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2008年12月29日 (月)

今年一年

今年もまた、散歩道プロジェクトの一年が過ぎようとしている。来年の2月で散歩道プロジェクトは丸7年を迎える。色々なことがあったが、それでも、今年も健康に数え切れないほど散歩道を歩くことができたことに感謝したいと思う。Sampoent20081229 今年を色々と振り返ってみたい。

今年は、アカガエルの産卵が例年になく遅かった。今までみた中でもっとも遅かったため、アカガエルの卵が見られる時期にと設定していた、市津ふるさと塾の観察会の日に、アカガエルの卵が見られないという事態が発生した。気候の影響が大きいのだが、毎年みていると、少しずつ遅くなっているような気がしてならない。人間の生活パターンに左右されていることが考えられると思う。

それでもちゃんとピークにはカエル合戦は盛り上がりを見せたし、アズマヒキガエルも例年通りにすさまじいカエル合戦をみせてくれた。

散歩道のこれらのカエルたちは、この周辺では最も健全な状態にある。しかしながら、人の生活の微妙な変化だけで、いつ絶滅しても不思議ではない状態にあることは間違いない。これこそが身近な自然の危機である。そのことに人々はどれだけ気付いているだろうか?

今年、「そんなにカエルを駆除したいのか」というタイトルで、この散歩道ブログに書いた記事が、一時的に、一躍有名になったことがあった。それは、アマガエルの大合唱のピークの時期に重なる。「カエル 駆除」というキーワードでこのブログにやってくる人が急激に増え、噂が噂を呼ぶ格好で、ピーク時には、このブログへのアクセスが一日数千件にも及ぶことがあった。ネットの驚異だ。ほとんど殴り書きのような私の文章でも、「うるさいからカエルを駆除したい」という発想そのものの異常さに気付いてもらえたのならよいが。今、日本でカエルそのものがおかれている現状を自分で見ることは困難でもある。困難だからこそ、私には伝えたいことがあるのだが。

これだけ数限りなく歩いていても、散歩道は、今年もさらに様々なものを見せてくれた。夏の日のオオムラサキとの出会いはまるで夢のようだった。Oomura2008071905

今年の忘れられない思い出だ。いま思い出しても、胸が高鳴る。本当に夢をみているような、にわかには信じられないような出来事が時々起こる。自然は、時々ビックリするような凄い出来事を用意してくれているのだ。それを信じているからこそ、これだけ毎回同じ場所を歩くことができる。いや、毎回同じ場所を歩いているからこそ、このような出来事に出会えるのだと思う。「花が咲く時期だけ、出かけていって花だけを見る」そんな接し方ではけっして見ることが出来ないものがある。それが自然観察。私がいう自然散歩なのだ。そうでなければ「自然観賞」でしかない。動物園や植物園で見るのとたいして変わりがない。そうではなく、この時のような胸の高鳴り。いままで決してみることが出来なかったものが突如として目の前にあらわれることの凄さ、つづけて見ていると、何か凄いものが見えてくるときの感動。そういうものを味わうことが出来なくて、自然の素晴らしさはわからない。

そして、今年は多くの人に散歩道をご案内することが出来た。天気に恵まれないことも多かったが、それでも、私が愛するこの地の自然を少しでも感じてもらえることが出来てうれしかった。そして、地元で講演会も行うこともできた。本当に気付いて欲しい地元の人に、この目の前の自然の素晴らしさを感じてもらいたかった。それが少しでも出来たということは散歩道プロジェクトとして大きな前進だ。

もともと、この素晴らしい自然に気付くことなく、なんのためらいもなくこの自然を消去していってしまう人たち。目の前にありながら気付くことがない人々。それをなんとかしたかった。みんなが薄々気付いているかもしれないこの場所の素晴らしさを、当たり前のこととして認識すること。それができるようになれば、この自然を残すことの大切さが当たり前のこととしてわかるようになるだろう。そう思って始めた散歩道プロジェクトである。

「表面的でない、本当の自然を感じてもらえば嬉しい」これは、私が今年あるところに出かけて行った先で、地元の人に地元の自然を案内してもらいながら言われた言葉である。「表面的でない本当の自然」を感じることは簡単なようで難しい。私達は、目の前にある素晴らしい自然を「本当の自然」として感じて、これを伝えていかなければならない。

私は歩きながら自問自答することも多い。私は自然の本当の姿が見えているだろうか?こうして何年も歩いているが、何か見えるようになっただろうか?初心にかえって、その時、私がこの自然の中で本能的に感じたこと、それは今は感じているだろうか?私はこの場所の自然観察の先駆者として、伝えていくことも必要だ。それが私のライフワークである。自問自答しながら、新しい年を迎える。今年も無事に歩き続けることが出来たことに感謝しつつ。Sampo20081229

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2008年12月23日 (火)

冬の散歩

思えば、「散歩道プロジェクト」を始めて、カメラを持って散歩するようになった時、季節は冬だった。そこから私の散歩記録が始まったことは、偶然とはいえ、今から考えれば良いタイミングだったと思う。

Fuyu2008122301 私は冬の散歩は好きだ。それも雨が降った翌日の良く晴れた冬の日。空は澄み渡り、空気はひんやりと、しかし、日差しは眩しい。足元に積もった落ち葉は濡れて、濡れた落ち葉の香りをただよわせている。北風が吹くと、木々がザワザワと音をたてる。虫の声はすっかりなくなり、鳥の声があちこちから響いてくる。そんな静けさの中で、自分の足音や呼吸する音までしっかりと自分にきこえてくる。そうして、自然の中にいる自分自身を感じることが出来るのだ。

この時期はかろうじて、生き残った昆虫に出会うこともあるし、冬越しをする昆虫を思いがけず発見することもある。冬越しをしているチョウ、ヒラヒラと音もなく舞うその姿を幻のように感じる。

Fuyu2008122302 コナラやクヌギの林は、完全に落葉し、夏の間、真っ暗だった林の中まで、日差しが届く。鳥たちが、その木々の間によく見える季節でもある。彼らは、木々の間の澄み渡る空気の中で、鳴き交わしながら自由に飛び回る。そして、彼らの鳴き声や姿を見ながら、彼らの生活を身近に感じることが出来る。

Fuyu2008122303 冬の昼間は貴重だ。どんどん影が長くなり、そして、日が暮れていく。のんびりしていると、体力をもてあました状態で散歩の時間が終わる。だからこそ、冬の昼間は輝いて見える。いや、本当に輝いている。照葉樹の葉は、冬の日差しに本当にキラキラと輝いて見える。

冬の間も、少しずつ少しずつ季節は動いていき、春の兆しが見えてくる。オオイヌノフグリやヒメオドリコソウ、ホトケノザなどの花が咲いているのを見つけると、春の足音が聞こえてくるような気がして、すこしワクワクする。いや、今はまだワクワクするには程遠い。これから、どんどん冬になっていくのだ。温暖な千葉県の冬は短いと思う。けれども、私にとっては長い季節だ。冬はまだ始まったばかりだ。

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2008年12月14日 (日)

ホタルがすむ水辺

先日、NHKのニュースで、ホタルを守る団体の活動を紹介していた。それはそれでいいのだが、NHKさんに一言いいたい。ホタルを守る活動の参加者へのインタビュー、何人も紹介しているのに、「水をきれいにしたい」という人の発言しか紹介していなかったのはよくない。ニュース制作のスタッフが自然に対する理解が少なかったので、そのようなことになったのだと思う。もし、そうでなければ、このホタル保護団体は自然に対する理解が足りない。「水が綺麗になればホタルがすめる」あるいは「ホタルがすむには水を綺麗にすることだ」という理解であったとすれば大きな間違いであり、「ホタルがすめる環境にしましょう」ということと、「水を綺麗にしましょう」ということは全然違う。水を綺麗にしてもホタルがすめるとは限らないのである。

もっとも、生まれてこのかた、ホタルが自然に生息している環境を見たこともなければ無理もない。はるかな昔から延々とホタルが生きつづけてきた環境をよくみなければわからない。それは、水だけが大事なのでは決してない。結果として、綺麗な水であることが多いのだが、ヘイケボタルなどは、水の綺麗さでいえば、都市公園の水環境よりもうんと悪いところでもしっかり生息している。その違いはなんなのか?を考える必要があり、そこまで考えが及んでこそ、ホタルを守る、あるいは、ホタルを取り戻す、ということが、何をすべきか?を教えてくれるというものだ。そうでなければ、初夏のホタルが光るわずかな時期だけ「ホタル!ホタル!」などと騒ぎ、それ以外の1年間のほとんどの季節にはホタルなんか忘れているということになってしまうのだ。

Mizube2008121301 ここの水辺にはホタルが生息している。この場所は、谷津田の谷の底で、少し離れた場所から水が湧いている。それを、単純に土を掘っただけの水路で、田んぼまで水を引き込んでいる。

水が湧きあがる場所からそう遠くもないため、水が綺麗であるということもあるが、底が土で出来ているということは、土壌中の微生物による浄化作用もあって、水が綺麗に保たれている。さらに、土手も土である。このことが重要である。

ホタルの幼虫は水の中で育ち、サナギになる時に水から出て、水辺の近くの土の中でサナギになる。だから、もし、この水がいくら綺麗でも、土手をコンクリートにしてしまったら、サナギになれない。さらに、コンクリートの水路を見ればわかるが、コンクリートは水はけがよい。というのは、コンクリート水路というのは、田んぼに水が必要な時は水が流れているが、それ以外の時には水がなくなっていることが多いのだ。こんな環境ではホタルが生息出来るわけがない。

初夏の夜にホタルを探索にいくと、面白いことに気付く。それは、ニホンアカガエルが沢山生息している環境とホタルが沢山みられる場所は、かなりの確率で一致するのだ。ニホンアカガエルも、ホタルと非常に似通った水辺環境を必要とするため、この一致にはうなずける。

ただ、ニホンアカガエルが沢山生息していても、ホタルは皆無という場所もある。それは、「明かり」の問題である。街灯のある場所にはホタルがいない。ホタルはその光を使って繁殖行動を行うため、ホタルの光が見えなくなってしまうような明かりの下では繁殖することが出来ないのだ。それから、おそらくは、電灯に向かって飛んでいって死んでしまうということの影響も少しはあるだろう。

何故また、こんな冬の時期に「ホタル」の話なのか?と思うかもしれないが、ホタルは一年中生きている。初夏の頃にしかいないわけではない。これはあらゆる生き物についても言えることで、どんな生き物でも一年中生きていなければ、絶滅してる。

自然観察会をしていると、参加してくれる方にはどういうわけか山野草の好きな人が多い(昆虫とか、両生類とか、爬虫類が好きだという人は残念ながら少ない)。当然、花の季節に案内しないわけはないのだが、毎回、花の咲かない季節だって、この植物たちは生きているんだよ、ということが、ちゃんとわかっているだろうか?と気になる。そして、一年を通して、その自然が色んな意味でめぐっていることが、ほんの一瞬の花の季節を迎えることに繋がるのだ。ホタルだって同じだ。光る季節は彼らの一生のうちのほんのわずかな時間でしかない。それ以外の大部分の時間、彼らがどこでどうやって生きているのか?それを考えた上で、ホタルが棲める環境を考えてもらいたい。水は大事かもしれないが、どちらかというと、結果として水が綺麗になるのであり、そのためには、水辺だけでなく、その水を供給する山、森、といったところの環境、水を浄化する土と、その土の中にいる土壌菌の環境といったところまで、考えを及ばせて欲しいものだ。

Mizube2008121303 この枯葉のこみちのある、斜面を流れた水、この枯葉の地面にしみこんだ水、それがホタルの水辺に水を供給する。これらが一切なくなってしまったら、水辺だけが残ってもホタルは棲めないのだ。ホタルが棲めるように、水を綺麗にしましょう、といったとき、重要なのは、こういった水のめぐりなのである。もし、水を綺麗にすることイコール家庭の生活廃水を綺麗にすることだと考えているとしたら、ホタルの生息には何の役にも立たない。

こんな水のめぐりや、目に見えない生き物の作用といったことが自然にとってはとても大事なことなのである。

落ち葉はゴミのように扱い、落ち葉を落とす面倒な落葉樹は根こそぎ伐ってしまうなどという、すさんだ心の持ち主にはとうてい考えが及ばないことだ。そうでなくてもそういう自然のめぐりに考えが及ばなければ、やれ環境を守るだの、自然にやさしいだのといっても、単に「流行り言葉」でしかなく、なんの意味も伴わない。まずは、自然はどのようにして生きているのか?それを知るべきだ。

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2008年12月 7日 (日)

自然の循環と人間の悪循環

Ochiba2008120702 紅葉がピークを過ぎて、今は落ち葉の季節である。数日前の冬の嵐で随分と風景が変わった。落葉樹は葉っぱを随分落とした。落ち葉の季節になると、毎年、落ち葉に伴う自然の循環のことを考える季節である。

ちょっと調べものをしていたら、どこかの大学の偉い先生が、「落ち葉は循環などしていない」などと仰っているのを発見して、唖然とした。「リサイクルは幻想である」という本などを出されている偉いお方である。まあ、私も今のリサイクルブームはおかしいと思っているので、リサイクルに関しては、ある程度は納得できるが、あれほどの偉い先生であっても、時間のスケールの感覚がこんなにもないのかと唖然とするしかない。その先生によれば、「自然は循環などしていない」のだそうである。そりゃあそうだ。完全に循環なんかしていたら、化石なんか見つかるわけがないよね。というか、いわゆる我々が使っている化石燃料ってのは、循環していない部分をあとで取り出して使っているわけだ。しかし、もし、その先生のようなことを言うお利口さんの「子供」がいれば、私は、「それは循環していない部分と、循環している部分との比率を考えてごらん?」というであろう。地球上のあらゆるエネルギーの元になっている太陽光線のことを考えたら循環もクソもないわなあ。太陽がなくなって、循環するかって~の!太陽エネルギーを受けているから、そのエネルギーを使って多くの物質を循環させてるってこと。これは、生物だけではない。大気だってそうだ。しかしそれは100%ではない。だからといって、その100%でないものを、無知な我々がテキトーにバランスを崩して、その結果に責任がもてますかって~の!そこが問題なのであって、そういう説明なしに、「循環していない」「だから、循環などさせる必要はない」と仰るのはいかがなものかと思う。偉くなると、「概念」にしばられて、目の前に起きていることが見えなくなるんではないかと思う。まあ、世の中、ヒトと違う、ユニークな意見を述べられて、それが、特に偉い先生となると、注目されるので、それはそれで商売としては成功でしょうがね。

Ochiba2008120701 まあ、それは置いておいて、どうも、落ち葉というのは自然に循環するものでないと思っている現代人が多すぎて困る。だいたい、天然林の落ち葉は誰が掃除しとんねん!!と考えたら、誰もなんにもしてないわけ。だけれども、人間の住んでいるところに落ち葉が落ちたら「落ち葉問題」とかいって、まるで「公害」のごとくゴミが増えたように扱われるのはいかがなものかと思う。あげくの果てに、ゴミをリサイクルするがごとくの扱われ方。これはおかしい。

「落ち葉を利用する」といって、利用すればそれで全てが解決するがごとく言うヒトもいるが、それは「人間の都合」しか考えていないのである。「利用する」といったときの「利用する」のはあくまで人間。そういう考えでは、自然のことなど理解できないであろう。

「利用したい」ならしなさいって。それでいい。都合のいいように利用すればいい。他の多くの生物もそうしている。別に、人間以外の生き物は環境をよくしようと思って生きているわけではなく、自分に都合のよいように生きているだけだ。それが、他の生物の利害と一致して、うまくやってるだけ。だから、人間が「利用したい」と思ったことが利害一致するならばいいわけだ。

しかし、問題は、人間は、自分の頭の中で考えたことが、全てだと思っている。そこに何があろうと、そんなことは関係なくなる。落ち葉をゴミだと思った瞬間、ゴミになるし、ゴミにしているのが自分だと気付かない。Ochiba20081129

落ち葉を分解するには土が必要であり、土の中の微生物が必要である。そうして落ち葉の物質が循環することが出来るのである。しかしながら、その循環をアスファルトやコンクリートで断ち切っておいて、結局、落ち葉がゴミになった、大変だ、誰か掃除してくれ!となる。

そして、一生懸命掃除して「ああ綺麗になった」という。それが、環境を良くしたと勘違いする。Ochiba2008112203

そうして、燃えるゴミにしてCO2を大量に排出してしまうことに気付かず、この落ち葉よりもCO2排出の少ないことにこだわるのである。

まだ、機嫌よく、落ち葉を掃除しているうちはいいが、そのうちメンドクサクなってくる。来る日も来る日も落ち葉を掃除して、「ああ、もういやだ。なんで、こんなに落ち葉掃除しなくちゃならないの。そうだ、この木が悪いんだ。こんな木は伐ってしまえ」

Ochiba001 となって、禿山が出来る。

最近、都会の公園の木を見ると悲惨なことになっている。剪定というものは、余分な枝を伐ることだと思ったら大間違いであって、落葉樹は枯れる寸前のところまでギリギリに枝を落とすことが公園の剪定と思われている。それは、落ち葉を出来るだけ少なくするためであろう。そうして、まるで電信柱のようなイチョウやクヌギが出来上がる。まだ、それならいいが、そのうち、切り株だけになるのである。こんなことに疑問を感じる人は皆無である。

ある人は「もったいない」といい、ある人は「綺麗になった」という。どちらも間違っている。

落ち葉を地面に還すという循環を忘れている。これでは、子供達が落ち葉の中で遊ぶことも出来ないし、自然の中の落ち葉の役割などというものも理解できるはずもない。もっとも大人がこれっぽっちも理解していないからである。

今日、ニュースを見たら、どこかの環境保護グループとやらが、馬鹿なことを言っていた。ホタルの生息出来る環境を作るために、水を綺麗にしましょう、という。大きな間違いだ。彼らは彼らなりに理解しているのかもしれないが、水が綺麗かどうか?は大して問題ではないのだ。汚れた水を浄化しても、ホタルは棲めない。綺麗な水がなにより大事なのではなく、ホタルが棲めるような環境は、たいてい水が綺麗である、ということである。これは自然の循環が健康にまわっているからに他ならない。ホタルがどこに産卵して、どこで育って、どこでサナギになるか?そうして、どういう環境で繁殖を行うのか?これらの全てが重要なのであって、水質だけを綺麗にしても無理。そんなこともわからないで「環境を守る」という。

落ち葉一つ、ちょっと考えてみて、落ち葉の循環が自然の循環、海まで含めた生き物の循環にどうかかわっているのか?ということを考えてみてほしい。そういうことから、自然を守る、環境を守るということを考えて欲しいものだ。今の日本人の自然感は、そういうことがまったく出来ていない。それでいて「環境」だけが優先するのはおかしい。「健康」に感心があるといって、「納豆ダイエット」みたいな、不健康なことを一生懸命やっていることと同じである。そんなことに早く気付くべきなのだ。それを知らずして、循環させるべきものが「悪循環」になっている。かの「循環していない」大先生も、今の標準的な日本人の理解における「循環」をおかしいと仰っているのなら、それは納得しよう。しかし、その前に大先生に申し上げる。自分の目で目の前の自然を見てみたら??

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