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2007年12月30日 (日)

2007年を振り返る

今年もあとわずかになった。また散歩道プロジェクトの一年が過ぎた。来年の2月には5周年をむかえるが、その前の年末に、一人同じように散歩道を歩いていたことを思い出した。その時、確かに私の中で芽を出していたのである。

今年はカエルツボカビ騒動で年が明けた。2月の終わり、暗闇の中、ニホンアカガエルたちの声に囲まれて、夢中でシャッターを切った。Akagaeru2007022301

人工的な都市公園の流れをおいかけたりしながら、アカガエルやドジョウが棲む自然な流れとは何が違うのか、そんなことを人工的な街だけで生活している人々にも知ってもらいたくて、沢山歩き、沢山写真も撮った。

歩くことで今年も新たな発見もあった。散歩道にカタクリがひっそりと咲いているのを見つけることもできた。オオタカには出会ったが、毎年くねくね谷にやってきていたサシバが今年は見られなかった。そして冬になり、これまた毎年やってきていたノスリの姿も見られない。少しずつ変化していく生き物たち。

地元で講演会をひらくことも出来、多くの人に身近な散歩道に生きる生き物達のことを知ってもらうことができた。

くねくね峠道のコナラ。去年の暮れに切り倒されたコナラから、芽が出て育っている。Konara20071222

今年一年でこれだけ育った。この芽がこれだけまで育つところを一年間ずっと見ることが出来た。切り株はだんだんと存在感を小さくしていく。

歩くことで、少しずつ、私の中でも何かが育っているのだろう。

時々、初心に戻り、自分はこの散歩道に何を見たいのか、この散歩道プロジェクトを通してなにをしたいのか、それを見失わないようにしなければならないと思う。そして、ごく普通の日常として歩くことがあり、そこから次の一歩、次の視点へと進んでいくこと。長く続けていると、だんだんと、同じことの繰り返しになってくるのも事実だ。それでも、次の一歩を踏み出しつづけなければと思う。

Higure20071229何気ない日常、何気なくそばにある散歩道は、こうして今日も日が暮れていく。

それは、 ずっとここにあった。そしてずっと同じように日がくれ、また新しい日がやってくる。少しずつ変化しながらも、そこにある。このそばに住む私達は、これからもずっとこの場所とともに暮らしていく。それぞれの生活がこの散歩道のそばで営まれ、散歩道の生き物たちも、ここでいろんな営みを続けている。私はまだまだここで多くの発見をするだろう。

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2007年12月18日 (火)

日本人はいったい何を大切にしたいのか

最近、やたらと「もったいない」という。資源を大切にしようということはずっと昔から言われてきた。それは、かつては「いずれ資源がなくなる」「石油が底をつく」という危機感からであり、最近はエコといい、環境のため、自然のためと。スーパーでレジ袋をもらわない。そのためにエコバッグが流行る。もちろん、それも大事なのだが、問題はその結果として何を大切にしたいのか?何を守りたいのか?ということではないのか?と、いつも思う。一歩進んでそこに考えが至るだけでずいぶん違うのにと思う。逆にいえば、多くはそこに至る視点が欠けているとつくづく思う。環境を守る、自然を守る、といいつつ、まもるべき対象の現状について知らないからだ。

自然を破壊してする大規模開発にしても、その現場を見たことがあるだろうか?人々が生きていくために開発が必要なのだと主張する人々。開発はどうやって行われているのか、どんな風になるのか、見たことがあるだろうか?Zan2007120902

この写真はつい先日、うちの近所で撮った写真である。これは宅地開発であるが、このような膨大な宅地開発がいまだに行われている。減少を始めた日本人の人口のことを考えてみても、こんな宅地がどれほど必要とされているのだろうか?都心からどんどん外側にむかって開発がなされる。宅地が出来ただけでは意味がなく、そこには人が生きていくための物資を運ぶ必要があるし、人々が通勤したりするために交通手段が必要となる。都心から外にむかってどんどん開発すれば、それは結局、都心との間の交通の距離を伸ばす。そのことに対してCO2の排出を削減しようなどという視点はまったくないといっても過言ではないだろう。CO2を削減しよう!といい、クールビスだのなんだのということに熱心であっても、ここを開発することがCO2をどれだけ増やすかということを考えたことすらないはずである。

Zan2007120901 この開発地を端の方からみるとこんな感じである。周囲にある雑木林から、かつてここがどんな場所だったか想像してみてほしい。これを「もったいない」といわずしてなにを「もったいない」というのだろう?宅地が足りないというのなら、都心にどんどん建設される高層マンションはいったいなんなのだろう?それでも必要なのだというのなら、「もったいない」と偽善ぶっていわないでほしい。「エコなど私は考えていません、自然環境のことなどこれっぽっちも考えていません」といえばいいではないか。

でも必要だという人は言う。

何故か?

それは「街を使い捨てにする」ためである。こういう開発が続く影で、高齢化、老朽化が激しいかつてのニュータウンがある。人がすまなくなっていく街がある。街を使い捨てにして、あらたな街を作っているからである。

かつて、鳴り物入りで登場したこの近所のショッピングセンター。山の上にある。大規模に山を削って作ったところであるが、そこがクリスマス前の日曜日の午後にこんな風景である。Zan2007120903

人がいない。当然である。店がほとんどないのであるから。

ようするに、こんなショッピングセンターですら使い捨てにしているのである。これを作るためにどれだけの自然を破壊したか。これを作るためにどれだけの資源を無駄にしたか。これを作るために、どれだけの金を無駄にしたか。これを「もったいない」といわないで何を「もったいない」というのだ。

今の日本人の「もったいない」は狂っている。こんな現実を放っておいて、レジ袋一つを「もったいない」という。これは病気である。

Zan2007120904 メリーゴーラウンドもこのありさま。クモの巣がはっている。このことが何を意味するだろうか?

こういうものを「欲しがる人」がいる。でもすぐに飽きて捨ててしまう。いや、飽きるわけではないが、使い物にならなくなって捨ててしまう。これは「もったいない」だろう。

この人たちは子供達に「もったいない」を教えることが出来るのだろうか?

本当の「もったいない」は何なのか?私達は何を大切にしたいのか?そのことをもっと根本的に考える必要がある。レジ袋からエコバッグという形にこだわるのでなく、ロハスなどというスタイルや言葉にこだわるのではなく、本当に何が大切なのか?何を大切にしなくてはならないのか?それは何故か?そこを考えないと、レジ袋はこの世から消えても、もっとおおきな「もったいない」が蔓延することは間違いない。Zan2007120905

それは、この先、自分の子供達やそのさらに子供達にどういう場所でどういう生活をして欲しいか?何を大切に思って欲しいか?そういうことに繋がることだろう。その視点がない「もったいない」は恐ろしい言葉にきこえる。

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2007年12月 9日 (日)

枯葉の降る日

Kareha2007120900 今日は綺麗な快晴。空気も乾燥して、北風がやや強く吹いた。紅葉もおわり、木々の葉は少しずつ落ちていく。こんな日には枯葉はまるで雪のように次から次へと降ってくる。

複雑な谷津田の地形は地上付近の気流を複雑に変形させ、沢山の渦が出来る。その渦が風の息となって、強く、弱く、通り過ぎていく。木々のザワザワという音はもはや葉と葉が擦れ合う音ではなく、乾いた枯葉が風の息に最後の一押しをされて枝を離れ、あちこちの枝に当たりながら落ちてくる音だ。まるで雨が降っているかのように、ザアザアと聴こえる。まるで雨が降っているかのように枯葉が落ちてくる。

歩くとサクサクという音と、乾いた枯葉の感触を踏みしめる。時折、少し大きなポキポキという音が聞こえることがある。枯葉ではなく、枯れ枝も落ちてくる。谷底から吹き上げる上昇気流に乗って、いちど落ちてきた葉がまた吹き上げられていることもある。

Kareha2007120902 上を見上げると、暗かった林の中から澄んだ青空がだんだんと見えてくる。そしてだんだんと明るくなっていく。明るい林の中は落ち葉に日があたり、さらに落ち葉を乾かしていく。

私は落ち葉を踏んで歩くのが好きだ。サクサクとした感触が好きだ。雨上がりの朝、濡れてやわらかくなった落ち葉が、湿った独特の香りを放つ中を歩くのもまた好きだ。

落ち葉は何年もかけて土に戻る。土に戻る間、虫たちの餌になったり、隠れ家になったりする。一つの落ち葉の下に沢山の生き物が生きている。そして、それはだんだんんと土に戻り、木々の栄養となり、その栄養は青い葉として育ち、そしてまた落ちてくる。

コンクリートやアスファルトの都会はその循環が絶たれている。人々はいつのまにか落ち葉の役割を忘れ、落ち葉はただの厄介者になる。多くの落ち葉を落とす木は、ゴミを出すといって嫌われ、そのために伐られる。人々は落ち葉をゴミ袋につめ、燃えるゴミとして出す。そして、CO2を沢山だす清掃車がそれを運ぶ。いつから人々はこんなことをするようになったのだろう?

生ゴミを堆肥にすることに一生懸命な人々。燃えないゴミを資源として再利用することに一生懸命な人々。それをリサイクルとよび、無条件にもてはやす影で、落ち葉はどんどんゴミになる。家庭から出るものや工業製品でなければリサイクルでないと思っている。リサイクルならばまずは落ち葉に学ぶべきであろう。太古の昔からの自然のリサイクル。Kareha2007120909

そんなことよりも、私は落ち葉が好きだ。落ち葉の降る中を歩き、落ち葉を踏み、落ち葉の香りを感じ、落ち葉の音をきく。そして、落ち葉はまためぐってくる。

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