来るわけがない。そういうと「いや、答えられる」という人がいるかもしれない。「それはどこですか、何ですか?どうすれば守られるのですか?」といった途端、99%笑っちゃうような馬鹿な答えが返ってくる。「CO2の排出が増えて地球が温暖化してホッキョクグマが絶滅....」馬鹿いってんじゃないよ!それは何を根拠に、どういう論理でそうなるのか説明できますか、アナタ!それで、あなた、身近に生息しているカエルがいつのまにか絶滅したりしてるのよ。知ってる??それ、どうよ?それで環境にやさしいの?

 丁度、ホタルの季節だけどさ、ホタルを見て、環境を大切にする心を云々。そこまではいい。これは、リサイクルよりも少しだけ進歩だね。さて、ホタルを大切にするにはどうすればよいでしょうか?それを考えないで、単に「綺麗だね。」で終わり。だから、見せる方も「より綺麗に、より沢山のホタル」と考えて、ホタル「だけ」を大切にして、そのことで他の生き物が酷い目にあっていても知ったこっちゃない。それじゃあイケンと私はいっているのです。

 だいたい、「環境教育」という言葉が間違っている。環境教育という言葉には、人間が環境をうまく制御できるかのような錯覚がある。だから、リサイクルなどして、環境を良くすることが出来ると誤解してしまう。

 本当に必要なのは自然教育である。ありのままの自然を見て「へえ~、こんな風になっているんだ」と驚く。ほんのちょっと、確かな目で覗いてみるだけで、いろんな生き物が物凄く複雑な関係性をもって、私たちの考えも及ばないような凄い営みが広がっている。足元を見れば、そんなものがいくらでもあり、私たち人間は本当に無知で、無知ゆえに、大きな間違いを次から次へと行っていることを知る。そうして自然は複雑で、その複雑さは私たちがとても全てを理解して制御できるものではないと知る。そして、その営みをもっと知りたいと思う。その様々な複雑な営みの中で、人間も生きることが出来ているのだと知る。こういうことを教えないで、何が環境教育やねん!責任者出てこい!!(怒)である。

 まあ、もっとも、そんな自然の営みなんか、生まれてこの方いちども目にしたこともなければ、そういうことを自らみて感動を覚えたこともない大人たちが、何故か「大人は環境教育が出来る」と勝手に思いこんでいる人たちが環境教育といって勝手なことをやっているのだから、おかしなことになるのだよ。

 あなたの守りたい自然はどこにありますか?それはどんなものですか?あなたはそれを愛することができていますか?そして、その愛するもののために、あなたは何をすればよいですか?何ができますか?

まずは、これにみんなが答えられるようになることだろう。それが「自然教育」であると思う。

 私には、私の愛する自然がある。それは私にとって家族と同様に大切なものだ。それを大事にするとともに、もっとよく知りたいと思う。そして、そういう自然とともにずっと暮らしたい。子供たちにも、さらに孫たちにも、ずっと伝えていきたい。だから、これは私のライフワーク。

 リサイクルは決してライフワークにはならないし、そんなものを最初に「環境」という言葉に触れる子供に教えるんじゃない。本当の自然なんてこれっぽっちも見たこともない大人が、環境教育なんて出来るわけないんだから、やるんじゃないんだよ!余計なことをするんじゃない。そりゃあイケン!

2012年5月29日 (火)

ホタルの季節に考えたいこと

 Hotaru20070623p あれはもう20年も前のこと。結婚したばかりで東京23区内に住んでいた頃のことだ。東京生まれ、東京育ちの妻が、「ホタルを見たことがない」という。子供のころ、初夏になるとさんざんホタルを追いかけた想い出のある私は、「それはイケンじゃろう」といって妻にホタルを見せてあげたくて、近くのホタル生息地に出かけていったのだった。そこは都会の中にポツリと谷津田が残されている場所だった。夜に何度か行ったもののなかなかホタルは見ることが出来なかった。しばらくして、ようやく見ることが出来た。そこはヘイケボタルの生息地だったのだが、日が暮れるにつれ、どこからともなく淡い光の点滅が表れて、やがて飛び回るようになる。ふわふわと光りながら飛ぶホタル。夜の谷津田の静けさと、音もなく光るホタルに自然の素晴らしさを感じたものだ。

 今、私の住んでいる場所のすぐそば、歩いていける場所にホタルが生息している場所が沢山ある。夜、探索に行くことがあるが、そうすると、ホタルが見られる場所というのはだいたい同じような場所であることに気付く。流れのゆるやかな湧水があり、アカガエルやドジョウなども沢山生息している場所であることに気付く。もうひとつ、明りがないこと。街灯もなく、真っ暗な奥まった谷のような場所に多くいる。そして、月明かりがある日には、月の影になっている場所に多い。水や土や光などの環境が多様な生物をはぐくんでいるような場所で、ホタルは音もなくふわふわと飛び、光を点滅させるのである。

 このあたりではホタルはそれほど珍しいものでもない。ホタルの生息環境がどういう場所であるかを知っていれば、ちょっと歩くだけで、ホタルが見られるのだ。しかしながら、多くの人々はその存在にすら気づいていないし、おそらく見たことがないであろう。地元の講演会などで「このあたりにはホタルが普通に生息しています」というだけで、驚く人がいるのだから。

 私の近所のホタルの多くは紛れもなく野生のヘイケボタル(ごく少数ではあるがゲンジボタルもいる)だが、それとは別に、近くには、昔からホタルの養殖に取り組んでいる公園があり、ホタルの名所になっている場所もある。私も何度かそこにホタルの季節にいってみたことがあるが、ものすごい人の多さに圧倒される。夜の水辺の静けさなど皆無。中には、ラジオを腰にぶら下げて、ラジオの音をばらまいている人もいる。周辺の道路は路上駐車で大変なことになる。そこで人々は何を見ているのだろう?まるで、花火見物のように、ホタルの光だけを見ている。

 かつて、田舎にいけば普通に見られたホタルが、生息環境の悪化に伴い、いつしか珍しいものとなった。だから、妻のように大人になるまで一度もホタルを見たことがないという人も珍しくない。ホタルの光というのはそれはそれで美しいものであり、人を惹きつけるのも事実。昆虫というだけで毛嫌いするような人でも、「ホタルを見たい」という。昆虫なのに。昼間見たら、ゴキブリを小さくしたような虫なのに。

 近年、ホタルの養殖技術が開発されて、養殖したホタルを放流して見世物にし、観光資源にしたり、地域のイベントにしたりすることが多くなった。まるで花火大会のようにホタルを見に来る人々。放流されたホタルはその周辺に生息できる環境があるわけでもなく、初夏の夜空に舞うだけで一生を終え繁殖することもない。それを見て、「ホタルが見れた」といって喜ぶ人々。そんな人が、命の大切さを訴えたって、なんの説得力もないし、地球に優しい生活なんて、何をもっていうのか。ホタル養殖業者はいかに沢山ホタルを育てて、いかに沢山飛ばすか、いかに光らせるか、だけに興味がある。ホタル本来の生息環境を守り、ホタルが生息しているような場所の生態系全体、地域の自然全体を考えるなんてことは、まずあり得ない。そりゃあイケン!

 「ホタルを見たい」そう思う気持ち自体はいい。しかし、それはホタルだけが見られればよいのか?養殖して、放流して、初夏の夜空をむなしく舞うだけのホタルが見られればそれで良いのか?そうではなかろう。ホタルの一生がどんな一生で、ホタルが生きるのには、何が必要で、どんな場所である必要があるのか?そうして、ホタルをとりまく生態系はどうなっているのか?ホタルの天敵は?ライバルは?そういうことまでちゃんと考えて、ホタルがホタルとしてまっとうな一生を過ごすことが出来る環境。ホタルがまっとうに命をつなぐことが出来るような環境の中でまっとうに光るホタルを大切にすべきだろう。そうしてホタルをとりまく環境全部を大切にして、まっとうなホタルを見たいと思わないのか?単なる見世物のホタルには嫌悪感を覚えないのか?と思う。

 少なくとも、子供たちが、生まれて初めて見るホタルが見世物のホタルで、それだけでホタルを見た気になって一生を終える、そういう世の中じゃあイケンじゃろう。すでに、見世物のホタルだけを見て育った大人が、さらに自分の子供に見世物のホタルを見せる。もう、そこには、自然の中の一員としてのホタルの存在はない。そんな世の中にしちゃあイケン!そりゃあイケン!

 襲いかかってくる蚊と戦いながら、暗闇に目をこらし、アマガエルの合唱の中、草むらで静かに呼吸をするがごとく光るホタルを見つけた時のなんとも言い難いときめき。そして、やがて、あたりを舞う光の点滅を目で追いかける。足元を踏み外してずぶぬれになったりしないように気をつけながら、そして、あたりをとりまく植物の寝息のようなゆったりとした湿った空気を吸い込みながら、ゴロスケホーホーと鳴くフクロウの染みいるような声を聴きながら、露に濡れ始めた草の閉めった感覚を感じながら、夜が更けていく。それがホタル。そういう体験が普通に出来るような日本であって欲しい。いつまでも、日本のホタルはまっとうに生きて、まっとうに光っていて欲しい。たったそれだけのことが、もうすでにとても難しいことになっていることを感じる。今はホタルを見る人々の感覚さえも狂ってきているから。そりゃあイケン!

2012年5月20日 (日)

自然は荒廃なんかしない。荒廃しているのは人間だ。

 私の愛する散歩道の個性豊かな自然。それが都市開発といって、均質な都市にどんどん浸食されていく。そして、どこにでもある均質な街が出来上がり、ただの地球上の一点に過ぎなくなる。それをなんとかしたくて、ここにある複雑で多様な自然の営みを多くの人に知って欲しくて、そうして、多くの人がその自然の凄さ、かけがえのなさを知れば、何か変わるかもしれない。そう思って始めたのが「散歩道プロジェクト」だ。もう、10年も、来る日も来る日もカメラをもって歩きまわる日々。地球全体、日本全体からすれば、ほんの小さな小さなこの場所。でも、私にとっては、最も大きな存在であるこの場所に、これほどまでに力を注いできた。そうして、少しは、この場所の自然のこと。身近な自然の営みのことを、記録し、伝えることが出来てきたと思う。多くの人が、ここの自然を愛してくれれば。ただ、私にはその先の懸念がまだまだある。

 私がいつもの散歩道で写真を撮っていれば、もう、誰も不思議に思う人はいないだろう。だが、少し離れた場所の湧水が流れる場所で、わけあって写真を撮っていた時、通りかかった人から声をかけられた。「何をしているんですか?」と。

 私は、たまたまここでイモリを見つけたので、その写真を撮っていたことなどを告げたが、怪訝そうな様子。「あなたはどこの人?名前は?」と、まるで警察官の職務質問だ。まあ、私のような怪しげなヤツが怪しげな写真を撮っていたりするのだから、無理もない。しかし、しばらく話しをするうちに事情がわかってきたのか、このあたりの自然の話しになった。その谷津田の斜面林を指差して、「ここ、荒れてるでしょう。市にもなんとかしろって言ってるんだけど、全然放置されたままで、酷いもんですよ」「私は、あっちの方の山を綺麗にして、水辺にメダカを放流したりしてたんだけど....」「あそこは、最近綺麗になったけど、あれ、誰がやったのか知ってる?」などという。私は圧倒されて、終始「はあ」「はあ、そうですか」というだけ。「荒れてるって何?私が見た限り、物凄く多様な生き物がいて自然豊かなところだけどな」「メダカを放流?それ、どこのメダカ?」などと思ったけれど、そんなことを言ったところで理解されるわけもなく、適当に友好的な会話で終わったのだった。

 放置されて荒廃する。だから、整備する、手を入れる。などと、最近やたらあちこちでそういう話しをきく。私はそのたびに、「荒廃するって、なんだよそれ?」と思う。

 里山自然というと、伝統的農地とその周辺に出来上がった自然環境のことをいうわけで、薪炭材として時々適度に刈られるコナラやクヌギなどの落葉広葉樹林や、畑や田んぼの周辺の草刈りされた場所の独特の自然環境というのがあって、それは、いわゆる人が適度に手を入れないと維持できないものであったりする。だから、それを維持できなくなって、環境が遷移していくというのはわかるし、遷移していくことで、そこにあったものが数が減るということもわかる。しかし、それをもって、「荒廃」という言い方はおかしいと思う。まるで、「良い自然」と「悪い自然」という明白な判断基準があって、「良い自然」が「悪い自然」になっていくかのようなことをいう人がいるが、それが、私にとっては非常に違和感があるのである。

 地元で講演すると、同じような疑問をもった方に時々質問される。「とにかく荒れているから整備するといって藪を根こそぎ刈りまくって、もともとそこに生えていた植物もなくなったり、藪に身をかくしていた鳥や動物などが、いなくなったりするが、それはいいことなのでしょうか?」などという質問。こういうのは少なくないのだ。これはもっともな意見だと思う。そういう時、私はこう答える。「大切なのは多様性です。多様な環境があって、多様な生き物が生きられる。一律に良い自然があれば良い生き物が生きられるという考え方はおかしいのです。草を刈るといっても、植物には二年生植物とか、三年生植物などというものもあります。それは、数年に一度実をつける。毎年刈られてしまうと、実をつけることが出来ないため、消えてしまいます。どこもかしこも綺麗に刈ってしまうと、そういう植物は絶滅します。手入れするというのは、人が自然を上手く利用するために、適度に自然にストレスを加えることであって、ストレスを加え過ぎたら死んでしまいます。」と。

 そのあたりの理解もなく、ただただ、「綺麗にすることはいいことだ」とだけの単純な考え方からひたすら草を刈り、木を間引き、などといったことをやっていることが多すぎると思う。それが「綺麗にする」「荒れた自然を治す」というように単純に「良い行為」と思われているところに私は非常に危機感を感じる。さらに、継続的な観察もないため、もともと生えていた植物なり、生息していた生き物が、どう変化しているのか?そういう行為がどう影響をあたえているのか?といった評価も出来ていないため、そのような「綺麗にする」行為によって、絶滅した生き物がいても知らん顔。それでいて、綺麗な花をつける植物には農薬を撒いてでも増やしたいという人もあらわれたりする。それはもはや「お花畑」であって、別に自然を大切にしているわけでもなんでもないのだ。

 さらに言えば、そういう植物の盗掘を恐れて、人が立ち入ることを禁じ、頑丈な柵まで作って関係者以外はそこがどうなっているのか見ることすらままならない状況にしているのを見ると、何のために、誰のためにやっているのか?と思ってしまう。

 ある「人からきいた話し。とある市で、とある森に貴重な自然が残っているというので、市が市民の森として「整備」することになったという。そこで、市民の森発足のために市長さんを始め、偉い人がやってくるが、「こんな汚いところにお偉いさんがやってくるんじゃあ、いけんじゃろう」といって、地元のオッサン連中が総出で整備しまくって、貴重な植物も刈りまくり、コンクリートの歩道まで作って....こうなってくると、もう悲劇としかいいようがない。

 Koen20080211002 うちからそう遠くないところに、こんな看板がある。ここには、かつて広い広い里山の中にあった池と、その周辺に流れる小川があったのだ。かなりの昔から、人々に愛されてきた。多くの人がここを訪れて、ここにこんな素晴らしい自然があることに感動したものだ。それが、心ない人に「発見」されてしまったから悲劇である。「さあ、ここをみんなの憩いの自然公園に整備しましょう」といって悲劇が始まる。この看板、良く見ると、字が一文字消されているが、これ、なんだかわかるだろうか?

「釣り」という字が消されているのだ。その証拠に、この看板のすぐそばには、

Koen20080211003 こんな「つり禁止」の立て札が。ここは、もっと酷くて、整備するといって、ここの水を抜いて魚をほとんど皆殺しにした挙句、いつのまにかブラックバスとかブルーギルとか、そういった魚が放流されているのである。ここにかつていたメダカもドジョウもフナも絶滅した。なぜなら、近くの小川は公園整備によって、こんな風になっているのだから。Koen20070311 周辺は落葉樹がいっぱい植えられたから、秋になると落ち葉がこのコンクリート水路に落ちる。そうすると、コンクリートだから分解される筈もなく、ヘドロが溜まる。そして、「環境を綺麗にしましょう」とかいって近所の人がやってきてドブサライをする。そうすると、一時的に綺麗になるから「環境に良いことをした」と思う人々。おかしいでしょう!それ!

ああ、ここにはカワセミが来るよ。カワセミ。だって、魚放流してるからね。カワセミがいれば自然が豊かなの?違うだろう、それ!

 また、少し離れているけれど、これも近所の公園。ここは、もともと溢れんばかりの生き物が力強く生きていた場所。なのだけど、今はこれ。Koen20070211 公園です。池が見えるけど、これ「トンボ池」って立て札がある。ここにはすでにミシシッピーアカミミガメがいる。もともとこの周辺にはクサガメが沢山いたのに、ここにはもういない。

 そうなのだ。まず、人々の自然に対する感性がおかしなままでは、「大切にしよう」といった途端に、おかしなおかしな方向に進んでしまって、せっかくの自然も消えてなくなるのだ。そりゃあイケン!そりゃあイケン!

Koen2007120201 はるか昔から多種多様な生き物が、ずっと命をつないできた水辺。それが、公園として整備されて、根こそぎなくなり、そうして、その水辺につながっていた森も消えてなくなった。消えた森を子供を連れて歩いている人。この人は何を考えているのだろう?私には悲しい光景に見える。Koen20080211001 自然は荒廃なんかしない。荒廃しているのは人間だ。人間の自然に対する感覚が荒廃しているのだ。そのままでは、やがて本当の荒廃がやってくる。人間の荒廃に荒廃させられてしまう自然。地球。そりゃあイケン!そりゃあイケン!それをなんとかしなければ、私のライフワークは完成しない。

2012年4月30日 (月)

カエルを駆除しようと思う前に考えることはないのか?

Kaeru20050718 散歩道プロジェクトに「そんなにカエルを駆除したいのか?」という記事を載せて、一躍有名になったのが2008年のことだった。それから、毎年、この季節になると出てくる出てくる。「カエル 駆除」で私のブログを検索してやってくる人々。何らかのワードで検索して私のブログにやってくる人の上位はこの時期になると「カエル 駆除」「カエル駆除方法」「かえるうるさい」などで占められることになる。このことをどう思うだろう?あなたはどう思うのか?

2009年には「それでもカエルを駆除したがる人々に告ぐ」という記事を書いたし、2010年にも「カエルの駆除方法を調べて、結局どうした?」という記事を書いた。いずれもかなりのヒット作になった。

 それだけ多くの人の目にとまる記事となれば、色々なご意見をいただくようになるが、的外れなものも多い。「外来種のオオヒキガエルなどの駆除はむしろするべきだ」とか、「人に危害を加える生き物を駆除しないのか?」などが代表的なものだろうか。私の文章をよく読んでいただければわかるのだけど、別に外来種であったり人に危害を加えるような状況があったりして、駆除が必要な場合の駆除をこれっぽっちも否定していない。しかし、考えて欲しいが、そもそも、人や生態系に害を及ぼすほどのカエルとか、外来種カエルに悩まされている地域が日本の何パーセントの地域なのだろう?それは例外というでしょう。そんなことに対して言っているわけではありません。わかるでしょう。お願いしますよ。ホント。

 何度も何度も繰り返し言わなければわからない人がいるから言うが、私が問題にしているのはずっと一貫して、「カエルの声がうるさいとか、カエルが気持ち悪いとか、そういうだけの理由で、駆除剤のようなものを撒いたりしてカエルを駆除したいと考える人々」のことだ。これについてあなたは「問題ない」と言えますか?

 中には、「カエルを見ただけで気絶しそうになる程カエルが嫌い」という人もいた。そんなにカエルが嫌いだったら、それはそれで日常的に困るだろうとは思いますよ。でも、だから「カエルを駆除する」のですか?むしろ、気絶しそうになる程カエルが嫌いなことが問題なのでは?そっちをなんとかしようと思わないのですか?

 まあ、実際には稀なケースで、カエルが嫌いでもなんでもないのだけれど、カエルが寄りつくと日常生活などに支障をきたす場合もあるようなので、それはそれで理解しましょう。そういう悩みをもった人がカエルを寄せ付けなくする方法を考えるのであれば、カエルの生態に詳しい立場から一緒に考えて差し上げますよ。

 で、前置きが長くなってしまったのだけど、(そもそも、なんでここまで説明せにゃならんのか。今の日本のクレーマー感覚は深刻だね)その、何にも考えず、「カエルがうるさいなあ。駆除できないのかなあ。駆除剤みたいなの売ってないのかなあ」みたいに考える人がいるのだよ。それも大勢。「庭に嫌いなカエルがいて困る」というふうに、意味不明に「困る」人がいるのだよ。その感覚はどうかしていると思う。私はその感覚を問題にしている。その狂った感覚に、もっともっと問題意識を持ってもらいたいと思って挑発しているのだ。

 その前に、今の日本のカエルが置かれている現状に目を向けて欲しい。私の散歩道フィールドでもここ数年の間に1/10にも数を減らすニホンアカガエル。ごく普通に身近にいたカエルが、もはや絶滅の危機に瀕している。これが現実。

 ところで、先日から、トキの雛が自然の中で孵ったといって話題になっているが、トキは私たち日本人が絶滅させてしまったのだ。今、保護されているトキは中国からもらってきたものを繁殖させたもので、日本のトキは日本人が絶滅させたんだ。そのことの認識が甘すぎる。絶滅した生き物をあとになって復活させようと思ったって、そう簡単にはいかないということだ。

 気付かないかもしれないが、日本には絶滅寸前のカエルが多数いる。なにも大自然の中で暮らすカエルではなく、ごく身近にいる里のカエルがである。私の身の回りを見ても、ニホンアカガエルとアズマヒキガエルはごく普通の身近なカエルから、絶滅寸前のカエルになってきている。それが現実なのだ。カエルを保護しようとする人々は、それを何とかしようと、ああでもない、こうでもないと、色々頭を悩ませているのだ。

 カエルだけではない。ごく普通に身近にいる生き物がどんどん姿を消している。だいたい、そのような場合、ある地域でどんどん数が減り、その地域で絶滅し、絶滅した地域がどんどん増えていき、最後に「ああ、もう、ここにしかいないじゃないか!」という状態になる。たいてい、世間一般の人々はその最後の「ああ、もう、ここにしかいないじゃないか!」の状態になってようやく騒ぎ出すのだ。実際には私はカエルをずっと見てきたので、身近なカエルが、今まさに、その順番に絶滅への道を歩んでいることがよくわかる。

 それが現実なのだ。それなのにあなたは「カエルがうるさいのぅ。薬でも撒いてカエル全滅させちゃろうか」と思って、ネットで「カエル駆除」で検索している。その安易な感覚。それ、問題ないですか?

 別なパターンもあった。都会の公園の池でシーズンになるとカエルが鳴く。そうすると、近所の人が「カエルがうるさいからなんとかしろ!」と公園管理事務所に怒鳴りこむ。そうすると、公園管理者もめんどくさいから「駆除」する。たまたま、ヒキガエルの卵があったから、「ああ、こいつがいけないんだ」と思って卵を取り除いて、捨てる。これ、どうですか?問題ないですか?

 それでいて、「地球にやさしい」とか「エコ」とかがいいのですか?あなたの生活を「地球にやさしく」したいのですか?おかしいでしょう。CO2排出を減らしたから、カエルは駆除してもいいのですか?おかしいでしょう。

 おかしいのです。日本人の自然に対する感覚が狂っているのです。それは、身近な自然を見て、身近な生き物と接し、日常的に身の回りの生き物を感じて、生き物とともに生きる感覚がなくなっているからです。それは、生き物を遠ざけること、自然と切り離された生活こそが進歩だと思いこんでいるからではないですか?自然を破壊しないと人間は生きていけない、進歩がない、と思いこんでいるからではないですか?いつからそんな風に思うようになったのでしょう?それは、そのように思いこませるように仕込まれているからなのではないですか?もし、身近な自然に色んな生き物があふれていて、それを感じながら生きることが幸せだと思っていれば、その身近な自然を守ることを考えるのではないでしょうか?身近な自然を感じたり、守ろうとしようとしたら困る人々もいるでしょうね。そこには、今、みんなが電気を節約したら原発が要らなくなって困る人がいて、必死こいて人々を洗脳しようとしている人々がいるのと同じ構造が見えます。そんな風になっていいことがありますか?あなたはそれでいいんですか?

 何の関係もないホッキョクグマを守るためにCO2減らすことに必死で、身近なカエルは皆殺しにして絶滅させるような人々が日本人の姿だとしたら、そりゃあイケン!

«人間の感覚尺度を越えるものは正しく認識できないのか?