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2011年6月26日 (日)

美しい日本の田園風景と未来

梅雨らしい天気になった。今日は曇りの予報。朝早く起きて、のんびりと散歩しようと思った。起きてみると、地面が濡れている。雨か?と、空を見上げる。わずかに霧雨が降っているか降っていないかの天気だ。これなら普通に散歩出来る。

梅雨の散歩は、雨に濡れた葉っぱのにおい、どんよりした空。ホトトギスが右へ左へと鳴き、時折ウグイスも澄んだ声を遠くまで響かせる。どんな季節も好きだが、梅雨はまた好きな季節だ。Denen2011062601 田んぼはすっかり稲が育ち、緑が深くなった。稲の間を湿った風が吹いていく。やがてこの風景はジリジリと強い日差しが照りつける夏になる。それまでの、束の間の穏やかさ。

日本の田園風景はなんと美しいことか。遠く海外に長く住んでいる方が、先日里帰りを終え、成田空港へ向かう車窓からみる風景に後ろ髪を引かれる気持ちだったそうだ。今、その風景が目に見えない放射能で汚染されている。

郷土を愛すること、生まれ育った国を愛すること、そのことの大切さは言われるが、それはどういうものに対してなのだろうか?東京オリンピックの年に生まれた私は、少なくとも、子供の頃、このような美しい日本の田園風景が愛すべき日本の風景であることを一度も教わったことはない。Denen2011062602 これが日本なのに、美しい日本の風景なのに。

おそらく、私くらいの年代の者が、子供の頃に描いた未来というのは、少なくとも、こういう田園風景をことごとく排除したものだった。ネオンが光り輝き、高層ビルの間を、無数の乗り物が走りぬける。そして、草一本も生えないコンクリートの上で暮らす。それが光り輝く未来だと思っていた。誰も、美しい自然とともに生きることを未来とは考えなかった。そして、こんな田園風景は古臭いもの、未来に向けて捨てていくものと思っていた。

今も、私は自虐的に「近所を歩いているとタヌキに会ってしまうくらいの田舎に住んでいるんです」という。何故、自虐的にならなければならないのだろう。内心、それが誇りなのに。

ある都市が政令指定都市になる時、区の名前に、その地区を代表する自然豊かな場所の名前がつけられることになった。その時、多くの人が反対したという。何故だ?田舎は恥ずべきことなのか?

考えてみると、私たちは明らかに洗脳されてきたのである。田舎は恥ずべきものであり、都会になっていくことが進歩であると。そうして、さらに、人々が豊かな生活をするためには、自然を破壊するのは仕方ないことだと。

はたしてそうだろうか?いつ、誰がそう決めたのだろうか?本当にそうなのだろうか?そんなこと一度も考えたこともなく、みんな当たり前のように言うのだ。Denen2011062603 10年程前のことだが、友人と、うちの近所の里山を昆虫を求めて歩きまわっていたことがある。その友人が当たり前のように言うのだ「ここでこうやって虫を追いかけたこと、あと何年かしたら、誰も信じなくなるかもな。」何気ない一言だったのだろうが、私にはこその一言が酷くショックだった。そんな世の中にしてなるものか!私は思った。

確かに、私たちは子供のころから、こんな田園風景が次々と消えていくのを当たり前のように目の当たりにしてきた。だから、それが当たり前になっている。どうして当たり前なんだ?どうして破壊しなくてはならないのだ?そんなことに疑問を持たずにきたのではないだろうか?もし、疑問を持ったとしたら次のような反論にあうことだろう。「人が生きていくために必要なんだ」と。本当だろうか?私たちは、こんな田園風景からお米を得て、食糧を得て、綺麗な空気を得て、綺麗な水を得ている。それらすべてを失って得るものは生きていくために必要なのか?

何か似ていないか?「原発は必要なんだ」と、今、一生懸命に言う人々。本当にそうだろうか?あらたな技術を開発し、自然エネルギーを上手く使えるようになることは進歩ではないのか?停止した古臭い原発をもとの通りに動かして、さらに古臭いままの原発を増やしていくことのどこが進歩なのだろうか。今、一歩踏みださないで、いつ踏みだすことが出来るというのか?Denen2011062604

物質的に豊かになった、だからこれからは精神的にも豊かに、とは、もうききあきた。何十年も前からずっと同じことを言っているじゃないか!なんにも進歩していないじゃないか!電気を好きなだけ使って、ネオン輝くパチンコ屋にお金を巻き上げられて、駐車場に子供を置き去りにして、それが精神的な豊かさか?そうじゃないだろう。ネットゲームにはまって、昼も夜もなく部屋に閉じこもることが精神的な豊かさか?それも違うだろう。

かつて夢のような街として開発したニュータウンはゴーストタウンとなり、また田園風景をぶっ潰して同じことを繰り返す。いったいいつになれば新しい世の中になるのだ。ようやくエコ、エコといい始めたかと思えば、CO2が増えてホッキョクグマが絶滅したり、病気が蔓延するなどというウソにまんまと騙されて、そのことだけを考えるようになってしまう人々。気がつけば、身近な自然はズタズタ。ほら、見てみろ、君のすぐそばにあった美しい田園風景が、一瞬にして、こんな風になっているんだぞ。Denensabaku

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2011年6月19日 (日)

ホタルブクロの季節に考えたこと

散歩道の道端はホタルブクロがいっせいに咲いている。白っぽいものや、少しピンクがかったもの、紫に近いものなど、色に変化がある。Hotaru2011061801 そんなホタルブクロを見ながら歩く。モンシロチョウがひらひらと田んぼや畑の中を舞っていて、ウグイスが澄んだ声を谷に響かせている。ホトトギスは飛びながら、トッキョキョカキョクと鳴き、通り過ぎていく。空はどんより曇り、今にも雨が落ちてきそうだ。

田んぼはすっかり緑になった。緑の田んぼの端までいってみると、ちっちゃなアカガエルが多数跳ねる。今年、飼育放流した田んぼは踏みつけそうなくらいになっている。Akagaeru20110618 アカガエルの産卵と成長を今年はしっかりと記録したので、少しまた知らなかったことを知ることになった。データを何年か蓄積すれば、新しいことが見えてくるだろう。

飼育放流は、水が涸れそうになっている場所の卵塊を持ち帰り、飼育する。水が涸れてしまえばその卵塊は死滅してしまう。その場所は田植えの頃になれば、水が安定する。水が安定したら、もとの田んぼのもとの場所に戻してやるのだ。農作業のために田んぼの水を絶やさないようにすることが困難であるのなら、と、考えた方法の一つだ。

昔は田んぼの水を抜いても、それは周囲の水路に溜まり、ため池に溜まるなどした。そうしてその溜まった水は、また田んぼに戻る。水の循環系があったわけだ。今、その水の循環系が失われてしまっている田んぼが多い。そこに、少しだけ手を加えれば、難しいことをしなくても少しはましになるのではないかと思う。本当はアカガエルだけでなく、田んぼとともに生きる様々な生き物について、そのような方法がとれるのではないかと思っているが、そこまではまだ出来ない。少なくとも、今、田んぼの水環境の変化によって急激に数を減らしている(ここ数年で1/10になった)ニホンアカガエルについての私なりに実験をしているのだ。

なかなか一般には理解されないのだが、私は単に「生き物の命を守る」ためにと、こんなことを行っているわけではない。実際にあった話だが、メダカの棲む田んぼを作るといって「買ってきた」メダカを放している人がいて私は愕然とした。また、里山に咲く花を守るといって農薬を撒く、花にたかる虫を殺すために殺虫剤を撒く人がいて愕然とした。それらは違う。そんなことをしても百害あって一利なしと断言出来る。そうではないのだ。

昔の田んぼが田んぼの周りの生き物を育んだといわれる。しかし、今の田んぼはカラカラになるまで水は抜くし、抜いた水は下水のようにまっすぐ海に流れていってしまうし、農薬は撒くし、と、生き物にやさしくないことが多い。それを生き物にやさしい田んぼにしようと思って様々な農法を取り入れようとする人がいる。それはそれで立派なことだが、反面とても労力のかかることではなかろうか?そうであれば、そこまでしなくとも、それほどの労力を必要としなくとも、生き物にあふれながら、安全で豊かな作物が得られる方法、誰でも簡単に出来る方法があってもいいのではないかと思う。そのために、ちょっとだけ、ほとんど子供のイタズラの程度だが、試してみているのである。

試すということは、ただ行動すればよいわけではない。試すためには、ある程度の科学的根拠があり、その上で試した結果が、ある程度科学的に効果を示すことが出来なければならない。だからこそ、詳細に記録しようとしているのだ。それが本当に効果があるかどうかは、これからだ。

公園整備とやらで、まわりの環境をズタズタにしておいて、「自然が豊かな公園です」などといい、水路はコンクリートでことごとく固め、魚たちを絶滅においやっておきながら、餌をうばわれたカワセミに餌付けをしながら、「環境を守っている」などと、大きな勘違いをしている人々について「間違っている!」と大声で言いたい。そんなこと、本来こうすればよいのだということを、少しでも示したい。そこにある環境をそのままに、そして、元気を失いつつある環境の元気を取り戻す。それが大事であり、あったものを壊しておいて、なんの脈絡もない環境を新たに作ろうなんて、そんなもの百害あって一利なし。しかし、この百害あって一利なし、が理解されない現実をなんとかしたい。

なにやら、言いたいことが沢山出てきてしまった。しかし、まずはありのままの自然を自分の目で見て、感じて、自然とともに生きる、そのことが出来なければ、何もできない。

私とて、都会の生活のリズムで狂った自分の中の時計を、こうやって歩いてもとに戻していく。Ooao20110618 湿った緑の香りが強くだだよう梅雨の散歩。田んぼのまわりに沢山のオオアオイトトンボ。まだ、羽化したてで、色が薄く、飛び方もとても弱々しい。彼らも、田んぼで育った。ずっとこれからも田んぼが彼らを育めるように。私はずっと見守っていきたい。彼らの命の営みは、私たちがここにやってくるはるか昔から、ずっと続いているものだ。人々は今、それを一瞬にして消してしまうことだって出来る。だが、そんな力を持った人間は、どれだけの罪を背負えばよいというのだろう。悪いことすれば罰が当たるというのは、子供だましに過ぎないのか。子供だましでもいいから、罰が当たってみてほしい。久々の日記、なんだか支離滅裂になってきた....

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