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2008年5月18日 (日)

雑草の名前

自然観察会で、とにかく、身近などこにでもある草の名前を言う。これがオオイヌノフグリ、これはヒメオドリコソウ、これはハルジオン....そうすると以外な反応が返ってくる。「こんな雑草にまで名前がついているんですね?」と。それは、その人の正直な感想なのだろう。昭和天皇の「雑草という名前の草はない」という言葉は有名である。考えてみれば当たり前のことである。別に雑草だから名前を付けないということはない。ただ、いえることは、そういう風に、「これが○○」と教わらなければ、「雑草には名前すらない」という意識が一般的にあるということだろう。花屋の店頭にある花には名前がある。だが、雑草には名前がない。それはどういう根拠からくるのか。

Zasso2008051801 私は、草の名前を知ることは重要ではないと思っている。名前を知らなくたって、それがどんな場所に生えていてどういう季節に花を咲かせるか、を知っている方がより自然を見つめているということであると思うからだ。名前なんて知っていても、どこにどんな風に生えているのかも知らなくては、知っているとはいえない。だから、名前なんてどうでもいいや、と思っていた。でも、自然観察会をしていると、「これは何?」と名前を尋ねる人が圧倒的に多い。名前を知ることが自然を知ることだと思っているフシがある。

最近、「名前を教える」ということはそれはそれで意味のあることであると、気付いた。

普通に道端にある雑草を「これは○○」と教える。そうすると、「いつも庭や畑に生えていて、なんにも考えずに抜いていたが、これは○○なんだ~、と思うと、抜くのがもったいなくなって困る」という話しをよくきく。そんな風に言われると、名前を教えてよかったかな?と思う。私は「別に、気にしないで抜いてくださいな」というのだけれど。

ただ、「雑草」としか思っていなかったが、よく見ると、いろんな草花があり、いろんな生活をしている。ただそれだけのこと。よく考えてみれば当たり前のことだが、それに気付くと随分と自然を見る目が違ってくる。よく、観光バスで大勢で見に行くような、メジャーな草花だけが偉いわけではなく、すべては自然の一員であり、それぞれにそれぞれの場所で生きている。そういうことに気付くだけでも自然に対する考え方が違ってくるとしたら、それはそれで大変意味のあることだと思う。

私は常々、自然観察なんてものは、「自然観察が出来る場所」というのがあるわけではなく、身近に生きている生き物のことをまず見つめることから始まると思っているし、それが出来ないで、いきなり「名所」などという場所にいって何を見るのだろう?と思う。遠くに出かけなくては自然観察が出来ないと思っているとしたら、それは、「自然観察観光商売」の思うツボなのである。

もっとも、遠くに行かなければ決して見られないものもあるから、それはそれで遠くに出かけていくことは必要なのだけれど、じゃあ、自分の住んでいる場所のまわりの自然をどれだけ知っているか?ということが問われるのではないか?自分の住んでいるまわりの自然を知っているからこそ、遠くに出かけたときに、その違いがわかる。その素晴らしさがわかるというものだ。

身近な雑草を見ること、これは重要なことだと思う。そこに目がいっているかいないか、それは重要なことである。「貴重な場所」といわれている場所でなければ「貴重」でないから、破壊してもどうってことはないという意識があるとしたら、それは、身近な自然も、かけがえのないものであることを知らないからだ。自然とともに生きるということは、世の中を貴重な動植物だらけにすることではない。身近な生き物もその姿をしっかりみて、その存在を尊重することだ。Zasso2008051802

雑草だって、その地域にしかない雑草は沢山ある。そこで生きている生き物たちの生態系は地球上に他に同じものは二つとないことは確実に言える。

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コメント

推移していく野の草花のすがたには、あれあれこの前にはアカツメクサが咲き出していて今日の日にはニワセキショウがと季節が確実にうごいていく様を感じさせられます。船にのっているとこの大地の営みをみることができないのだと、土のうえの推移をみれることにありがたみを覚えます。
 もとたんぼの復元をなんとしてもと頑張れた二週間、朝から草刈り機のブーンブンなる上総湊でした。ぼんやりしていると草がおおいかぶさってくるから、という近所の方の話しにも実感をもってなるほどとわかるようになりました。それにしてももとたんぼは、水べをすきなヨシ、ガマ、ヤバイツルの生息域となっていました。3Mだけ復元してきました。
 最後のPHOTは「地獄の釜のふた」という名前がついていませんか?

投稿: 節分草 | 2008年6月 2日 (月) 15時11分

推移していく野の草花のすがたには、あれあれこの前にはアカツメクサが咲き出していて今日の日にはニワセキショウがと季節が確実にうごいていく様を感じさせられます。船にのっているとこの大地の営みをみることができないのだと、土のうえの推移をみれることにありがたみを覚えます。
 もとたんぼの復元をなんとしてもと頑張れた二週間、朝から草刈り機のブーンブンなる上総湊でした。ぼんやりしていると草がおおいかぶさってくるから、という近所の方の話しにも実感をもってなるほどとわかるようになりました。それにしてももとたんぼは、水べをすきなヨシ、ガマ、ヤバイツルの生息域となっていました。3Mだけ復元してきました。
 最後のPHOTは「地獄の釜のふた」という名前がついていませんか?

投稿: 節分草 | 2008年6月 2日 (月) 15時12分

雑草は身近な存在ですね。その雑草の推移を見ると、季節の移り変わりや、それぞれの種同士の戦いも見られますね。それと、これから夏になってくると、草の成長が物凄いことも感じますね。
休耕になっていた場所は本当に暗黒大陸ではないですけれど、物凄いことになっているのではないでしょうか?何が出てくるかわからないワクワク感というか凄さを感じますね。
最後の写真はキランソウですが、「地獄の釜の蓋」というのでしょうか?

投稿: TAGA | 2008年6月 2日 (月) 23時59分

キランソウというのがふつうの呼び名なのですね。これが風邪薬や高血圧の煎じ薬として地獄の釜の蓋の用もするというようなことがかいてありました。こちらの方がインパクトがあって
覚えていました。

投稿: 節分草 | 2008年6月 3日 (火) 21時17分

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