それでも私はアカガエルを救う
この一週間、かなりの雨が降った。気温も高くなり、都内では桜が開花した。そういうこともあり、異様に少なかった今年のアカガエルの産卵が、もしかしたら、ここにきていっきに増えているのではないかと期待して、散歩道にいってみた。確かに、田んぼには沢山水があった。だが、卵塊はまったく増えていなかった。
100匹ほど連れて帰った小さな水溜りの水は溢れ、もともといた水溜りがどれだかわからなくなった。同時に、その小さな水溜りにかたまっていたオタマジャクシは分散して、周辺の水溜りにちらほらと見える。
最も安定した水溜りでは、大量のオタマジャクシが泳いでいる。これは、とりあえず、安心していいのだろうか?と、思う。田植え前に田んぼに水を入れるまで、この状態で水が涸れなければ、おそらく大丈夫だろう。
なんとか生き延びてくれ。命をつないでくれ。そう願うばかりだ。
私はどうして、ここまでアカガエルに魅せられているんだろうか?あのスマートな姿。つぶらな瞳。繁殖期に、ささやくように、笑うように、静かに鳴く、あの声。この時期に彼らの一年が始まり、枯葉が舞うころに、冬眠のためいなくなる。散歩すると、彼らはいつも足元にいて、道案内をするごとく、ピョンピョンとはねる。長年じっくりと観察してきて、彼らの育つ環境の危うさを知り、無念にも死んでいってしまう多くのオタマジャクシを見て、それでも、梅雨入り頃には、踏みつけそうになるほどの、小さな小さなカエルが上陸する。その、季節のサイクルの中で生きる全てを見ているからだろうか。
田んぼの水溜りはさらに排水が進んでいた。排水路を掘り、小さな水溜りまでも綺麗に排水しようとしている。この理由を知りたいと思った。どうして、ここまで排水する必要があるのか?もうすぐ田植えのために水を入れるというのに。
排水のために掘った溝にしがみついて、かろうじて生きる彼ら。「がんばれよ!」思わず、そういいたくなる。なんとかここまで持った。だから、あと少し、もう少し生きながらえれば、カエルにまで育つことが出来る。
翌日は忙しく、なかなかアカガエルの様子を見にいけなかった。夕方、暗くなってから見にでかけた。一番大きな水溜りは、なんとか大丈夫。しかし、溝を掘って排水された田んぼは、あちこちで干からびたオタマジャクシを見る。
「やっぱりダメか」
いや、毎年、こういう光景は目にしているのである。それはしかたないことと考えてきた。人の生活とアカガエルの生活のかかわりのなかで、自然に発生することであり、そういうこともこの自然のサイクルに組み込まれていると思っていたからだ。しかし、今年のこれほどまでに少ない産卵数、そして、ことごとく姿を消す水溜り。そういうものを見ると、危機感を感じざるを得ない。
ふと、思うことがある。もうすでにオタマジャクシになっているアカガエルと、これから産卵されるアマガエルやシュレーゲルアオガエル。これらの区別がつく人がどれだけいるだろう。まして、オタマジャクシや卵となれば、どうだ?「カエルならいくらでもいる」と考えているかもしれない。だが、ニホンアカガエルはどこにでもいそうで、実はどこにでもいるものじゃない。彼らの危うい生息環境のことを、もっともっと多くの人が知らなければ、本当に絶滅してしまいかねないと思う。
水が涸れそうになって、瀕死の状態にある卵。
こんな状態になっても、かろうじて水があれば、小さなオタマジャクシは孵化することが出来る。そして、必死でチョロチョロと動いている。この塊を、土ごとすくい、水のある場所に持っていく。ここならたぶん大丈夫。そう思える場所にもっていく。一箇所だけに持っていくと、そこの水が涸れてしまえば終わりなので、何箇所かに分散する。水の中に放すと、チョロチョロとオタマジャクシは泳ぐ。
「頑張って生きるんだぞ。」
思わず、そうつぶやく。彼らが無事にカエルになる日を思う。そんなことをしながら気付くとあたりは暗くなっていた。寒さで手がかじかんでいる。足も泥だらけだ。
私は、こんな風に、自然の中の特定の生き物に手を貸すことはしないと思っていた。今年の異様な状況は、こんなにも私を一生懸命にさせていることに、正直、自分でも驚いている。
















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