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2009年5月31日 (日)

毎年多数拉致される里山の蘭

散歩道には沢山の花が咲く。特に、春から初夏にかけては、次から次へと色んな花が咲き、自分の記憶の中にある花カレンダーを思い出し、「ああ、そろそろあれが咲くころだ」といっては花の様子が気になる。数ある中でも、ラン科の花は格別だ。Ran_kinran20090505 大雑把に言えば、ランはラン菌根菌という菌の助けを借りなければ発芽することが難しい。極端なものになると、菌から栄養分をもらわなければ育つことすら出来ないものもいる。

要するに、土壌の菌が元気でなければランも元気に育つことが出来ない。土壌の菌が元気であることは、ごくごく大雑把にいえば、枯葉や朽木、あるいは、昆虫、動物の死骸といったものが土に落ち、それが菌の餌になるわけであるから、そういう自然のめぐりがしっかりと生きていることが大事なのである。だから、そういう自然のめぐりの中のごく限られた部分がランの花となって開花している、そう思えるから、余計にランに魅かれる。

Ran_kumagai20050424 もっとも、自然の中の生き物は、多かれ少なかれ、目に見えない生き物も含めて、他のいろんな生き物と、複雑にからみあって生活しているのであるが、このランたちはある意味、自然の生命力のバロメータのような気がする。

しかしながら、多くの人はそんなことは知ることもない。ランといえば、なにか高級で、栽培が難しい植物と思っているくらいだ。道端に咲いていれば、高価なものが落ちていたという感覚で拾っていく人もいれば、それを持って帰って売る人。売っているのを買う人もいる。その花を咲かせている自然の力、そのすばらしさ、などというものは一切感じることもなく、単に「綺麗だ」というだけで花に接する人々だ。

Ran_sasaba20090510 実際、これらの里山の蘭たちは、特に、道端などの目立つ場所に生えていると、かなりの確率で盗掘にあうことは、見ていればわかる。葉がでただけの段階では、かなり大丈夫だが、つぼみをつけたり、花が咲くと、根こそぎなくなる可能性が高くなる。

まず間違いなく、盗掘されたものは花が終われば枯れて、それっきりになるだろう。それは、複雑な生態系に組み入れられている「生きた」土壌がなければ生きることが出来ないからだ。それを植木鉢のような閉じた場所に再現することは相当困難なことだ。

中には、一生懸命、人工栽培方法を研究している人がいて、かなり手をかければ栽培は可能なのかもしれないが、自然に生えているものを盗掘した人が、それを栽培する手段を一生懸命研究するというのは、いかがなものかとは思う。(もっとも、自然に対する理解を深めるという意味で、栽培方法を研究するというのはありだとは思うが)

一方で、このような盗掘を憎み、純粋に自然の中の花を愛する人々も沢山いる。そして、盗掘する自然破壊派との戦いも生じている。見つけても決して場所を教えない。しっかりと監視する。盗掘禁止の立て看板を立てる。生息域を立ち入り禁止にする。などなど、ありとあらゆる方法で守っている人々がいる。そうやって守らなければならない現実がある。

Ran_shunran20080330 私も何度も悔しい思いをした。ツボミをつけているのを見つけ、そろそろ花が咲いているだろうと行ってみると、跡形もなくなっている。根こそぎ、消えている。そのたびに、本当に腹が立った。自分の子供が連れ去られて、探し回る親の気持ちだ。それは、毎年何度も味わっている。それぞれの花の季節に、必ず一度や二度は味わう。本当は、そういうことがあると、このブログでも怒りをぶちまけたくなるが、そのたびにいちいち怒っていては、体がもたないくらいだ。私は、そのたびに、どうしたら盗掘がなくなるのだろうか?と一生懸命考えるのである。

秘密にしておくこと、も、ある程度は有効かもしれない。しかし、盗掘する方も、我々が見つけたのと同じように探し回っているはずであり、また、一度、生息場所を見つけられてしまったら、もう意味はなくなる。監視したり、立て看板を立てたり、立ち入り禁止にしたり、それもある程度は役に立つだろうが、特定の場所は守られても、全てをそのようにして守ることが出来るわけではない。

盗掘が起きる原因の一つには、世間一般の「花」に対する意識の問題があろう。花屋で売られている花と、自然の中に咲く花は何がどう違うのか?きれいな花が欲しければ、花屋で買ってくればいいじゃないか。それなのに、何故、盗掘しなければならないのか。そこに現代人のおかしなおかしな自然観の問題を見る。

花を守る方も、一歩間違えば、五十歩百歩のおかしな自然観におちいってしまう。公園に綺麗な花を植えて、それを大切にするという感覚と同じ感覚ではまるでダメ。自然の力で生きているものに、選択的に力を貸すことだけにとらわれてしまう。それは、花が綺麗であればよく、他の邪魔なものは排除するということになる。極端な話し、花を守るために農薬なり殺虫剤を吹きかけるなどという馬鹿げたことすら行って平気になる。それじゃあ、畑の作物と同じ、お花畑の花と同じ。私はそんな花はどんなに綺麗でも見たくないのである。いや、そもそも綺麗だとは思えない。せっかくのものを台無しにしていることに気付くこともない人がいる。

Ran_ooba20090510 今年、オオバノトンボソウが沢山芽を出していた。それを見て、今年は好調だと思った。いつもより、沢山の花が見られると。しかし、それは逆にいえば、彼らを目立たせてしまったのかもしれない。今日、愕然とした。

目立たない場所の1株を除いて、全て消えてなくなっていたからだ。

花を見ることは出来ても、自然を見ることが出来ない人が多すぎる。

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2009年5月 6日 (水)

雨降りの気持ち

昨日、田植えの手伝いにいったら、途中から雨がポツポツと落ちてきた。雨が強くならないうちにと、一生懸命田植えを終えた。田植えを終えて、延々と自転車で帰る。谷津田の中を帰る。Yatsuda2009050501

雨は、田植えの終わったばかりの、静かな田んぼの水面にたくさんの輪を作る。やがて、輪はどんどん増えていく。

畔道を自転車を押して進む。次第に本降りになってきたので、レインコートを取り出して羽織る。

田んぼわきの木がせり出している場所は、木が雨をさえぎってくれるので濡れない。けれど、すぐに通り過ぎる。

ああ、なんだかこの風景が好きだな。元気な晴れの日もいいが、雨が降ると、心が鎮まるのは何故だろう。新緑は濡れてよい香りを強くただよわせる。Yatsuda2009050502

サーッと雨がしぶきを上げて降ってくる。たぶん今日は帰りは雨になるだろうと思っていた。だから、雨の中、どこか木の下で雨宿りをして、そこでお弁当食べて、というのもいいな。などと思っていた。けれど、本降りになって、田植えの疲れもあるし、とにかく一生懸命進んだ。

今朝、起きたらまだ雨が降っていた。新緑の季節は短く、すぐに過ぎ去ってしまう。その大切な時間、散歩していたいと思うのだけれど、雨だ。

昼前になって雨があがったようだったので、散歩道へと向かった。シュレーゲルの大合唱と、ウグイスの声が谷に響く。特に、こんな、湿った曇りの日には、しっとりと、よく響く。Kunetoge20090506

くねくね峠を越えて、新緑の中で一人田んぼを眺める。先日、用事があって徒歩で山を越えて行った帰り道、ここで一人お弁当を広げて食べた。いつか、そうしたかったのだけれど、何故かそんなことをしたことがなかった。今日はつかのまの雨あがり。空はまた暗くなり、雨が落ちてきそうだ。ゆっくりもしてられないな。と思ったら、パラパラと雨が落ちてきた。

「あっ、雨だ」

一人つぶやく。しばらくここで雨宿りするか。

Karugamo20090506 田んぼにカルガモの夫婦が降りてきた。彼らは、毛づくろいをしたり、田んぼの中の何かをつついたりと、ゆったりと過ごしている。この季節、ここでよく見かける光景だ。

雨はそれほど強くはないが、しばらく降り続いた。空を見上げながら、雨がやんだら帰ろうか、と思う。でも、この場所で新緑にパラパラと雨が落ちる音をきいていたい気がする。緑の香りは濡れてさらに強くなってくる。じっとしていると、この場所に溶け込む。人の言葉では多くを語れない。でも、木々は香りで語りかけてくる。自然は音で、空気で、語りかけてくる。言葉に出来ない言葉。何度となく、私がここで感じたこと。

Kunetoge20090506r 空が少し明るくなったので、さあ、帰ろうか。

ゆっくりゆっくり進む。心の中のとげとげしい部分も今日は濡れて、やわらかだ。やんでいた雨は次第にまた本降りとなってきて、私はまた家へと急ぐ。玄関の前まで来たとき、急にザーッと雨が強くなった。

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2009年5月 5日 (火)

それでもカエルを駆除したがる人々に告ぐ

昨年、そんなにカエルを駆除したいのかという記事を書いたら、一躍有名になってしまった。あれを書いた直後、一日数千人もの人がこの「散歩道ブログ」をおとずれた。私にとってはごく当たり前の記事のつもりだったのだが。Amagaeru20080621

  さて、今年も、ちょうど今、田んぼなどではアマガエルの合唱が最盛期である。そうなると、今年も来た来た、「カエル駆除」で検索してこのブログにやってくる人々が。ここの散歩道ブログにどういう検索フレーズでやってくる人が多いのかということは、公開している。よく見てもらえば下の方にある。見ればわかるが、「雑草の名前」「カエル駆除」とそれに似通った検索フレーズでほぼ100%に近いのだから、ここは「散歩道ブログ」でもなんでもなく、「雑草の名前」「カエル駆除」ブログということだろう。
 実際に検索エンジンで「カエル駆除」で検索してみて欲しい。そうすると、この散歩道ブログが真っ先に出ることだろう。その次から出て来る結果をずっと見てみて欲しい。ゾッとするよ。これが現代の日本人のカエルに対する考え方であることは間違いない。もっといえば、自然に対して、このレベルの認識なのだ。「カエルの駆除方法知りませんか?」「庭にカエルが住み着いているので困っています。いい駆除方法を知りませんか?」である。まったく、呆れるというか、笑っちゃうくらい、なのだけれど、そんなに駆除したかったら手で捕まえて殺せば済むことだろう、と思う。だいたい、「庭に10匹くらい住み着いています」というヤツが一生懸命駆除方法を調べているが、そんなもん10匹くらいなら簡単に捕まえられるだろう。そんなに広い庭なのかい?なんならオレが行って捕まえてやろうかと思う。 Amagaeru20080614
 そういうことがあるから、私は、あえて「かわいい」カエルの写真を載せる。カエルのキャラクターはカワイイというくせに、本物のカエルは気持ち悪いなどという。本当にそうか?よくみてもらいたいと思うのだ。
さらにはカエルそのものに対してまったく無知。カエルは一年中鳴くわけではない、というと若干語弊があるが、一年中よく鳴くのはアマガエルくらいで、他のカエルは繁殖期以外はほとんど鳴かない。アマガエルだって、大合唱となるのは繁殖期くらいで、後は数匹がポツリポツリと鳴いているくらい。全く何の害もないカエルを、「声がうるさい」とか、「キモチ悪い」といって「駆除」したがるのだから、そんな人にいくら自然の大切さ、その一員である生き物の大切さをうったえたところで、「きもち悪いものはきもち悪いのだから、何が悪い!」といって逆ギレされるのがオチである。
  Akagaeru20070223_2

以前も書いたが、都会の公園の池にカエルがいて、近所から「カエルの声がうるさい」といって苦情がくるそうだ。そして、公園管理人はカエルを本当に駆除してしまったという。世も末だね。元来、日本人は四季折々の自然を愛でることに長けているのではなかったか?カエルの声だって自然の一部だし、「蛙飛び込む水の音」は、あんた、キモチ悪いと思うのかい?
都会では、公園の池のカエルは駆除される。ところで、池ってなんだ?水が溜まっていれば池なのか?あんた、本物の池を見たことがあるかい?カエルやメダカやいろんな生き物がウヨウヨいる池だ。ゴルフ場の池とか都市の公園の池はあれはなんだ?最近は、やたらと親水公園とかいって、水に親しむ環境を作るというが、その水ってなんだ?その根本的なことをないがしろにして、やれ水に親しむ、自然に親しむといったところで、自然ってなんなの?水に親しむってどういうこと?という根本的な問いに答えられない。
 Akagaeru2008060701 今日、私は田植えの手伝いをした。泥まみれになって田植えをする。田んぼにはカエルやドジョウやカメなどが生きている。子供には、そういうところで泥まみれになって遊んで欲しいと思う。しかし、今時は、子供がそんな泥に足を踏み入れようとすれば、「汚いからやめなさい」と親が言う。だから、今は裸足で土の上を歩けない子供がたくさんいる。子供の頃から、そんな狂った感覚で育つものだから、庭にカエルでもでてこようものなら、狼狽してしまって、「駆除方法しりませんか?」である。
 しかも、ネットで検索すれば答えがあると思っている。ネットで検索してでてきた答えを「ああ、そうですか」と信じ込んでしまうのだから、そんな人々に対しては情報操作だって簡単に出来るというものだ。自分の考えは捨て、情報はすべてネットにゆだねている人のなんと多いことか。なにしろ、友人の結婚式のスピーチに何を話せばいいか、例文はないか?などとネットでたずねている人もいるくらいだから、完全に自分を殺してるね。自分の存在意義さえも捨てて、全てをネットにゆだねてしまっている。Amagaeru20070716
 だったら、そんな悩めるあなたに私が教えてあげよう。正しいカエルの駆除方法を。

「カエルを手で捕まえて手にぐっと力を入れて潰す」

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2009年5月 4日 (月)

散歩道では絶滅したかと思った生き物

散歩道の生き物で、かつてよくみかけたが、みかけなくなった生き物はいくつかある。何シーズンかみかけなくなると、もしや絶滅してしまったのでは?と思うことがある。果たして絶滅してしまっているのだろうか?
サワガニは、かつて、散歩道で最も絶滅に近い生き物だと思っていた。かつては、ごく普通に見かけることができたが、やがて見かける回数が減り、そして、ついには何シーズンか見かけなくなり、絶滅したかと思った。その後、水路で、幼いサワガニを見つけた時は驚いたが、絶滅していなかったことを知って嬉しかった事を思い出す。

Sawagani20040724
本当に絶滅したかどうかは、本当によく調べてみないとわからないことだろう。生息の可能性のある場所をくまなく調べ、何シーズンかみかけなかったときに、初めて絶滅したということになるのだろう。Sawagani20090504

今日、そのサワガニを水路で見つけた。ぱっと見で生きているのかどうかわからなかったので、近づいていったところ、そいつはちゃんと生きていた。その直後「もしかしたら絶滅したかも」と思っていたものを見つけたのだから、驚いた。こういう日もあるものだ。

Koke20090504
それはコケリンドウ。数年前に偶然見つけたのだが、その後みかけなくなっていた。今日、ふと思い出して、探してみたら、あったあった。こいつはかなり小さいので、見逃していた可能性もある。ちゃんと生きていたのだ。
生息基盤が脆弱な生き物は色々ある。生息するための環境が複雑であったり、微妙であったり、逆に大規模な環境が必要であるものもいる。だから、そういう環境が少しでも変化すると、絶滅してしまうんではないかと気をもんでしまう。

散歩道にはニホンアカガエルの楽園のような場所がある。いや、あったというべきだろう。ここでたくさんのアカガエルが育っているが、ここ数年少し環境が変わって、必ずしも楽園でもなくなってきた。ただ、私はそういう変化がどう影響するだろうかと思って毎年見ている。雨が少なく、水が涸れてほとんど死滅したと思った時でも、今までみてきたところでは、なんとか生き延びているものがいて、ちゃんと育っているのを目にするから、ちょっとくらいの変化には耐えられるようだし、彼らはそういう過酷な環境でも生き延びてきたからこそ、過酷な環境に耐えられる能力を身に付けてきたのかもしれない。Aka20090504

本当に絶滅してしまった生き物は、全てではないが、およそ人間が無知であったがために絶滅を防げなかったということだろう。人間はいつの時代も無知だ。だから、それを補うために一生懸命に研究して、一歩一歩進んでいるにすぎない。今も、一歩一歩進んでいる途中である。だから、現代人だけが全てをわかっているということは絶対にない。そういうことを前提に考えないとまた同じことを繰り返してしまう。そうならないためにはやはり、自然について、野生の生き物について、どういう生活をしているのかということを確かな目で観察することが大事だと思う。それは、ただ一つの生き物だけを見るのではなく、人間も含めた自然の中の様々な命のめぐりといった視点が大事だと思う。そして、決して完全ではない答えを、少しでもよくしようとしていかなければならない。それが、自然を守ることに繋がるはずだ。

Tampopo20090504 人々はよく、環境が「良い」「悪い」と基準があるかのように言うが、それは何を基準にしているのだろう。自然が生き生きとして、力強い生命にあふれている姿が「良い」として、それはいったいどういう環境なのか?もしあなたが「良い」環境と思う基準があるならば、それはどうやって成り立っているのか?このことに答えを求め続けなければ、進歩はないし、絶対的な答えが教科書に書いてあるわけでもなければ、誰かが知っているわけでもない。

絶滅したと思った生き物が、しっかりと生きていた。私はそんなことを考えながら輝く新緑の中を歩いた。Kunetoge20090504

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