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2008年5月29日 (木)

そんなにカエルを駆除したいのか

梅雨のはしりである。しばらく前までは大変ににぎやかだったシュレーゲルアオガエルの声が少し静かになり、かわってアマガエルの大合唱が響くようになってきた。気温が高く湿度の高い夜は、カエルの棲む田んぼからかなり離れたところでも声が聴こえるほどの大合唱だ。その大合唱の盛り上がりとともに、おかしなおかしな人間の行動がみられるようになった。

このブログには、ブログを訪問した人が検索エンジンで検索してこのブログにやってきた場合、どういう検索ワードでやってきたのかわかる仕組みがある。そこで、時々、その検索ワードを見ているのだが、ここ一ヶ月くらいで急激に増加したワードがある。それは「カエル駆除」である。中には「カエル駆除方法」とか「アマガエル駆除」などというワードで検索してやってくる人もいる。どうやらカエルの駆除方法を検索して調べているようなのだ。Akagaeru2007022306

しかし、どうして駆除したいのか?と考えたときに、やはり、あの事件を思い出す。それは、「カエルの声がうるさいと苦情がきたから駆除しておきました」という公園管理者の発言である。東京在住の知り合いが、毎朝犬を連れて散歩する近所の公園で、ヒキガエルの卵を見つけ、その成長を楽しみにしていた。ところが、ある日、その卵は忽然と姿を消したのだ。公園の管理事務所にたずねたら「それなら、苦情がきたから駆除した」と平気でいうと。ついに日本人もここまで馬鹿になったかと思う。

もし、この話しでもピンとこなかったあなた。あなたにもわかるように説明すると、あなたはヒキガエルの鳴き声を本当に聴いた事があるだろうか?ヒキガエルは一年でわずかに一週間くらいしか鳴かないことを知っているだろうか?それから、ヒキガエルの卵とアマガエルの卵の区別が出来るだろうか?私の問いに全て答えられる人はほんのわずかな人でしかないはずである。その程度しかカエルのこと「すら」知らないのである。そんな人が「自然を大切に」とか「エコ」などと、何をほざくか!といえよう。

実際に、「カエル 駆除」で検索してみると、本当にカエルを駆除しようとしている人がいる。アホみたいにヒトにたずねているのだ。「カエルを駆除する方法はあるのでしょうか?」「庭にカエルがいるけど、駆除しなくて大丈夫ですか?」と。

アホか!

まず、カエルは人にはこれっぽっちも害を及ぼさない。なかには、カエルの皮膚の粘液に毒が含まれているので、害があるという人がいるが、それは肌が弱い人がカエルを直接触ったときに、ちょっとかぶれる程度であり、そんなもの、それ以上の害を及ぼす雑草だっていくらでもある。そんな程度である。それに、水辺があって、土があって、そこにカエルがいてもなんの不思議もない。そんなことすらわからなくなっているのだろう。それから、ネットで誰かにきけば、答えがあると思っているフシがある。それで嘘を教えられても確かめもせずに「はい、そうですか」と納得する。そんなんだから、納豆ダイエットのようなくだらないものに騙される。そんな程度である。かと思えば、「カエルがいなくなるとカエルの餌の虫が増えるから困る」というような、紋切り型の答えで満足する始末。あなたはカエルがいなくなってカエルの餌の虫が増えたという事実を調べたのかい?そもそも、今の都会にカエルなんてほとんどいないじゃないか!虫が増えたかい??

Amagaeru20050612 今、にぎやかに鳴いているのはアマガエルである。この写真、緑色のカエル、これがアマガエルである。もし、あなたがこれを駆除しようとすれば、駆除した結果は、こいつらの死骸があちこちに転がることになる。それはどうするのだ?ゴミとして捨てるのか?

私は別に、生き物を大切にしよう、とか、むやみに生き物を殺してはいけない(かわいそうだから)、とか、そんな野暮なことをいっているわけではない。自然に優しく、という前に、本当に自然に優しくして、豊かな自然とともに生きることがよいと思うのならば、自然のことをよく見てはどうだろうか?と、いつも言っているのだ。この日本のような季節の移り変わりとともに、かわっていく様々な自然を、自分の生きる大事な大事な生活の場の風景として感じてはどうだろうか?それが出来ないで、自然を守るというのはなにを守るのだろう?自分にとって大事な自然があるから守るのではないのか?その中の一員としてカエルもいるのが当たり前。カエルだって、時には人間と衝突することもあるが、それはそれで、そこに生きている生き物として存在をみとめ、尊重し、ともに生きるためにはどうするか?という知恵を働かせること、それが自然を大切にすることであろう。それを、うるさいから、とか、気持ちわるいから、ということで、自分の目の前から消えてなくなればよいというような、短絡的な考え方で、どうやって自然を守れようか?

検索していくうちに、どこかの大学が、そこに本来住んでいないカエルがいたから駆除しようとしているということもあるらしい。彼らの主張としては、そのカエルたちとの生存競争で在来のカエルが負ける、すなわち絶滅する可能性があるから、というが、そんなことはまずない。あり得ない。これは確信をもっていえる。ある種のカエルが増えすぎて、ある種のカエルが減ることは、まずない。あり得ない。これは私の長年の観察からわかる。踏みつけそうになるくらいのアカガエルと同じくらいのアマガエルは共存しているし、姿はあまり見えないが、それと同じくらいのヒキガエルも、シュレーゲルアオガエルもいる。彼らは本当に普通に歩いていて踏みつけそうになるくらいいても、餌に困ることもないし、むしろ、沢山いると、天敵に襲われても、全て食べつくされることがなく、生存する可能性が高くなる。天敵は、もともとそこにいたカエルだから食べるとか、そこにいなかったカエルだから食べないということはない。要するに、どこにどれだけの根拠をもって、そこにいないカエルが本来そこにいたカエルを脅かすといっているのかわからないが、おそらくたいした根拠はないと思う。そこに本来いなかったカエルが増えてきた、という事実を把握しているのみである。そもそも、何故生息していなかったのかといえば、生息に適さなかったのであり、そうであれば、本来生息していたカエル(すなわち生息に適しているカエル)に打ち勝ってそこで優位になるということも考えにくい。だいたい、自然に改変を加えようとしているのであるから、それなりの根拠を示した上で、多くの人が客観的に見て、「正しい」と合意できるものでなければ、到底許されるものではないと思う。間違ったことをして、「うまくいきませんでした。事態はおかしなことになって、とりかえしがつきません」ということになったら、誰がどう責任をとるのだろう?無責任にも程がある。

いろんなことを総合的に考えてみよ!といいたい。頭で考える前に、目の前にある自然をもっと見ろ!といいたいものだ。もっとも「カエル駆除」などという検索ワードで私のブログにやってくるような方は、自然などこれっぽっちも見ていないだろうし、考えたこともないだろうことは確信をもっていえる。そんな人に自然に優しく、とか、ロハス??とかエコなどと、気軽に言って欲しくないね。Ama20060618_2

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2008年5月18日 (日)

雑草の名前

自然観察会で、とにかく、身近などこにでもある草の名前を言う。これがオオイヌノフグリ、これはヒメオドリコソウ、これはハルジオン....そうすると以外な反応が返ってくる。「こんな雑草にまで名前がついているんですね?」と。それは、その人の正直な感想なのだろう。昭和天皇の「雑草という名前の草はない」という言葉は有名である。考えてみれば当たり前のことである。別に雑草だから名前を付けないということはない。ただ、いえることは、そういう風に、「これが○○」と教わらなければ、「雑草には名前すらない」という意識が一般的にあるということだろう。花屋の店頭にある花には名前がある。だが、雑草には名前がない。それはどういう根拠からくるのか。

Zasso2008051801 私は、草の名前を知ることは重要ではないと思っている。名前を知らなくたって、それがどんな場所に生えていてどういう季節に花を咲かせるか、を知っている方がより自然を見つめているということであると思うからだ。名前なんて知っていても、どこにどんな風に生えているのかも知らなくては、知っているとはいえない。だから、名前なんてどうでもいいや、と思っていた。でも、自然観察会をしていると、「これは何?」と名前を尋ねる人が圧倒的に多い。名前を知ることが自然を知ることだと思っているフシがある。

最近、「名前を教える」ということはそれはそれで意味のあることであると、気付いた。

普通に道端にある雑草を「これは○○」と教える。そうすると、「いつも庭や畑に生えていて、なんにも考えずに抜いていたが、これは○○なんだ~、と思うと、抜くのがもったいなくなって困る」という話しをよくきく。そんな風に言われると、名前を教えてよかったかな?と思う。私は「別に、気にしないで抜いてくださいな」というのだけれど。

ただ、「雑草」としか思っていなかったが、よく見ると、いろんな草花があり、いろんな生活をしている。ただそれだけのこと。よく考えてみれば当たり前のことだが、それに気付くと随分と自然を見る目が違ってくる。よく、観光バスで大勢で見に行くような、メジャーな草花だけが偉いわけではなく、すべては自然の一員であり、それぞれにそれぞれの場所で生きている。そういうことに気付くだけでも自然に対する考え方が違ってくるとしたら、それはそれで大変意味のあることだと思う。

私は常々、自然観察なんてものは、「自然観察が出来る場所」というのがあるわけではなく、身近に生きている生き物のことをまず見つめることから始まると思っているし、それが出来ないで、いきなり「名所」などという場所にいって何を見るのだろう?と思う。遠くに出かけなくては自然観察が出来ないと思っているとしたら、それは、「自然観察観光商売」の思うツボなのである。

もっとも、遠くに行かなければ決して見られないものもあるから、それはそれで遠くに出かけていくことは必要なのだけれど、じゃあ、自分の住んでいる場所のまわりの自然をどれだけ知っているか?ということが問われるのではないか?自分の住んでいるまわりの自然を知っているからこそ、遠くに出かけたときに、その違いがわかる。その素晴らしさがわかるというものだ。

身近な雑草を見ること、これは重要なことだと思う。そこに目がいっているかいないか、それは重要なことである。「貴重な場所」といわれている場所でなければ「貴重」でないから、破壊してもどうってことはないという意識があるとしたら、それは、身近な自然も、かけがえのないものであることを知らないからだ。自然とともに生きるということは、世の中を貴重な動植物だらけにすることではない。身近な生き物もその姿をしっかりみて、その存在を尊重することだ。Zasso2008051802

雑草だって、その地域にしかない雑草は沢山ある。そこで生きている生き物たちの生態系は地球上に他に同じものは二つとないことは確実に言える。

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2008年5月 2日 (金)

もはや人間は自然を完全にコントロールできるという幻想

カエルが賑やかな季節がやってきた。これは、昼夜を問わず、大きな声で鳴くアマガエルやシュレーゲルアオガエルの繁殖期がやってきたためである。特にアマガエルは都市の環境にも適応しやすいため、都会の近くでもよく鳴いている。実際、カエルの声といえばアマガエルの声を連想する人は多いのではないかと思う。そのくらい、よく聴かれるのがアマガエルの声である。それに、アマガエルの声は大きくよく響く。アマガエルの声がよく聴かれる季節になるとともに、毎年のことながら、ある現象を私は見る。それは、「カエル・駆除」という検索ワードで私のブログにやってくる人が急激に増えるのである。

数年前、東京に住む私の知り合いが、近所の公園にアズマヒキガエルの卵を見つけた。そして、毎日、犬を連れて公園を散歩しながら、ヒキガエルの卵の成長を楽しみにしていたという。しかし、ある日突然その卵は忽然と姿を消した。公園の管理事務所にどうしたのかとたずねたところ、恐るべき答えがかえってきた。公園の管理人は平然と、「カエルの声がうるさいと近所から苦情がきたので、駆除しておきました」という。

Gassen2008032300 アズマヒキガエルの声を聴いたことがあるだろうか?アマガエルのように合唱になることはなく、単独で、小さな声でつぶやくように鳴くだけである。しかも、アズマヒキガエルが鳴くのは一年でほんの一週間だけである。カエルのことを少しでも知っていれば、なんという馬鹿なことを、と思う。カエルの声と池の卵が結びつき、それを駆除したのだろうが、そもそも、カエルの声がうるさいというようなイカレタ苦情に、「はいはい」と、駆除しようとする人もどうかしている。

さて、ここ数週間で急激に増えた「カエル・駆除」という検索ワードで私のブログを訪問する人々も、おそらくカエルの声がうるさいのでなんとかしようと思ったか、あるいは、カエルが嫌いで、嫌いな生き物が身近にウロウロしているのでなんとかしようと思ったのであろう。そこで、すぐ「ネットで検索」である。そこには答えがあるものと期待する。しかし、有効な答えがないと、なぜか「不満」を漏らす。実際、検索エンジンで「カエル・駆除」で検索してみてほしい。カエルを駆除しようという試みに答えを求めようとしている人のなんと多いことか。

これが現代の都会人の自然感の一端であろうと思う。何事も完全にコントロールされている都会。何かを求めれば、すぐに身近にあるという、コンビニ感覚の生活。そんな生活の中で、野生の生き物のようなコントロールされていないモノに対しては「抹殺」しようと考えてしまう。恐ろしいことである。そういう感覚が、今、社会の中でいろんな歪みを生んでいると思う。極端な話しであるが、親が、自分の思い通りにならない子供を抹殺するというような事件も、その延長線上にあるのではないかと思える。

これは極端な例であるため、自分はそんなことはないと思う人も多いだろう。ところが、日常的に自然に接している人たちも、いつのまにか、そのような考え方におかされていると私には思えることがある。私には「里山」というキーワードもかなり危ういと思う。里山は人の手の入った「二次的」な自然である。そのこと自体は否定するつもりはないし、そのことによって豊かな自然が生まれていることも否定はしない。しかし、いつしか全ての里山が、ある種の「里山」という代表的なものが存在するかのような幻想にとらわれてはいないかと思うのだ。

実際に里山の手入れをしようと、何かしら着手した人たちの話しをきくと、多くの場合、「悩み」が存在するようだ。実は、この「悩み」が存在すること、これが本来の姿だと私は思う。「悩み」とは、自分達が行っていることが思うようにいかない、あるいは、このままでいいのだろうか?という「悩み」である。場合によっては、手入れをすることによって、一時的に多くの植物が芽吹き、一時的に沢山の花が咲いたことがあったけれども、それが長続きしない、いくら手入れをしても元のようにならない、どんどん荒廃していく、というのも現実にはある。一般的に言われている「里山の手入れ」を人々が同じようにやっても、結果が同じになるとは限らない。これが「自然」なのである。だが、理想的な里山という幻想は、それを「悪いこと」にしてしまう。一体どこに判断基準があるのかと思う。一ついえることがあるといえば、「人々が周辺の自然をうまく利用しながら、出来るだけ持続的に利用できるような状態に近づける」ことが大事なのであって、気候も違えば、地形も違う、もともとの植生も違えば、生態系の成り立ちも違うものを、一律に同じモノサシではかること自体が間違っている。もっともそのモノサシが「幻想」なのだが。

Zasshu20080423sさて、 先日、散歩をしていたら明らかな雑種タンポポがあった。一つの株に在来種のカントウタンポポの形態に近い花と、外来種セイヨウタンポポの形態に近い花がある。

セイヨウタンポポに代表される、移入種というもの、本来日本になかった生き物は、それが本来の日本の生き物を駆逐していくと言われてきた。ところが、実際のところ、セイヨウタンポポが増えすぎてカントウタンポポを駆逐しているとは私には思えない。それは明らかに生えている場所が違うからである。それに、その境界線ではこのような雑種と思われるものが沢山存在する。

実際、最近、セイヨウタンポポと思われるタンポポの遺伝子を詳しく調べたところ、ほとんどが雑種だったという報告もある。どうやら都市に生育しているタンポポは雑種になることで都市で生活できる性質を獲得したようであり、都市に生息するのは実は雑種タンポポなのである。そして、カントウタンポポが減ったというのは、セイヨウタンポポが増えたからではなく、都市化によってカントウタンポポが生息出来る環境が減ったのであり、セイヨウタンポポとカントウタンポポの雑種が都市という環境に適応し、なおかつ、その雑種は見た目はセイヨウタンポポなので、そのような誤解が生じているのである。

外来種を駆除すれば、在来種が復活するかのような幻想も、また、「人間が自然をコントロールできる」という幻想である。実際には、在来種が生息出来る場所が減っていることを見逃しているし、そもそも、そんなことが出来ると思うのは何の根拠があるのか?全ては「やってみなくちゃわからない」レベルである。

やってみなくちゃわからない、から、「やってみる」のはいい。しかし、その結果がどうなったかという評価をし、やってみたことを少しずつ修正していったり、並行して、いろんな研究や、観察によって、本来の姿を追求しなければ、ただ「これがよい」と誰かが言ったことを「やってみる」だけであれば、本当かどうかわからない健康法をやって実は健康を害していた、ということと同じことである。自然に対するときに我々は何一つ100%の答えなどもっていない。そういう謙虚な認識を持たねばならないといつも思うのだ。Aka20080315

なにやら、話しが脱線しまくるが、カエルを駆除しようと思った人に、カエルの本当の生活、一生懸命に生きている彼らの本当の姿を見て欲しいと思う。今、人間社会のおかしな仕組み、誰も得をしないのに、単なる机上の空論、それを唱える人のおかしな面子、おかしな幻想がもたらす、おかしな都合のおかげで、彼らがどれだけ生息環境を失っているかも知ってもらいたいものだ。そのうえで、あなたはさらにそのカエルを駆除しようというのか?何一つまともにコントロールできないくせに人間は勝手過ぎる。そして自然に対して誤ったことをして、失敗してもなんの責任を負うこともなく、さらになんとかして誤魔化そうとしている。そういうスパイラルの根底にいつもあるのは、「人間は完全に自然をコントロール出来る」という幻想であり、コントロールすべきであるというおかしな使命感である。

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