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2007年10月31日 (水)

秋のトンボ

台風一過の日曜日、いつもより少し早く起きてみたら、きれいな青空が広がっていた。そうなると心はいつの間にか散歩道に飛んでいる。朝食が終わってから散歩道にいってみた。いつもの台風一過の日のように、葉っぱや枝が散らばっていたが、すでに色づいた葉が多く秋の気配だった。
稲刈りの済んだ田んぼでは、沢山のアキアカネが連結産卵をしていた。それはもう産卵ラッシュという状況だった。

Akiakane20071028
先週、オオアオイトトンボが沢山連結しているのを見た。オスが尻尾の先についた連結器でメスの首のあたりを掴み、その状態でとんでいく。アカトンボやシオカラトンボといったトンボは連結していても、飛ぶ時はハート型に丸くなって飛ぶのが多いが、オオアオイトトンボは真っ直ぐ一直線に繋がって飛ぶ。しかもゆったりと、ヒラヒラと飛ぶ。それはピーク時には物凄い数になる。夕陽に翅がキラキラ輝いて、とても美しい。

Ooao20071020
秋は夕方の散歩がいい。連結したトンボがヒラヒラと夕陽に光って飛んでいたり、草の穂が夕陽に輝いている。ねぐらに帰るスズメの井戸端会議やモズの高鳴きなどが賑やかになる。日が傾いて、影が長くなり、空気が少しヒンヤリしてくると、放射冷却が始まるのか、遠くの物音がよく聞こえるようになる。空気に秋を感じる。
トンボは秋に連結して卵を産むものが多い。オスとメスがつながって。彼らは、一生の最後に、パートナーを見つけ、一緒に飛ぶ。そして産卵する。産卵後も12月の初めくらいまでは見かけることがあるが、それはほとんど余生を送っているトンボだ。水の中の卵はヤゴに育ち、来春に上陸し、飛び始める。中には何年も水の中でくらすものもいる。餌が少ないと成長に時間がかかるらしい。
散歩道では、秋に、ホソミオツネントンボをよくみかける。茶色く細いイトトンボだが、彼らはその姿で冬を越す。だから、たまに冬にみかけることもある。そうして春には鮮やかな水色に変わる。
秋のトンボの連結に、まだこの世の中に人間が登場するはるか昔から延々とつづいてきた生命の営みを見る。そして、それを作り上げてきた自然のはるかに長い時間の流れを感じる。まさに目の前で、連結し、子孫を残し、消えていくトンボたちの季節。そこに、はるか昔からの生命の営みを見る。

今、この場所はまだ人の生活とトンボの生活が自然に接しているのだ。人々が田んぼで米を作る。トンボはその田んぼで育つ。その当たり前のこと。当たり前だが、それは人間がまだ少しだけ自然の一員であることの証だと思う。いまや都会の中の公園に、無理やりにトンボをおびき寄せようとし、それが環境を守ることだと勘違いしている人々。やがて、それは勘違いだと気付かなくなる。その前に、本当の人間と自然のかかわりを多くの人が見る必要があると思う。本当に守らなければならないのは何なのか、私達はいま何を失おうとしているのか?それはどんなことなのかと。Akane20071028

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2007年10月28日 (日)

地元での講演会

昨日は、地元で私の講演会を開催した。一ヶ月ほど前、私の「散歩道プロジェクト」や、この「散歩道ブログ」をいつもご覧になっている近所の方が私に「是非、講演会を!」ということでお話しをいただいたので私は「そういうことなら」と引き受けた。短い準備期間ながら、着実に準備を進めていただき、無事開催出来た。立派なポスターも作って、町内会の掲示板にも貼り出していただいたし、会場の準備など全て完璧にやっていただき、とても感激した。台風接近で悪天候の中にもかかわらず、50人ほどの方に来ていただいた。電車に乗ってこられた方、東京からはるばる来られた方も。

私に講演会のお話しをもちかけてくれた方が、最初の挨拶で私の「散歩道プロジェクト」との出会いから、講演会に至るいきさつをお話しいただき、さらに、私が散歩道プロジェクトの初期の頃に散歩道と散歩道プロジェクトへの思いを書いた日記の一文を紹介していただき、私はとても感激した。

講演内容は1ヶ月前から少しずつストーリーを組み立てていた。散歩道プロジェクトの取り組みそのものを出来るだけ伝えられるように色々と考えた。身近にいる様々な貴重な生き物たちの生活を写真で紹介し、さらに、開発により砂漠化されていく現状、不法投棄のゴミやそれをとりまく人々の心、そして、何故私は散歩道プロジェクトに情熱を注ぐのかといった内容までこめたつもりだ。まだまだ、完全ではないが、今、伝えられることは伝えたかった。それが少し出来たことは嬉しかった。

会場で配ったアンケートに、いろんな人がいろんなことを書いてくれた。多かったのは「身近にこんな様々な生き物がいるということにいままで気付かなかった」という感想だ。私はそれが嬉しかった。そう、その「身近にこんな生き物がいて、こんな生活をしている」それを伝えたいがために一生懸命歩き回って写真を撮ったのだもの。この約4年半の取り組みで、一番伝えたい人は、この近所に住んでいる人々。その身近な人々に、自分達の住んでいるそのすぐそばで起きている出来事として見てもらいたかった。それが少し出来た。

こういう場を設けていただき、準備に尽力された方々にあらためて感謝したい。また、悪天候の中、来場していただいた皆さんにも。そして、そのみなさんの期待を裏切ることのないように、これからも「散歩道プロジェクト」の取り組みを続け、私自身、いろんなことを勉強しつつ、さらに充実していけたらと思う。Koen20071027_2

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2007年10月14日 (日)

穴の住人

散歩道の土手には、大小さまざまな大きさの穴があいている。おそらく、その中には何かが住んでいるのだろうと思うのだが、実際に穴の中を覗いてもよくわからないことが多い。たまたま穴に出入りしているところを目撃することもある。以前、穴の中からギョロッと目が覗いていて、みるとそれはトカゲだった。Tokage

穴の中の写真を撮るのに、ストロボを発光させたら、驚いて奥に入ってしまった。

また、別な穴にはヤマカガシがはいっていくのを見たこともあるし、マムシも穴へ逃げ込んだところを見たことがある。こういう穴に不用意に手を入れたりしたら大変なことになろう。

先日から気になっている少し大きな穴がある。その中にヒキガエルがいるのを見たという人がいた。だが、私が覗くと誰もいなかった。

今日もいつものようにその穴のところを通りかかった。その時、穴の中に確かになにか気配を感じた。Ana2007101301_2

よくよく見ると、穴の中からこちらを見ているようだ。それはヒキガエルの目だ。ヒキガエルが穴の中にいる。

私は咄嗟にカメラを向けたが、穴の中は暗くてよく写らない。肉眼では見えているのだが、カメラには暗すぎる。私は穴から目を離さない様にしながら、背中に背負ったザックからストロボを取り出してカメラに装着した。ストロボ焚いたら驚いて引っ込んでしまうかもしれない。そう思いながら、「ちょっとゴメンね、ビックリするね」などとヒキガエルに話しかけながら、シャッターを切った。

Ana2007101302 ヒキガエルは驚きもせず、何食わぬ顔でそのまま座り続ける。なんどストロボを焚いてもまったく平気な様子だったので、少し安心した。

こいつはアズマヒキガエル。おそらく2~3歳というところか。性別はちょっとわからない。アズマヒキガエルは3月の終わりに一週間だけ一斉に田んぼや水溜りに現れて、派手なカエル合戦をやる。その時だけグエッグエッと鳴く。それ以外の時は鳴くこともせず、大きな体にもかかわらず、ほとんど姿も見せない。たまに、雨の日の夜に、出歩き、交通事故にあうやつを時々みかけるくらいだ。彼らはちっちゃなちっちゃなオタマジャクシから、立派な体に育つ。育つからにはそれなりに餌をとっているだろうし、そのためには歩き回っているのだろうけれど、ほとんど見かけることはない。そのヒキガエルにこんなところで出会った。最初からここに住んでいたのかどうか。少なくとも私はいままで気付かなかった。

秋になってきて、夏までは田んぼのまわりで見かけたアカガエルたちも、田んぼではなく、林の下の草むらや竹やぶの中で沢山みかけるようになった。彼らは冬眠前に充分餌をとり、そうして、こんな穴に入って冬眠するのだろうか。かれらの一年間の暮らしとて、知らないことが沢山ある。

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2007年10月 9日 (火)

均質な表現の危うさ

先日、最近流行しているある歌をきいて妻に「俺、これ嫌いなんだよね」といったら、妻も「嫌い」という。私は音楽は大好きなので、好きな曲は沢山ある。好きでない曲でも、嫌いでもない曲というのが大多数。本当に嫌いな曲、嫌いな歌、というのは実は少ない。少ないが、そういう場合はなぜ嫌いなのかがはっきりと説明できる。

最近、といってももう随分前からの傾向なのだけど、テレビ番組などと見ても、とてもあいまいであるはずの言葉をいとも簡単に誰もがそのことを了解済みのように使っていることによく出くわす。たとえば「愛」とか、「友情」「やさしさ」「思いやり」などなど。「愛」と一言でいっても、いろんな愛の形があるわけだし、それは人それぞれにイメージするものが違っているはずだ。もし、あなたが「愛」を感じた時に、どうしてそこに「愛」を感じたのかということが、思いを伝えるときに重要なことであると思う。「愛しています」というより、もっといろんな表現で、それぞれの「愛」を言い表せるはずだ。それぞれの「愛」があり、それがいろんな形で感じられるからこそ表現の意味がある。ある人にとってとても心を動かされた愛情表現であっても、それは他人には奇異なものかもしれない。けれども、そこでその人が何を感じたのか、他の言葉では表現できない「何か」、もちろん「愛」の一言では表現できない「何か」を表現しようという試みるならば、それは深い意味を持ってくる。「愛」と一言で言う以上の。

もっと簡単な例でいえば、料理番組で「美味しい」といってもその「美味しさ」は伝わらない。だから、ありとあらゆる言葉をつかってそれを表現しようとするだろう。それは他の人にはおいしそうにおもえなくても、それでいい。その人が感じた「何か」を感じてもらおうという試みがそこにあるはずである。

ところが、それを安易に「愛」だの「友情」だの「やさしさ」だの「思いやり」だのといった、ことばで片付けようとしているような歌が最近流行する傾向がある。そんな言葉が歌詞にあり、なんだかわからないものを了解済みのごとく他人に押し付ける。聴くほうも聴くほうで、そんなモノを、誰もが了解済みのことのように思って聴いている。感動した、という。それが我慢ならない。ストレートすぎるのだ。わたしはヒネクレ者だから、「そんなもん、本当にそう思うのか?」といいたくなる。

逆に、「愛」もなにも言っていない、悲しいとも嬉しいともなんとも言っていない、状況説明もなにもなく、歌詞の一言一言の裏にあるものが見え隠れし、メロディーとともに言葉では言い表し難い「何か」を感じ、心を動かされることがある。それこそが、言葉を越えた、「音楽」が目指すべきものではないのか?だから私達は音楽を聴いてそこにある「何か」を感じたいと思うのではないか?歌詞すらなくても音楽は心で感じられるものである。そう思うが、どうしても、最近はそんなまわりくどい、得体の知れないものは嫌がられ、インスタントに「これ!」という提示がされる方が好まれる。これはよくないことであると私は思う。

これは均質化の表れであると思う。世の中が経済的、効率的にまわっていくためには均質化はある程度避けられない。通貨が均質でなければ貨幣経済は成り立たないのと同じ事で、情報化にしても均質でなければそれは非常に効率が悪いということになる。しかし「音楽」といった人の「心」の部分の均質化は果たしてどうだろうか?音楽も「商業ベース」になってきて「ウケる」ということはあるていど均質化してしまうのだろう。まわりくどい表現でジワジワと心にしみてくる、というのでなく、「はい、これ!」と投げつけられた均質化した感情表現が世の中に氾濫する。

なにより、均質化は自然環境の敵であろう。豊かな自然は環境が多様性に富んでいるからこそ豊かなのであって、「豊かな自然」という均質化された「自然」があるわけではない。このあたりも、どうか?と思う。「里山」といったとき、なぜか「里山のあるべき姿」が暗黙の了解のように語られていないか?私はいつもこのことが気になっている。私が散歩道を散歩しはじめたとき、そこには「里山」の概念もなにもなく、ただそこにあるものを見て、感じよう、としただけだ。それはずっと今もそうであると思う。「里山」として世間一般でいう「すばらしい里山」なのか「あまりよくない里山」なのか、そんなことは私が決めることでもなければ、世間一般が決めることでもない。私は私がそこで感じたものがそこの「自然」なのである。自然環境さえも、均質化したものに向かうのであれば、私がよくいう「公園セット」と同じである。自然を大切にしよう、とか、「里山」を大切にしようというスローガンはあちこちできくが、それによって「里山公園セット」が全国に蔓延しないことを切に願う。私の考えは間違っているだろうか?それはおそらく将来明らかになるだろうと私は思っている。Kunetani20071006

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