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2007年11月26日 (月)

ダイサギとアオサギ

ダイサギとアオサギは概して仲良しだ。同じくらいの大きさで、ほとんど同じ場所で同じような餌を食べるこの二種だが、仲良く同じ場所で餌を探していることが多い。Sagi2007112401

私などが近づくと、先に発見した方が、声を発して「ほら、人間が来たぞ」と知らせる。そうすると、もう一方がそれにつられて飛んでゆく。

よく、シジュウカラ、ヤマガラ、エナガ、それからメジロやコゲラなども一緒に群れをなしてやってくることがあり、混群と呼ばれるが、ダイサギとアオサギは群れというほど多くはなく、多くて2ツガイ程度が、同じ田んぼで餌を探しているのだ。

先日、このように最初は少し離れた場所にいた二羽だが、ダイサギ(白いほう)からアオサギに近づいていった。アオサギも別に気にすることなく、ゆっくりと歩きながら餌を探している。Sagi2007112402

こんなに近づいても、別にどうってことはなく、仲良くやっている。

「どう?今日の調子は?」

「まあ、ぼちぼちだね」

と会話しているかどうかは知らないが、まるでそんな雰囲気だ。おそらく種類が違っても単独でいるよりは、複数でいる方がより早く外敵を見つけることが出来るので、安心できるのではないかと思う。

あまり近づきすぎると、どちらかが追い払おうとしたりもするが、それでも遠くまで追いかけていくことはなく、「ちょっとどいてくれ!」という感じで、喧嘩になることもない。Sagi2007112404

それが、まるで一緒にダンスをしている ようでもあり、とても微笑ましい。

同じ場所に生きる生き物は、ただ単に生存競争をしているだけの存在なのではなく、お互いに仲良くやったりもしているのだ。それがお互いのためにもなっている。もちろん、彼らにそんな打算的な考えはなく、なんとなく、一緒にいた方が安心出来るとか、そんなことで、争う必要もないということなのだろう。

仲の良い彼らの姿はずっと見ていたくなるほど微笑ましい光景だった。Sagi20071124

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2007年11月24日 (土)

歩くことは時を刻むこと

Konara2007112400 私が「くねくね森」と名付けた場所がある。ここは大部分がコナラで、ところどころクヌギという、典型的な雑木林だ。私は散歩にでかけると必ずこの場所にくる。そして、いつのころからか、ここで立ち止まって、木々の間を飛び交う鳥の声に耳をすまし、枝がゆれ、葉が擦れ合う音の遠くから近くへ、右から左へと動いていくその音に、目に見えない風の姿を感じるようになった。

去年、「木と会話する」というタイトルで、この散歩道ブログに書いた。丁度、一年前のことだ。私はここにやってきて、心の中でここにあった木と会話した。帽子を落としたのに気付かずに、そこを立ち去ろうとしたとき、ふとふりむくと夕陽があまりに綺麗で、もう一度、木のところにもどってゆっくりと自然を感じていたいと思ったのだ。そして戻ってみたとき、そこに帽子を落としてきているのに気付いた。それは、まるで木が教えてくれたかのようだった。そして、その木はもしかすると私に何かを伝えようとしたのかもしれない。それは「別れは突然やってきた」に書いたように、その木の最後の姿だったのである。

それから一年が過ぎた。私はそれから何度この場所にやってきたことだろう。それはまた私の心に何かを刻んでいった。ここを歩くことで、私の中に刻まれたものが沢山ある。

去年、切り倒されたその木の切り株。それはいつのまにか、笹などに覆われて半分が隠れるようになってきた。そして、根元からは新たな芽が出てきた。その芽は一年でこんなに育っている。Konara20071124

切り株の年輪は去年、丁度私の年齢と同じだけあった。私が生まれた頃に、こうして芽吹いたものが、あれだけの木になっていたのだ。そして、私はあらたな芽吹きを見ている。一つの時代が終わり、そしてあらたな命が生まれ、育っていく。当たり前のことだが、人々が忘れていることかもしれない。私はここで、その命が時を刻む様子を見ている。この芽が育っていく様子を私はこれからもずっと見るだろう。

いつもこの場所を歩いて、そして時は刻まれる。私の中にも何かが刻まれる。

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2007年11月17日 (土)

二番穂

Niban2007111700数日前から突然冬の空気がやってきた。朝晩はかなり冷えるようになった。忙しくて、最近あまり散歩の時間がとれないのだが、その寒くなった空気に、散歩道の風景を想像する。いや、想像しても毎年少しずつ風景が違うから、実際に歩いてみると驚くことがある。

これが今日の写真。冬の田んぼはなんにもないと思っている人には違和感のある風景だろう。これはいわゆる二番穂、すなわち稲刈りをしたあとの切り株から芽が出て、それがまた米を実らせている。今年は二番穂がよく育ったと思う。こんなによく育った年も珍しいのではないか?

今年は夏がとても暑かった。そのせいかどうかわからないが、9月に稲刈りの手伝いに行ったとき、黄金色に実った稲の根元の方から青い芽がさらに出ていて、しかもまだ青い実を実らせているのがかなりあった。こんなことはあまり経験がない。もともとこのあたりは早場米で、稲刈りは9月に入るか入らないかというとても早い時期に行われる田んぼが多いのだが、今年は実りが早かったのか、稲刈りも若干早いような気がした。それが二番穂の生育に影響しているのかもしれない。とにかく、今年は二番穂の生育が良い。

Niban20071117_3 二番穂は、「鳥のための米」といっている人がいた。鳥のために残しておくのだとその人は言っていた。

冬になると、それまであまりやってこなかった野鳥が我が家の庭にも沢山くるようになる。果物の皮などを庭に放り投げておいても、秋まではそれほど鳥がやってこないものだ。それよりも、自然の中に餌が沢山あるからではないかと思う。しかし、冬が近づくと、争うようにいろんな鳥がやってくるようになる。それだけ自然の中の食べ物が乏しくなるから人間の生活の余りものを利用しなくてはならないのだろう。カラスなどはそもそも人間の食べ残しなどが大好きなので、一年中残飯をつついたりするが、他の鳥達、特に人間を警戒するものたちは、餌が豊富な時期はあまりそういうものに手出しをせず、いよいよ餌が少なくなった時にしかたなくやってくるといったものも多い気がする。もっとも、自然の乏しい都会の真ん中となれば、一年中冬のようなものであるが。そういう意味では、夏の間、庭に野鳥があまり来ないというのは、ちょっと逆説的だが、自然に恵まれている証拠なのかもしれない。

さて、二番穂が「鳥のための米」とは、ちょっと不思議というか面白い。なぜなら、収穫まではあんなに嫌っていた鳥たち、カカシを作ったり、ネットを張ったり、いろんなことをして鳥を追い払い、田んぼの米は人間が独り占めしようと頑張ってきたが、冬になったら、鳥に餌をやるという。不思議といえば不思議だが、これも自然とうまく暮らしてきた人々の知恵だったのかもしれない。鳥がいなくなれば、鳥が餌にするイナゴなどの害虫が増えてそれはそれで困るだろうし、やはり、ある程度のバランスがあってこそ、無理なく米を作ることができる。人間も自然の中の一部として役割を果たしながら、自然から恵みをいただくことが出来るという考えなのではないか?

Niban2007111702 二番穂は刈り取って、飼料にすることもあるという。実際に刈り取られていた田んぼもあった。しかし、人間が食べるための収穫とは違い、田んぼの一部分だけを刈り取っている。これも知恵なのだろう。全部刈らない、少し残す、これが、ずっとこの地で米を作って暮らしていくための知恵なのだろう。

難しいことは言わなくても、人々は自然のめぐりを実感として感じて、生活の中に取り入れてきたのではないか?今、それをしっかりと見つめ、そこに意味を見出すことは、人々が長い時間の中で学んできたことを未来に活かすための大切なことのような気がしている。

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2007年11月12日 (月)

秋の雨は

土曜日は一日雨、日曜日は昼間は一旦止んだが、夕方から嵐模様になってきた。日曜日の昼間は車で出かける用事があり、夕方帰ってきた。帰り道は土砂降りの雨になった。ピカピカと稲妻が光り、道路は川のように勢いよく雨水が流れていた。それほど長時間降ったわけではないのに、大粒のやや強い雨が降り、前日からの長雨でたまった水も一気に噴出した格好だった。それと同時に、アスファルトの地面が沢山の落ち葉で覆われていた。

私は雨の日に散歩道に出かけることもある。日々移り変わる自然の姿は一瞬で、その時を見逃すと同じ風景はしばらく見れないこともある。だから、雨でもでかける。なんでこんな天気の日に、と自分でも思うことがあるが、雨の日にしか見られないこともある。梅雨時はともかく、田植えの頃や秋の紅葉の頃には雨の日の散歩が多い気がする。丁度、天気が周期的にかわる頃だ。それは、一雨ごとに暖かくなったり寒くなったりする雨だ。風もなく、雨が真っ直ぐと落ちてくる。

秋に雨が降ると雨といっしょに木の葉が沢山降ってくる。雨に濡れたしめった葉。すこし色づきはじめた葉でも、その重さに耐え切れずに落ちてくるのだ。そして、雨つぶが葉っぱに最後の一撃をあたる。それはまるで、大粒の雪が舞って来るように、絶え間なく降ってくることもある。地面が見えていた道が、30分後に通りかかると完全に落ち葉で覆われていたこともあった。

森にはいると、少しの雨ならほとんど濡れない。雨粒は木々にあたり葉を湿らせる。それが木の枝をつたわって徐々に地面に達する。秋はむしろ雨よりも葉っぱが落ちてくる。雨で鳥や虫の声もしずまり、木の葉をたたく雨の音だけが上から響いてくる。そして枯葉が濡れる香りがあたり一面にただよう。足元に沢山おちた濡れた葉っぱのやわらかい感触を感じながら歩く。それが秋の雨だ。雨を感じ、季節を感じ、そこにある自然を感じている。Ochiba20051204_2

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2007年11月 6日 (火)

ドジョウとホトケドジョウ

Dojo20071104 散歩道で初めてドジョウを見たのはアカガエルの沼だった。ドジョウらしき魚が水の中にいることはわかっていたが、網ですくうわけでもなく、ただ目で見て、写真を撮ろうとしていた。しかし、ドジョウはこちらの気配を感じるとすぐに泥にもぐってしまい、なかなか写真を撮ることが出来なかった。散歩道プロジェクトの初期の頃である。シャッターを押してから実際にシャッターが切れるまでに1秒近くかかるようなデジカメで写そうというのだからかなり苦労した。そして初めて散歩道のドジョウの写真を撮った時は本当に嬉しかった。

それから、ドジョウは散歩道ではごくありふれた魚だということがわかった。わかってしまえば、いるところに行けばいくらでもいるし、時には沢山集まっていることもあった。

散歩道にはもう一種類ドジョウがいる。それはホトケドジョウだ。これは体が短く、頭がすこし扁平で、小さなナマズのような形でもある。Hotoke20060805

最初は普通にドジョウかと思っていた。しかしどうも様子が違う。よくよく見てみたらホトケドジョウだということがわかった。

ホトケドジョウは千葉県レッドデータブックでは「要保護生物」に指定されている。いまや貴重な生き物、いわゆる絶滅危惧種になってしまったのだ。

絶滅危惧種になると、人々は積極的に守ることを考えるであろう。しかし、散歩道にはホトケドジョウに限らず、沢山の絶滅危惧種が生きている。しかも、それらは、ほとんど誰にも知られずに生きているし、誰も積極的に守っているわけではない。むしろ、散歩道周辺を生活の場としている人々はこういった生き物にまったく無頓着である。逆説的だが、そのことはかえって大事なことだと思う。積極的に守らずに、でも生きている貴重な生き物たち。それは、私には健全な姿に思えるからだ。その健全な姿こそが我々が守らなければならないものだろう。それがどうすれば守られるのか、私はしばしば考える。そして歩き、自然のありのままの姿を見つめ、感じようとするのである。

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2007年11月 4日 (日)

散歩道の新しい友達

先日、散歩道の土手に開いた穴の中に、ヒキガエルがいることを発見した。それから、そこを通るたびに穴を覗くようになった。その後、何度かは会えたが、留守のことも多かった。留守だと、彼(彼女)はどこに行っているのだろう?何をしているのだろう?ということがとても気になる。おそらく、餌をとるために出かけているのだろうが、いったいどこでどんな餌を、どうやって捕まえているのだろう?ということは気になる。

先週あたりから、アカガエルの姿はほとんど見えなくなった。あれほど沢山いたアカガエルたちはいよいよ冬眠の態勢に入っているのだろう。アカガエルは夏までは田んぼのまわりにいるが、秋になるとずっと内陸に入っていく。秋には我が家の庭でも見かけたことがあるので、田んぼから随分と遠くまでやってくるものだと感心したが、実際、秋にははるか内陸(といっても田んぼから数百mくらいだが)で見かけることもあり、彼らの行動範囲の広さに驚く。

今日、朝早く散歩道にいったら、例の穴の中にヒキガエルがチョコンとすわっていた。このところ、留守が多かったので、久々に会えて嬉しかった。嬉しかったので、ちょっと写真を撮らせてもらった。ストロボを焚いてもいつも平気な顔をしているのでありがたい。Hiki20071104

ヒキガエル家で写真を撮った後、私は散歩道をあちこち歩き回る。そしてまたヒキガエル家に帰ってきて、挨拶する。

「じゃあ、またね」

と手を振ったりもする。

これから寒くなって、冬眠に入るのだろうが、このまま冬眠するのか?それとも、冬眠するときはもっと奥に潜るのか、どうなるのだろう?とにかく、私はこれからここを通るたびに挨拶していくだろうことは確かだ。散歩道に新しい友達が出来た。顔をよく覚えておこう。そうすれば、来年の春のカエル合戦でその顔を見つけたならば、応援のしがいがあるというものだ。

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