2007年10月 9日 (火)

均質な表現の危うさ

先日、最近流行しているある歌をきいて妻に「俺、これ嫌いなんだよね」といったら、妻も「嫌い」という。私は音楽は大好きなので、好きな曲は沢山ある。好きでない曲でも、嫌いでもない曲というのが大多数。本当に嫌いな曲、嫌いな歌、というのは実は少ない。少ないが、そういう場合はなぜ嫌いなのかがはっきりと説明できる。

最近、といってももう随分前からの傾向なのだけど、テレビ番組などと見ても、とてもあいまいであるはずの言葉をいとも簡単に誰もがそのことを了解済みのように使っていることによく出くわす。たとえば「愛」とか、「友情」「やさしさ」「思いやり」などなど。「愛」と一言でいっても、いろんな愛の形があるわけだし、それは人それぞれにイメージするものが違っているはずだ。もし、あなたが「愛」を感じた時に、どうしてそこに「愛」を感じたのかということが、思いを伝えるときに重要なことであると思う。「愛しています」というより、もっといろんな表現で、それぞれの「愛」を言い表せるはずだ。それぞれの「愛」があり、それがいろんな形で感じられるからこそ表現の意味がある。ある人にとってとても心を動かされた愛情表現であっても、それは他人には奇異なものかもしれない。けれども、そこでその人が何を感じたのか、他の言葉では表現できない「何か」、もちろん「愛」の一言では表現できない「何か」を表現しようという試みるならば、それは深い意味を持ってくる。「愛」と一言で言う以上の。

もっと簡単な例でいえば、料理番組で「美味しい」といってもその「美味しさ」は伝わらない。だから、ありとあらゆる言葉をつかってそれを表現しようとするだろう。それは他の人にはおいしそうにおもえなくても、それでいい。その人が感じた「何か」を感じてもらおうという試みがそこにあるはずである。

ところが、それを安易に「愛」だの「友情」だの「やさしさ」だの「思いやり」だのといった、ことばで片付けようとしているような歌が最近流行する傾向がある。そんな言葉が歌詞にあり、なんだかわからないものを了解済みのごとく他人に押し付ける。聴くほうも聴くほうで、そんなモノを、誰もが了解済みのことのように思って聴いている。感動した、という。それが我慢ならない。ストレートすぎるのだ。わたしはヒネクレ者だから、「そんなもん、本当にそう思うのか?」といいたくなる。

逆に、「愛」もなにも言っていない、悲しいとも嬉しいともなんとも言っていない、状況説明もなにもなく、歌詞の一言一言の裏にあるものが見え隠れし、メロディーとともに言葉では言い表し難い「何か」を感じ、心を動かされることがある。それこそが、言葉を越えた、「音楽」が目指すべきものではないのか?だから私達は音楽を聴いてそこにある「何か」を感じたいと思うのではないか?歌詞すらなくても音楽は心で感じられるものである。そう思うが、どうしても、最近はそんなまわりくどい、得体の知れないものは嫌がられ、インスタントに「これ!」という提示がされる方が好まれる。これはよくないことであると私は思う。

これは均質化の表れであると思う。世の中が経済的、効率的にまわっていくためには均質化はある程度避けられない。通貨が均質でなければ貨幣経済は成り立たないのと同じ事で、情報化にしても均質でなければそれは非常に効率が悪いということになる。しかし「音楽」といった人の「心」の部分の均質化は果たしてどうだろうか?音楽も「商業ベース」になってきて「ウケる」ということはあるていど均質化してしまうのだろう。まわりくどい表現でジワジワと心にしみてくる、というのでなく、「はい、これ!」と投げつけられた均質化した感情表現が世の中に氾濫する。

なにより、均質化は自然環境の敵であろう。豊かな自然は環境が多様性に富んでいるからこそ豊かなのであって、「豊かな自然」という均質化された「自然」があるわけではない。このあたりも、どうか?と思う。「里山」といったとき、なぜか「里山のあるべき姿」が暗黙の了解のように語られていないか?私はいつもこのことが気になっている。私が散歩道を散歩しはじめたとき、そこには「里山」の概念もなにもなく、ただそこにあるものを見て、感じよう、としただけだ。それはずっと今もそうであると思う。「里山」として世間一般でいう「すばらしい里山」なのか「あまりよくない里山」なのか、そんなことは私が決めることでもなければ、世間一般が決めることでもない。私は私がそこで感じたものがそこの「自然」なのである。自然環境さえも、均質化したものに向かうのであれば、私がよくいう「公園セット」と同じである。自然を大切にしよう、とか、「里山」を大切にしようというスローガンはあちこちできくが、それによって「里山公園セット」が全国に蔓延しないことを切に願う。私の考えは間違っているだろうか?それはおそらく将来明らかになるだろうと私は思っている。Kunetani20071006

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2006年6月26日 (月)

ザリガニ

今朝起きてみたら、なにやら小学校2年生の次女が泣いていた。「どうしたの?」といっても返事もせず、毛布をかぶって泣いている。妻にきいたら、飼ってたザリガニが死んだんだと。

たった一週間ほど前のことだが、仕事から帰ってきた私を待ちかねたように走ってきて、「今日、うちにザリガニがやってきたんだよ!」と嬉しそうに言っていた。小学校の生活科校外学習とやらで、学校の近くの農家におじゃまし、そこの池のザリガニを釣らせてもらったのだそうだ。「飼いたい人はもって帰ってよい」といわれて持って帰ったのだと。名前も付けて、6年生の姉と一緒に水を換えたり、餌をやったりと、張りきって世話をしていた。ところが、どうしたのか今朝起きてみたら死んでいたのだそうだ。ザリガニは飼うのが難しいとは思っていたのだが...

子供の頃、私もザリガニは何度か飼ったことがある。近所の田んぼやら川やらで捕まえてきて、バケツの中で飼ったこともある。やはり、何度も死なせた。なんとなくそんなことを思い出した。ある時は、一晩家で飼ったが、なんとなくかわいそうになって、もといた場所に戻してやろうと思って、雨の中戻しにいったこともあった。名残惜しげに見ていた私にザリガニが手を振ってくれたように感じて胸があつくなったのを覚えている。

自然の中で生きているものを飼うことで、それに何かしらの愛情を感じて、死も目の当たりにした。それは貴重な体験だろうと思う。自然の中で生きているものを連れて来て飼ってもなかなかうまくいかない。そこには自然と家の水槽とで大きな差があるからだ。それを実感として感じることが出来たはずだ。私自身は子供の頃そんな体験を数え切れないくらいして、今朝の次女のように泣いたこともある。そんな体験が沢山あったから、自然の中で一生懸命に生きている生き物に愛情を持って接することが出来る面もあるのではないかとも思う。もし、ペットショップで買ってきた生き物を飼って、同じように感じるかどうか、私にはわからない。Zarigani20060625

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2006年4月23日 (日)

クマガイソウ

今日、自然観察仲間とクマガイソウを見にいった。昨日は、地元の公民館が主催する自然講座の講師として、自然観察に出かけたが、クマガイソウだけは、存在をほのめかしながらも絶対に場所は教えられないと、誰にも教えなかった。まあ、それは当然とはいえる。そもそも、大勢で観察をするため、観察場所についてはかなり気を使った。多くの人が歩いても平気な場所であること、これは大事だ。狭い場所に大勢が入って、歩きまわると、まわりの色んなものを踏み荒らしてしまう危険性もある。花を見つければ花は踏まないだろうが、咲いている花だけに気をとられて、まだ花の咲かない貴重な植物を踏みあらす危険性がある。だから人が歩く場所、観察する場所、これが上手く分離できなければならない。それから、花は自然の中でしか見れないものであるが、あまり貴重なものであってはならない。いくら説明しても中には持って帰りたい欲望を抑えきれない人がいる。そのような人がたとえ持ち帰ったとしても、それが大きな影響を与えることがないこと。そんなことをあれこれと考えながら、自分の観察フィールドの中の適した場所を選んだのである。だから、クマガイソウの群生地はそもそもフィールドから外してある。自然に対する考え方、自然の見方、そういうことがある程度理解出来ていると思う人でないと教えられない。そういうものは沢山ある。自然に関心のある人にはごく当たり前のことが、世の中一般、当たり前でないことが沢山あるのである。それは、ごくごく普通の人と少し自然の話しをしてみればわかる。そもそも自然というものを見たことがないし、彼らが見る自然は、花の咲く時期に花の名所に観光バスやマイカーで出かけていき、ちょこっとだけ見て、帰る。そんな程度であり、その花が自然の花であろうが、庭園に植えられた園芸種であろうが、そんなことはなんの意味もなさないのである。それが世間一般のレベルであることを認識することは大事だ。だからこそ啓蒙していかねばと思い、そのためにどうすればよいかということを考えるのである。

さて、クマガイソウ、観察していたら、丁度、地主の人がやってきた。中には入らないで、離れたところから写真を撮ってくださいと言われた。クマガイソウ、以前はもっと沢山あったそうだ。それが、やはりこの近所に住宅地が出来、人が増えるたびに減っていったということらしい。みんな持っていかれたと。最近、その方がここを見回るようになって、持っていく人は減り、そしてだんだんと増えてきたのだそうだ。確かに、私がこの場所を発見してから随分と増えた気がする。その地主の方と色々と話しをしたが、やはりキンランやギンラン、イチリンソウ、ニリンソウ、このあたりに以前は沢山あったものが、盗掘にあい、随分と数が減ったそうだ。それはここにやってきて十数年の私でさえ感じるのだから、昔からここに住んでいる方にはそれは恐ろしいほどの変化を感じるだろう。それでも、その方はいろいろと我々を案内してくれた。仲間の会話から、なんとなく自然に対する姿勢を理解していただけたのかもしれない。それにしても、そこはとても美しい里山だ。これほどに手入れが行き届き、様々な花が見られる里山はそれほど多くあるものではない。地主の方の日々のご苦労、さらに盗掘に対してのご苦労にはただただ頭が下がる。そこでそうして里山の自然をしっかりと守っておられるのだと感じた。私は外野ながら、自分が出来ること、しっかりと人々の自然に対する意識を変えていかねばならないと思った。それは自分自身、自然に対してしっかりと見つめ、学ばねばならないし、それを人々に上手く伝えることも考えていかねばならない。講師として、受講者の方にクマガイソウを安心してみせることが出来るようになること。これは一つの目標だ。全員とはいかないだろうが、いずれ何人かの人と一緒にクマガイソウが見られるようになれればと思う。Kumagai20060423

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2006年3月27日 (月)

時の流れを考える

今住んでいるこの地に移り住んで来てからもうじきまる13年。初めて来たのは初夏の頃だった。それまでは東京の下町に住んでいた。そんな都会でも、わずかな自然を求め、よく歩いたものだ。江戸川の近くだったから、江戸川の河川敷や、あるいは矢切の渡しをわたった向こう側、そこも千葉県だが、そのあたりをよく散歩した。13年前、これから住むこの地の、駅に降り立ったとき、圧倒的な自然の力を感じた。なにしろ、歩けば道路を昆虫が横断しているし、チョウが舞っている。小鳥はさえずり、緑が香る。

以前は東京の下町、しかも幹線道路のそばに住んでいたせいか、当時、ずっと体調が思わしくなかった。そして、この地に越してきて、まず体調が変わった。とても元気になり、いろんなことに意欲が湧いてきた。朝はウグイスのさえずりで目覚め、夕方はヒグラシの声をきく。休日には自転車でアップダウンの激しい丘陵を、汗をたらしながら、耳が遠くなりそうな蝉時雨の中を走ったものだ。

その時はあまり気付かなかったのだが、周辺の開発は進行していた。ただ、まだそれはずっと遠くにあった。やがて、近くの山をことごとく切り崩し、平らにしている光景がいやでも目に入るようになる。宅地造成だが、当時まだほとんど誰もすんでいない造成地にいってみたら、沢山のキジが走り回っていたのがとても印象に残っている。造成地は、これでもか、これでもかと増え続け、砂漠が広がっていった。もうここで終わりだろうと思っていたら、さらに拡大する。そうして砂漠はどんどん増えていった。気付いてみると、家のまわりでも沢山さえずっていたウグイスやホトトギスの声はうんと遠くなり、ヒグラシの声もかすかになった。秋の夜道で圧倒されるほどに鳴いていた虫も、いつのまにか弱々しくなっていた。

思えば、私はわが身を削られるような思いをしてそんな光景を見ながら長い間なんにも出来ないでいたのだった。いつものように散歩道を歩く。おそらくずっとずっと昔、私がここにくるはるか昔から、この道を歩き、ここで生活していた人がいたこと、それよりも、ずっとずっと昔からここで生きてきた生き物たちが沢山いること。歩きながら、自然とそれを感じていた。

里山には小さな神社が沢山ある。それを一つ一つめぐるように歩いてみたこともある。すっかり忘れ去られたようなものもあれば、今でも人々の生活の中にわずかながら生きているものもあった。里山はそこでくらす人の文化でもあった。それが、何のためらいもなく削られていく。やがて神社が、丸裸になり、砂漠の中にポツリと取り残される。計画した主はそこに神社という建物を見ているだけで、そこにはるか昔から生活している人々のこと、そこに御神酒やお供えを持ってやってくる人々のこと、そうして昔から少しずつ変わりつつも続いてきた時の流れのようなものを見ることはない。まして、そこにずっとあった自然など見えるわけがない。

そうして、砂漠になった土地に、砂漠になったずっと後から来た人には、そんなことは知り得ない。残された里山やそこにある自然や文化、人の生活の貴重さ。それは、かつて、ずっとずっと広く、ずっとずっと力強かった。もし、その頃の記録、少なくとも写真に撮っていればと悔やまれる。だから、今、こうして残された自然や人々の生活を記録に残したいのである。

私がこうしてささやかながらも記録に残していると、それを目にする人もあり、近くに住んでいながら、「知らなかった!」という人や「なにやら自然が豊かでよいところがあるそうだ」という人も出てきた。是非、身近にある風景をよく見て欲しいと思うが、同時に、今残っている自然や人々の生活が、かつでどうであったか?その時の流れも感じて欲しいと思う。それが、これからそれがどうなっていくのか?という想像にもつながる。だから、我々はどうするのか?ということを考えられれば。Sabaku10511_1

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2006年3月11日 (土)

キンラン

毎年、新緑が芽吹くころ、楽しみにしているものがある。私の大好きな花、キンランが咲くのだ。数はそれほど多くはない。毎年、少しずつ場所を変えながら、それでも確実に花をつけてくれる。

毎年、花が咲く少し前からキンランを探しにいく。家の近くにも生える場所があるが、とても限られた場所にある。つぼみをつけているのを見つけると、いつ花が咲くだろうかとそればかりが気になる。丁度、シュレーゲルアオガエルのカカカカッという声が響き、ウグイスがさえずり、キンラン以外にも沢山の様々な花が咲き、一年で最も美しい季節だ。

毎年、キンランの株を見つけた時、心配になることがある。それは盗掘だ。キンランは盗掘に遭うことが非常に多い。比較的目立つ場所に生えるものは、花が咲くとすぐに持っていかれる。まず3日ともたない。だから、心配でしょうがない。株を見つけたら、隠したくなってしまう。キンランを見にいくのに、ドキドキする。今日はもう持っていかれているのではないかと。そして、昨日まであった場所に見つからなかった時は本当に落胆する。今年も持っていかれてしまったかと。

そもそも、キンランは持っていっても栽培できるものではないし、庭で増やすなんてことはまず不可能だ。ランの仲間であるキンランは、土の中の菌と共生しているので、土の中の菌がいないところでは、栄養供給が絶たれる。キンランの栽培が困難なのはそれだけではない。いちいち説明はしないが、様々な複雑な生き物の絡み合いがなくては生きられない植物なのである。あの美しい姿を身近に置いておきたいと思うのかもしれないが、それは一時だけのことでしかない。

そもそも、何故に自然の中に生える野草を持って帰って庭に植えたいと思うのか?というところが問題だと常々思っている。もっとも、栽培品種にはない美しさと気品を感じるというのは理解出来る。しかし、これはあくまで野生の植物なのである。前にも書いたが、花壇の花と野生の草花に対する根本的理解がない。

花壇の花は人が育てることによって花をさかせているわけであるが、野生の花を咲かせているのはその花のまわりにある自然なのである。その自然に目を向けてみてはどうか?キンランが咲くのは本当に一年で一番美しい季節。木々が香り、新緑が芽吹き始め、春の日差しが木々の枝の間から注ぐ、様々な鳥がさえずり、虫の羽音がきこえる。春になり、自然の力がどんどん盛り上がってくるのを感じる季節だ。その中で、美しい花を見ることが出来る。それは自然の中の一つの点であり、自然自体は面であり立体である。

自然観察をするといっても、単なる宝探しになってしまうことが多い気がする。こんな珍しいものがあった、こんな美しいものがあった、それはそれでいいのだが、それを育んでいる自然と、そこにある生き物のめぐり、様々な生き物が少しずつかかわりあいながら、助け合ったり戦ったり争ったり、そうしながら、少しずつ風景を変えていく、ダイナミックな自然というものを感じてはどうか?まずは自分の五感で自然を感じてみてはどうか?あなたが自然の中で美しい花を見つけた時、あなたのまわりに五感で感じる自然そのものがその花なのである。このことを感じることが出来れば、持って帰ろうなんて気にはならないと思うのだが...Kinran20050505

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2006年3月 9日 (木)

何故自然を見るのか

「自然を守ろう!」などというスローガンは最近はよく目にする。しかし、それじゃあ、守ろうとする自然は一体なんなのだ?どこにあるのだ?と問うてみると、そんなスローガンを掲げている人ですら答えられないことは多いと思う。じゃあ、守るためには何をする?

「エコ」という言葉は一種の流行りモノであるが、これはエコロジーのことを言っているのか?エコノミーのことなのかもわからないのではないか?そのようなまやかしだらけの世の中に気付くべきである。

私は身近にある自然とその風景が好きだった。いや、今も好きなわけである。その自然が急激に失われていくことに漠然と恐ろしさを感じていた。何とかしたいと。しかしながら、人々の世の中の流れはその破壊されていく様子こそが「自然」なのであって、広大な自然がそこに残っていることが「不自然」であるかのような風潮があった。友人と近所の自然の中を歩いて、当然のことのように友人がつぶやく。「こうしてここで自然の中を歩いたということも、何十年もたったら、誰も信じないような世の中がくるんだろうな」と。

さて、それで私はその自然を守りたいのである。だが、そこに何があるのか知らないではないか?漠然と、色々な生き物がいて、様々な生き物の営みがある、そういうことは抽象的に知っていても、実際に見たことがないじゃないか?そう思った。だから、見ることから始めた。そこは私の予想以上に凄い世界が広がっていた。

自然を見ること。これは大切なことだと思う。都会で生活していると、一生を人間が作りだしたもの、作り出した仕組みの中だけで生きてしまう。まるでそれは動物園の動物が餌を与えられ、狭い檻の中で生きているようにだ。それが当たり前になってしまう。自然の凄さを知らないままに、自然を無意味に破壊していく。破壊しても気付かないのだ。見えてないのだから。

自然というのは、遠く人里離れた場所にいかなければ見れないことはない。身近なところにも、都会にだって、よく見れば自然は存在するし、野生生物は生きているのだ。みんなそれに気付かないで生活している。

だから、自然を見ること、ここで私がいくら言っても、おそらく以下のことに答えを持たない人にはわからないのではないかと思う。いろんな人に自然は見てもらいたい。しかし、自然の中でひっそりと、しかし力強く生きている美しい花を、持って帰って庭に植えるような人は自然が好きだといいつつ自然をこれっぽっちも理解はしていない。例えば、

ペット動物 ---- 野生生物

花壇の花 ---- 野生の草花

どちらが価値があるというんではない。その本質的な違いをわかって、それぞれに接しているだろうかということだ。そういうことがわからない人は、ここに載せた写真のように、自然を破壊して公園を作り、さらにその中にビオトープを作ったりする。その矛盾に気付かない。Sabaku30511

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2006年3月 6日 (月)

カエルの抱接

先日、私の観察フィールドである散歩道の田んぼに行ってみたところ、大量のニホンアカガエルの卵塊を見ることができた。先週まではほとんどなかったから、一週間の間に産卵したのだろうが、一つの田んぼに100個以上の卵塊を見ることが出来た。

産卵するというのは、当然、交尾するわけであるが、カエルの場合は抱接といわれる。ニホンアカガエルは雨あがりの夜に行われることが多く、なかなか見ることが難しいが、それでも、シーズンの夜に行って見ると、昼間は姿が見えなかったニホンアカガエルの姿を沢山見ることが出来る。日が暮れるとともに、どこからともなくやってくるその姿を見たり、暗闇に響く神秘的なカエルの声を聞くと、それは太古の昔から延々と続いてきた自然の営み、命を繋ぐための営みであり、時の長さや、生命の神秘を感じて、感動する瞬間である。

ニホンアカガエルの場合は夜だが、ヒキガエルの場合は昼間でも抱接しているので、比較的簡単に見ることが出来る。ヒキガエルはほとんど一週間くらいの間に一斉に産卵場所の田んぼや沼にやってきて、凄まじいカエル合戦を繰り広げる。オスは動くものとみるとなんでも抱きつき、とにかくメスに抱きつこうとする。しかし、間違えてオスに抱きつくと、抱きつかれたオスが悲鳴を上げるので、すぐに離れる。しかしまた、その抱きつかれたオスが動くもんだから、また抱きついていたり、少々こっけいな光景も見られる。無事メスに抱きついたと思っても、それを横から奪おうとするオス。とにかく凄まじい光景が展開される。

さて、先日、自然についてのある記事を執筆する機会があった。そのなかにヒキガエルのカエル合戦のことも書いたし、オスとメスが抱接している写真も提供した。ところが、それがどうも「検閲」にひっかかってしまった。「子供が見る可能性があるのに、これはいかがなものか?」というわけである。それをきいたとき、一瞬耳を疑ったが、そんなことを言う人を説得するのは時間の無駄だと思えたので、「どうぞ、その部分、写真も含めて削除してください」といった。

ヒキガエルたちよ、怒れ!君達の真剣な生命の営みを、こんな風にしかとらえられない人間がいるのだぞ。

こうして沢山産卵された卵、それからオタマジャクシになり、ヒキガエルはすぐに手足が生えてちっちゃなちっちゃな姿で陸に上がる。それはその時期、水の中は天敵が多く、危険だからだ。だからとにかく素早く足を生やし、陸にあがる。たった1ヶ月ほどの間だ。しかし、それでも、多くは色々な事情で命を落とす。そして、立派に育ち、次の命に繋げるためにここにやってきてカエル合戦を繰り広げることが出来るまでに、どれだけの苦難があったことか。ここでこうしてカエル合戦をしている間でも、天敵は空から狙っているかもしれない。それでも、次世代に命を繋ぐために、ここにやってきて、こうして争い、そして子孫を残す。やがて自分たちは死んでいく。でも、こうして産み落とされた沢山の生命が、また、次の生命へ、そしてまた...そうして自然の中の生命はめぐっているのだ。Hikigaeru01

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