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2009年9月26日 (土)

くねくねの主

くねくねの主に初めて会ったのは2年前の秋ことだ。くねくね峠道の土手、穴の中にじっとしているヒキガエルを見つけ、近所の人と彼を「くねくねの主」と呼ぶことにした。Hiki20071104 それからしばらく、私はここを通りかかるたびに「くねくねの主」に挨拶するようになった。穴を覗き込んで話しかけても、彼は喉をヒクヒクと動かしているだけで、じっとこちらを見ている。時々、写真を撮らせてもらう。ただ、穴の中が暗いので、ストロボを焚かせてもらったりするが、いきなりストロボを焚くと、眩しいだろうと思い、「ごめんね、ちょっと眩しいよ」などと言いながら写真を撮る。彼から私はどのように見えているだろう。

初めて彼に出会った年、冬になってもずっと彼はそこにいた。冬眠しないのかな?と思っていた。その後、その年のクリスマス頃、穴は空になった。どこかで冬眠したのだろうと思った。Ana20071222

彼がいなくなった穴。春になり、もどってくるかな?と思いつつ、通りかかるたびに私は覗いた。やがて、穴のまわりには草が生い茂ってきた。それでも、穴はしっかり見えていた。

春になっても、彼は戻ってこなかった。その次に彼に会ったのは夏になってからだ。ほぼ半年の間ずっと空き家だったこの穴に彼が帰ってきているのを見つけた時は本当に嬉しかった。彼は何事もなかったかのように穴の中に座り、喉をヒクヒクと動かしていた。Nushi2008072702

ただ、戻ってきた彼は、長くはそこに居なかった。すぐにまた穴は空き家になった。

ここは、カエルの天敵も沢山いる場所だから、私は少し心配した。もう戻ってこないのではないかと思っていた。やがて、穴の中に草が生えてきたり、キノコが生えてきたりした。私が行ったときにたまたま留守なだけならそんな風にはならないだろう。

一年近く戻ってこなかったので、私はもう彼には会うことはないだろうと半分あきらめていた。それが、今年、戻ってきたのだ。喉のところの黒っぽい斑点模様から、それが間違いなく2年前に初めて会った「くねくねの主」に違いないことがわかった。Nushi2009092201_2

2年前の写真と比べると、少し大きく、太ったような気もする。

とにかく、私はここを通りかかるたびに、彼に挨拶し、彼に話しかける。たぶん、彼も私の顔を覚えたことだろう。

春のカエル合戦の時は、喉の斑点をたよりに彼を探してみよう。もし、見つけることが出来たなら、応援のしがいがある。

彼は何歳なのだろう?少なくとも、2年前の秋には立派な大人のヒキガエルだった。そして、彼はこの先何年生きることが出来るのだろう。

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2009年9月21日 (月)

秋の繋がりトンボ

秋の夕暮れの、くねくね谷は、静かに夕陽が落ちていく。夕陽に向かって、沢山のオオアオイトトンボが2匹つながって飛んでいく。Kunekune20090921 そんな光景を初めて見たのはもう随分前のこと。

今日はあいにく曇りで夕陽は見えなかったが、沢山のオオアオイトトンボがつながって飛んでいるのが見えた。

季節を振り返ると、初夏の頃、彼らはそれまでの水中生活に別れを告げ、いっせいに飛びはじめる。それは、次へと命をつなぐための相手探しが始まるのでもある。そうして、秋になって、無事、相手を見つけ、つながって飛んでいるのだ。

Ooao2009092101 それは、先頭がオス、後ろがメス。常にこの状態で、飛んでいく。

そしてオオアオイトトンボは産卵する。次へと命をつなぎ、やがてやってくる冬の寒さに命を落とす。

緑色の光沢のある、まるで宝石のようなオオアオイトトンボ。二つつながったその細い細い体が、シルエットになって飛んでいく。

Ooao2009092103 命の最後の瞬間は、こうして伴侶と過ごすのだ。ずっとつながって飛んでいくのだ。

おそらく、私が生まれるよりはるか昔、いや、人がここに住み着くよりもはるか昔から、彼らはこうやって命の営みを続けてきた。私はここを歩きながらそれを感じている。

キラキラと輝きながら飛んでいく、沢山の2匹つながった姿。なんて美しい光景なのだろう。気が遠くなるような昔から、静かに続いてきた生命の営み。

ただ、多くの人はその存在にすら気付いていない。

気付いて欲しいのだ。こんなに身近に、こんなに美しい風景があることを。そのために、私は写真を撮りたいと思う。ここで私が感じたことを多くの人に本当に感じてもらいたい。Ooao2009092102

こんなちっぽけなトンボにさえ、けっして人間の作り出した、仕組みや、お金や、ありとあらゆる価値観でははかることの出来ない、気が遠くなるような美しさがあることを、知って欲しいのだ。

そして、それを自分の体で体験すれば、今の日本で流行っている、まやかしの「地球にやさしい」がいかに意味のないことかがわかるだろう。

こんなちっぽけなトンボの営みでさえ、正面から受け止めれば、ずっしりと重いのだ。涙が出るほどに美しいのだ。本当に美しいものは、どこかしら少し怖い。Ooao2009092104

私は写真を撮り続ける。そして、いずれ、そんな、美しくて、どこかしら怖い写真を撮りたいと思う。

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2009年9月20日 (日)

やっぱりトンボを撮らずにいられない

トンボの写真のことは、このブログに何度も書いた。私は特別にトンボに思いいれがあるわけでもないし、トンボのことを詳しく知っていたりもしない。トンボのことを特別に研究していたりもしない。ただ、今の季節、散歩道はどこもかしこもトンボだらけで、目の前をトンボが飛ぶと、カメラを向けなくては気がすまなくなる。

過去にあれほど撮りまくったトンボなのに、やはり目の前にいるとカメラを向けたくなる。以前のように、フォトコンテストに出そうと、色々工夫して撮るわけでもなく、Tombo20070701s ただそこにトンボがいるから撮りたくなるのだ。

この写真は2年前に撮った写真だが、今から思えば、少し工夫すればもっといい写真が撮れるのにと思う。トンボの季節はそう長くはないから、一度逃すと次のシーズンに持ち越しとなる。それで、ずっと持ち越してしまっている。次の写真はいつになったら撮るのだろうか?と自分に突っ込みを入れたくなる。

散歩道プロジェクトを始めた頃は、とにかく、トンボの写真を図鑑のように綺麗に撮ることばかり考えていた。けれども、それはそのうち飽きてしまった。

標本写真ではなくて、トンボのいる風景が撮りたい。そう思って色々撮っていた。

飛んでいるトンボの写真も撮りたいと思って、大空に舞うトンボも撮ったこともあったなあ。Tombo20070908

素早く飛び回るトンボを、一生懸命レンズを振り回して追いかけるのは、まるで、捕虫網をもって追いかけるようなもので、スリリングだし、楽しい。

そうやってトンボとたわむれる。たわむれることの出来る季節はそう長くはない。

今日も、目の前にオニヤンマがグルグル舞っていたので、思わずカメラを向けた。

Tombo2009092001

コツをつかめば、ある程度はいける。でも、ほとんどが、あと一歩の写真になってしまう。なんとか満足のいく写真になるのは、ほとんど偶然の賜物であることも多い。何十コマ、何百コマと撮り、そのうちの数コマがなんとか見れる状態になる。

今、とっても撮りたいのは、オニヤンマの縄張り争いの写真だ。オニヤンマはグルグルと縄張りを旋回し、他のオニヤンマがそこに入ってくると、空中戦の末、追い払う。その空中戦が撮りたいのだが、これはほんの瞬きするほどの間に、物凄い速さで行われるため、これを捉えるのは至難のワザだ。

でも、いつかは撮ってみたいと思う。

Tombo2009092002 トンボのいる風景は、数限りなく撮った。ノシメトンボなどは、動きがゆったりなので、じっくりと撮れる。ただ、おんなじような写真ばかりになってしまう。これは今日撮った写真だが、次女に見せたら、「あれとおんなじじゃん」といって、壁に飾ってあった写真を指差す。ああ、ほんとだ(苦笑)。これも、最初、上手く撮れたときは嬉しかったのだけれど、マンネリ化してしまったか。

トンボを追い回していたら、何故か最近、あんまり撮る気にならなかった鳥の写真も撮ってみようかという気になった。丁度、立派なダイサギが舞っていた。Sagi20090920_2

まぶしい秋空の下で、トンボを追いかける今日の私の散歩。くねくねの主にもまた会うことができて、今日は少しゆっくりお話しした。

田んぼのそばで、トンボばかり撮っていたら、スズメバチが「うるせ~!」といわんばかりに、顔をかすめてくるんだよね。私はスズメバチがやってくると「はいはい」といって、立ち去る。

私と散歩道の生き物とは仲良しばかりでもない。今日はやたらとスズメバチがうるさくて参ったよ。

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2009年9月13日 (日)

生き物とのコミュニケーション

自然観察会などで、「私はここの生き物とお話しが出来るんですよ」などと、冗談っぽく言う。そうすると、「へぇ~っ」というような興味ありげな反応と、「まさか」という嘲笑にも似た反応の両方がある。そこで、「ほら」と、指を差し出すと、そこにトンボがとまったりするものだから、ちょっと驚く人もいる。Tombo20090728

まあ、これは、トンボが枝などの先端にとまりたがるという習性を利用したものだから、驚くこともないのだけれど。

ただ、「生き物とお話しが出来る」はあながち冗談でもないのだ。

蝶の写真を撮っていてると、「撮ろうとすると、すぐ逃げちゃうんだよね」という人がいる。私は、「ちゃんと話しかけなきゃだめだよ」という。実際、私は蝶の写真を撮るときに、よく、「そのままとまっててね」などと話しかけるのだけれど、これには理由がある。それは蝶に話しかけているのだけれど、実際には自分に話しかけているのだ。「そのままとまっていて欲しい」と思う。そう思いながら、蝶を一生懸命みながら近づく。それは、こちらが動くことに対して、蝶がどう反応しているか?をみているのだ。その反応を見ながら、近づき方を微妙にコントロールするということが、「話しかける」ということなのだ。Oomurasaki20080719 そのやりとりは、コミュニケーションに他ならない。

昨年、散歩道でオオムラサキの写真を撮った。そのオオムラサキは、最初、私の上を飛んでいた。どうしても写真が撮りたいと思った私は、「降りてこ~い!」と叫んだ。そうしたら本当に降りてきて、最初は私の体に突進してきたのだ。ひたすら突進して私にぶつかってくるオオムラサキに、私は「わかったわかった、わかったから、どこかにとまってよ」と、本当に話しかけていた。そして、オオムラサキは、私の肩にとまったのだ。肩にとまった状態では写真がうまくとれないので、ダメモトで、手を出し、「ほらここにとまれ」といった。そうしたら、本当にとまったのだ。

これだけ書くと、物凄いホラ話にきこえるが、ちゃんと証拠写真がある。これはそうして撮ったのだ。

しかしながら、けっしてオオムラサキが私の喋る日本語を理解出来るわけではない。私は日本語として言葉を発しているけれど、それは自分の内部では、日本語に翻訳される前の本能的な言葉があり、それは微妙な表現として体の外に出ていることだろう。それを相手が本能的に察知した時、そこにコミュニケーションが生まれるのだと信じている。当然、私はオオムラサキ語などわからないけれど、生き物が生きていくためには、他の生き物が今どういう行動に出ようとしているのか、ということを本能的に察知する必要がある。その、本能的な察知がお互いに交錯したときが、コミュニケーションだと思っている。そういう意味で「話しをしている」のだ。当然、話しかけてもすれ違いもある。言葉が通じる人間同士でもも同じことだ。そういうとき、「気持ちが通じなかった」と、私はいう。

今日、散歩に出掛けて、田んぼのそばを通りかかったとき、水路のあたりから、「キャッ、キャッ」という小さなつぶやくような声がきこえていた。みると、そこに一匹のヒキガエルが座っていたのだ。Hiki2009091301

ヒキガエルは繁殖期以外で滅多に鳴かない。それと、通常のヒキガエルの鳴き声は「グェッ」とか「グワッ」とかいう声であり、今回のとは明らかに違う鳴き方をするのだ。だから、これはきっと私に話しかけているのだと思った。

私はヒキガエルの前にしゃがみこみ、本当にヒキガエルに話しかけた。

私:「ああ、こんにちは」

ヒキ:「キャッ、キャッ」

という具合だ。その後もこのヒキガエルは、ささやくように鳴いた。何か言っているのだ。そのたびに、私はなんとなく相槌を打つ。

ヒキ:「キャッ、キャキャッ」

私:「うん、うん、そうか」

そんなやりとりをしばらく続けた。もちろん、私はヒキガエルが何を喋っているのか、詳しいことはよくわからなかったが、なんとなく気持ちは通じたのだ。これは本当のことなのだ。私はそこを立ち去るとき、「じゃあ、またね」といってわかれた。ヒキガエルもちゃんと返事をしてくれた。

Nushi20090913 その後、くねくねの主の所にいってみたら、めずらしく、くねくねの主は穴の中に座っていた。

私は、「おお、お久し振りだね~」といって、主との久々の会話が始まったのだった。私がいくと、主はいつも穴から出てこようとする。だから私は、「ああ、そのまま座ってていいから」というのだ。

さっきのヒキガエルは子供なので幼児語のような感じで話しかけてきたけど、こっちはかなり年配だから、会話も少し大人な感じだ。

こんなことを書くと、ついに頭がおかしくなったんじゃないか?と思われるかもしれないが、これは本当のことなのだ。

アカガエルプロジェクトを一生懸命やっていた時の、大きなアカガエルとの会話や、小さなクサガメの交通事故に遭遇して気分が落ち込んでいた時、出会ったクサガメの長老との会話はいまでもはっきりと思い出すことができる。そして、切り倒されたコナラの木との最後の会話も忘れられない。

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2009年9月 6日 (日)

チョッキリ

あれはいつのことだろう。8月の終わり頃、コナラの枝先がまるで剪定したかのように、切り落とされて地面に落ちているのを見つけたのは。そして、私はある人に教わった。「それは、チョッキリの仕業だよ」と。チョッキリという昆虫は一体どうしてこんなことをするのか?私にはまったくわからなかった。チョッキリという虫。私はそいつが面白がって枝を「チョキリ」と切り落とす様子を想像していた。

今日、散歩に出掛けたら、明らかにチョッキリの仕業と思えるものが沢山落ちていた。Chokkiri2009090601

そいつは、必ず枝先にドングリがついている。ハイイロチョッキリの仕業だ。ハイイロチョッキリはコナラのドングリに卵を産み、そして、卵を産んだドングリのついた枝を切り落とすのだ。それを知ったのは、私がチョッキリという虫の存在を知ってから数年後のことだった。それでようやくチョッキリが「チョキリ」とやる意味がわかった。彼らにとって、産卵したドングリが枝についたままだと困るのだ。他の生き物にドングリが食べられてしまう前に、枝ごと切り落とすのだ。

Chokkiri2009090602

切り落とされた枝の切り口を見ると、まるで剪定ばさみで切ったように綺麗にきれている。素晴らしい仕事だ。ただ切り落とすだけなら、ここまで綺麗に切らなくてもよいと思うのだけれど、彼らは小さな体でいい仕事をしている。

それと、ドングリを落とせばよいだけなら、ドングリの根元から切ればよいのでは?と思うが、かならず、ドングリと数枚の葉っぱがついた状態で切り落とされている。

Chokkiri2009090603

今、散歩道ではそこかしこに、このチョッキリの仕業が落ちている。歩いていて、こいつを見つけると、上を見上げてみる。そうしてコナラの木の存在に気づく。

たぶん、多くの人はこれを見ても何も気付かないか、あるいは風で枝が折れたのかと思うだろう。しかし、見事にドングリと葉っぱ数枚。

今日、歩いていたら、目の前にポトリと落ちてきた。まさに、今、頭上の枝で、チョッキリが切り落としたところだ。見上げても、コナラの木の存在はわかるが、小さな小さなチョッキリの姿は見えない。それでも、今、チョッキリは確実に頭上のコナラの木にいて、たった今それを切り落とした筈だ。私はその姿を想像する。

「よし、これを持って帰って娘や妻にみせてやろう」私はふとそう思い、いくつかのチョッキリの仕業を持って帰った。妻に見せたら、「風で落ちたのかと思っていた」といった。切り口を見せて、「風が吹いて、こんな風に切れるかい?」といったら納得した。もし、これを育てれば、いずれドングリからチョッキリが出てくる筈だ。でも、やってみなくては、実感できない。ふと、こいつをずっと家の中で育ててみたくなった。そういう自然観察でしかわからないこともあるんだなと、最近、私は気付いたのだった。

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