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2010年6月27日 (日)

クサガメの子供

このブログでも何度か話題にしたことがある散歩道にいるクサガメ。私はこのクサガメにはとても思い入れがある。もう、何年も前のこと。たまたま水路をながされているクサガメを発見して、手ですくったのだ。Kusagame2004040301 水路を流されていくクサガメを見て、なぜか、写真を撮っていた自分。どんどん流されていくクサガメ。一体私は何をしているんだろう?とふと思った次の瞬間、無意識に手でそのカメをすくっていた。Kusagame2004040302 それは、生まれたばかりの小さな小さなカメ。ちょうど、500円玉くらいの大きさ。手のひらの載せると、小さな小さな足をチョコチョコと動かし、それがとてもくすぐったい。私は一瞬にして心を奪われた。なんてかわいいんだろう。

それから6年以上が過ぎた。たくさんいた散歩道のクサガメはどういうわけか、数が減っていった。季節になると、足跡はあちこちで目にすることができるのだけれども、以前のように歩いていて普通に姿を目にすることがめったになくなった。それはそれで心配だが、それでも、毎年、生まれたばかりのチビちゃんを見ることができる。人知れず繁殖して生き延びているのだ。

昨日も久しぶりにチビちゃんを発見した。Kusagame2010062601 田んぼの中で泥まみれになりながら歩いていた。ここ数年みかける彼らは、以前よりかなり用心深く、近づくとすぐに甲羅の中に引っ込んで動かなくなる。用心深い性格の遺伝子が受け継がれているのかもしれない。手のひらに乗せてみると、やはりちょうど500円玉サイズだ。Kusagame2010062602 甲羅の下面に泥がこびりついて、歩きにくそうだったので、少し泥をはらってやったが、こんな赤ちゃんカメは甲羅もやわらかいので、乱暴には扱えない。そっと泥をはがす。地面に置いてもずっと首をひっこめたままだ。いきなり人間につまみあげられて、ちょっとビックリしているのだろう。Kusagame2010062603 そばで見ていると、どうも警戒して動かないようなので、しばらく離れていると、恐る恐る首をのばしたり、手足を伸ばしたりして歩こうとする。しかし、近づくと、足音を感じてまた引っ込んでしまう。

わずか数年前に出会ったヤツは、ここまで用心深いことはなかったのだが、用心深い性格のヤツしか生き延びられない環境になってしまったのかもしれない。年々、用心深くなる気がする。

今日、昨日、チビカメを見つけた田んぼのまわりをくまなく探してみたら、水たまりにチビカメを発見した。大きさや、甲羅の汚れ方が昨日のヤツとほとんど同じなので、同じ個体の可能性がある。Kusagame2010062701 なんだかとっても嬉しかった。昨日は、泥だらけで動き辛そうにしていたが、今日は水の中で、泥もとれ、すいすいと、体の大きさからは想像できないほどの速い足取りで歩いていく。時々立ち止まっては、水面から首をだし、あたりの様子をうかがう。Kusagame2010062702 がんばれよ!元気で生き延びろ!交通事故には気をつけろよ!天敵に見つからないように気をつけろよ!

カメはやはり長寿で、こんなクサガメでも、40年くらいは生きる可能性がある。そうなると、彼らが天寿を全うするときにはどんな世の中になっているだろうか?と思う。ずっとこの地で命を繋いできた彼らが、これからもずっと生きていけるよう、そして、今日みつけたこのチビちゃんがこの地で天寿を全うすることができるように、私は祈る。この散歩道周辺の自然の中で、毎年毎年、季節を繰り返し、いきていく将来に、私は祈る。この、常に鳴り響いている鳥のさえずりの中、田んぼをわたってくる湿った空気の中、何十年も生きて、そしてたくさんの子孫を残し、命をつないで欲しい。そして、そのことに少しでも力になれればと私は思う。そして、誰にも知られずに失われた、この周辺にいた多くの彼らの先祖のことに思いをめぐらせつつ。

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2010年6月20日 (日)

流れを管理する人間と流れに生きる生き物

田植え前に水の入った田んぼも、そろそろ中干しが始まるところが多い。根をしっかりと張らせたり、病害を防いだりという効果を狙って、田んぼの水を一度抜くのである。以前より私はよく言っているのだが、こういう稲作のサイクルの中で田んぼの生き物が豊かに保たれるためには、田んぼだけでなく、その周囲の水路、ため池、などといった田んぼの水の循環系の環境が大事だと思う。中干しという作業が稲作のために必要な作業であるとするならば、中干し時に抜いた水がどこにいくのか?それが問題だからである。もし、それがまっすぐ海に流れていってしまうようなことがあるならば、せっかく田んぼに水がある時期に田んぼで育った生命はほとんど流れ去ってしまい、田んぼに戻ってくることはない。しかしながら、もし、田んぼから抜かれた水が、また、田んぼに戻ってくるのであれば、その水のめぐりの中で、その水の中で生きている生き物は生きながらえることができるからだ。

田んぼの中干しの時期、ちょうど、クサガメたちの足跡がよく見える時期でもある。水をたたえた田んぼの中では目立たなかった彼らの足跡が目立つようになる。Nagare2010062001 稲も大きくそだつ時期である。足跡は見えても、稲の間に隠れる彼らの姿を見ることはなかなか難しい。今日はたまたま、稲の間に歩くクサガメの姿を見ることができた。どうやら、クサガメは、田んぼに生えた藻を食べながら歩いているようだった。Nagare2010062002

「田んぼの中の藻」、実はこのワードは最近の流行りだ。カエルの大合唱の時期に「カエル・駆除」などというワードで検索して私のブログにやってくる人が多いが、それが過ぎると、「田んぼの中の藻」というワードで検索して私のブログにやってくる人々が増える。どうやら田んぼの中に藻が生えて、それをどうしたものか?と悩んでいる様子だ。

想像だけれど、田んぼに生える藻はよい働きをしてくれるのではないかと思う。藻が生えれば、田んぼの地面は日当たりが悪くなる。そうすると、田んぼの地面から生えてこようとする雑草が生育するには都合が悪くなるからだ。過剰に生えた藻は、こういったクサガメやカルガモなどの生き物が餌として、食べるだろうし、そういう循環が保たれ、生き物が健全に生育している環境では、問題にならないと思うのだが。

さて、だいぶ話が脇道にそれたが、その田んぼから抜いた水だが、それは周囲の水路に流れていく。土の水路であれば、ゆっくりと流れながら、土の中にいる微生物が有機物の分解をしたり、あるいは、藻が生えて、藻に産卵する魚が育ったりと、周囲の水路で生き物がはぐくまれるような環境が生じている。しかしながら、最近は、管理が面倒だからと、コンクリート水路になっている場合が多い(実際、管理が面倒だからコンクリートにする、というが、どれだけ面倒でなくなっているのか、よくわからない。結局、ドブさらいのようなことはする必要もあるだろうし、メンテナンスフリーではないよね)。だから、そういうところでは、単に水は流れるだけである。水路はある地点とある地点を結ぶパイプでしかない。

完全に圃場整備がされて、直線的な田んぼであれば、コンクリート水路も直線で、まっすぐに水が流れ去ってしまう。水路は単に排水溝なのである。しかしながら、そうでない場合、コンクリート水路は曲がりくねる必要がある。曲がりくねるからといって、その曲線に合わせてコンクリート水路をきれいに作るわけではない。単にコンクリートブロックをつなぎ合わせて作る。そうなると、つなぎ目が不規則にできる。実は、このつなぎ目が大事なのだ。つなぎ目には自然に水たまりができる。そうすると、そこで生き物が生きながらえていたりするのだ。Nagare2010062003 実は、先日、こんな繋ぎ目にできた水たまりで、ニホンアカガエルが生きながらえて、ちゃんと成体にまで成長しているのを目撃した。よく見ると、こういう場所にサワガニがいたり、ホトケドジョウなどもウヨウヨと泳いでいるのを見ることができた。Nagare2010062004

これは一種の遊水地であり、わずかながらもこういう場所があることで、生きながらえる生き物がいるのだということを知った。

願わくは、農業関係者のみなさんが、完全主義者にならないでほしいと思う。水路を作る側から考えてみると、こういう遊水地は一見、水路が不完全であるというふうに見えてしまう。「ここで水が漏れている、ここをふさごう」などという風に几帳面にならないでほしいのである。こういう「遊び」「余裕」を残すことで、生きながらえる生き物がいることを知ってほしいのである。

この春に私が愕然とした、田んぼのわずかな水たまりも一生懸命排水しようとする人々に、完全主義というか、几帳面さを尊ぶ日本人的な仕事っぷりが見えたのだが、それが、ニホンアカガエルの生存を危うくしてしまうものであった。几帳面さが勤勉さの証であり、無条件によいこととされるならば、それは自然に対しては少し考えなおしてほしいと私は思う。わずか数十センチの水たまりの水をカラカラに干上がらせたところで、広い広い田んぼ全体からしてみれば、どれだけのことだろう?それより、そういう小さな水たまりを残すことで田んぼの周囲の生態系が健全さを取り戻し、田んぼ全体によりよい効果を与えることができると私は信じる。

さて、谷津田のように、一枚一枚の田んぼに高低差があり、段々になっているような田んぼ(本当は棚田といいたいところだが、いわゆる斜面に作られた棚田とは違うし、棚田といった途端に、特殊な環境であると思われるのが嫌なので、あえて棚田とはいわないが、実際は段々になっている田んぼである。千葉でごく普通に見られる谷津田環境にはよくあることである)、では、水は、高いところの田んぼから、下の田んぼへと、順々に流れていく。だから、もし、上の田んぼで水を抜いたとすれば、それは下の田んぼにたまる。そういうことで、水は長い時間、田んぼにとどまる。上の田んぼから流されていった生き物たちは、下の田んぼの水たまりで生きながらえる。Nagare2010062005 そういうことが、とても大事なことなんだと、そうして、生き物が豊かな環境が自然とはぐくまれているということもあるということに最近気付いたのである。

稲作に水の管理は大事であろう。最近は、生き物が豊かな田んぼを作るといって、一年中水がある田んぼが無条件にもてはやされる風潮があるが、それだけが解ではない。そのことを忘れてはならないし、水道の蛇口をひねれば水が出て、栓を抜けばきれいに排水されるような、工場みたいな環境を田んぼに持ち込むべきでも決してない。豊かな自然をはぐくんでいる田んぼの水環境は、実際、どのようになっているのか?これをもっとよく見て学ぶべきだろう。まず、そこから始めるべきである。いや、そこから始めても、表面的なところだけ見てはいけない。自然の中で何が起きているのかは、ちょっと見ただけではわからない。

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2010年6月 6日 (日)

新たな発見を求めて

散歩道プロジェクトを始めた7年ほど前は、歩くことは発見することだった。ここにいる生き物のことを記録しようと歩き始めたばかりの私には、毎回、歩くたびに膨大な発見があった。逆に言えば、それまでここを数限りなく歩いていても、この場所の自然のことが、これっぽっちも見えていなかったということだろう。それが見え始めた時、想像以上の世界がここに広がっていることを知ることとなる。そして、発見はいまだに尽きることがない。

最近は、新たな発見を求めて、いつも歩かない場所を歩いてみることが多い。先日、いままで知らなかった池を発見した。Ike20100605水が濁っているが、何かがいそうな池だ。こういう水辺にはとても興味をそそられるものがある。昨日も、この池のところまで歩いてみた。すると、ウシガエルの「ボーン、ボーン」という低い鳴き声がきこえてきた。

もう一つ、先日は、小さな流れに小さな魚が泳いでいるのを発見した。次々と新たな発見がある。ここは是非またじっくりと調べてみたいと思った。Sakana2010050907

昨日はまた、普段あまり歩かない道を歩いてみた。途中から道なき道といった具合になり、草をかきわけ足元が見えないことに不安を覚えつつも、進む。ヤマサナエが沢山とんでいたりする。ハラビロトンボが目の前にとまってくれて、写真を撮ることができたり、Harabiro20100605 オナガアゲハが目の前にヒラヒラとやってきたりした。Onaga20100605どちらも、いままで何度か遭遇はしているものの、ちゃんとした写真が撮れたことがなかったので、こうしてちゃんとした写真を撮れたことが嬉しかった。これだから、歩くことはやめられない。

そして、もう一つ、これは大きな大きな発見があった。

この春に、アカガエルのオタマジャクシを救出 しようと色々やっていた時に、気になっていたことがある。今年は雨が多く、田んぼの水が溢れてコンクリートの水路に水が勢いよく流れていくことが多かった。そして、その流れにアカガエルのオタマジャクシたちも流されていた。その流されていくオタマをなんとか救出しようとやっていたわけだが、そのコンクリートの流れをずっとたどっていくと、途中で大きな水溜りにぶちあたる。その水溜りは水がよどんでいるので、そこに流されてきたオタマジャクシが溜まるのだ。Otama20100606 もしかしたら、水路を延々と流れてきたオタマジャクシのうち、運の良いヤツはこの水溜りでとどまって、ここで成長するのかもしれない。そう思っていた。そして、昨日、この水溜りをふと見たら、尻尾が残るがもう4本の足が生えたアカガエルがいるではないか!Otama20100605私はこの発見に、おもわず「おおおっ!」と声をあげてしまったほどだ。これは、私にとって衝撃的な発見だった。もともと、流れのない場所にしかアカガエルは産卵しない。しかし、大雨が降ると、それまで流れのなかった水たまりが溢れ、それは流れとなって下流へと流れていく。流れに逆らって泳ぐことのできないオタマジャクシは、普通ならそれで終わりである。しかし、運よく、途中の流れのよどんだ場所にとどまると、そこで生きながらえて、カエルにまで成長することができるということだ。これは衝撃的な発見だった。そして、このことは、今後、アカガエルの成長を記録する際に、見落としてはならない大切なポイントを教えてくれたといえよう。

アカガエルがどこにいくつ産卵するかということも大事だが、最終的に、どこでどのくらい上陸するのかという点も大事だということだ。こんな流れのちょっとしたよどみで、アカガエルが成長するなんてこと、今までしらなかった。当然ながら、こんな場所に産卵するアカガエルなんていない。まさか、産卵のない場所で成長しているなんて、まったく気付かなかったわけだ。

時に、自然は大切なことを教えてくれる。そのことをちゃんと見ることができる眼が必要だと思う。それは、しっかりと見続けることや、見るための基礎となる技術や、知識も必要になるのだと思う。そうして、ちゃんとした技術や知識を持ちつつ、しっかりと見続けることで、眼は成長するのだなと思う。

この地域は本当に奥の深い自然を育んでいる。しかし、何十年もここに住んでいても、見ることをしなければなんにも見えてこない。事実、誰にも見えないままに失われてしまいつつあったのだ。今、私達は、こうしてこの自然を見ることができるのだから、もっともっとしっかり見なければならないだろう。これだけ凄い自然が目の前に広がってる私達がなんの努力もしないのでは、誰がこの自然を見るというのだ。誰が、この価値に気付くというのだ。私達は、もっとそのことを強く思わねばならないだろう。

とにかく、私は見続ける。そしてもっとよく見るための技術も知識も沢山得たいと思うのだ。

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