« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月17日 (月)

風の音をきく

日本の南に台風があり、そこから太平洋高気圧の縁にそって熱帯の湿った熱気が流れ込んでいる。風は強く、モクモクと夏の積雲がかなりの速度で流れている。風の強い一日だった。

散歩道に向かって歩きだすと、霧のような雨がパラパラとおちてきた。やがて、向こうの景色が白くなり、細かいシャワーのような雨が落ちてきた。雨はすぐにやんだが、地面は少し湿って、焼けた地面が濡れた香りがした。

Kunetoge20070917 散歩道にでかけると、必ず行うことがある。それは、一つはくねくね峠の定点観測場所で写真を撮ること。そして、くねくね峠を下りて木々を見上げること。以前、ここにコナラの木があった。そして、いつもこのコナラの木の下で木々を見上げていたのだ。

別れは突然やってきたで書いたが、昨年、そのコナラの木は切り倒された。切り倒された木の、切り株の前で、いつも上を見上げる。ここは、コナラやクヌギの雑木林。ここに立つと丁度木々に囲まれた状態になる。

耳をすますと、季節ごとに違った音がきこえてくる。静けさの中に、鳥の声だけが響く冬。シュレーゲルアオガエルの合唱が大きくなり、小さくなり、谷にこだまする春。セミの大合唱に全ての音がかき消される夏。今は、ツクツクホウシの声。そして、いつもきこえてくるのは風に木々が擦れ合う音だ。この音も季節毎に少しずつちがっているが、ゆったりと揺れながら、右から左、左から右、奥から手前ときこえてくる。この音の揺れ具合に、心が落ち着き、自然と一体になる気がする。こうしてここで耳をすますこと、そして自然の音につつまれる感覚を心にしみこませること。私の中の自然の記憶がよみがえってくる。

Kirikabu20070917 切り株からは新しい芽が出てきて、すでにだいぶ育ってきた。切り倒された木から、また新しい命が育ち、新たな生き物をはぐくむ。そして、それは新たな時を刻んでいくだろう。

自然を大切にしたいといったとき、何を大切にしたいのか?私はこの自然を感じ、自分の中の自然の記憶を呼び覚ますような感覚。これを大切にしたい。この時間の流れを大切にしたいと思う。それが全ての原動力である。

この自然の中でおきている様々なことを知り、様々なことを感じていくこと。それに比べたら、人間のごくごく浅はかな考えの中にだけ生きることがいかに窮屈なことか。

Mori20070917_2 自然はただそこにあり、自分が生まれるはるか昔から、複雑な営みを続けてきた。そのことを私達はこれっぽっちも知らないではないか?歩けばいくらでも発見がある。それを多くの人はこれっぽっちも見ることなく、無視しつづける現代社会。それよりも人間社会が作り出した仕組みの方が大事だと感じながら生きることの危うさ。

とにかく、ここで耳をすまし、自然の音をきく。そのことが呼び覚ます感覚はいったい何だろう?もし、この感覚が一瞬にして都会の喧騒に置き換えられたとしたら、どう感じるだろうか?足元の土の感触が、アスファルトの感触になり、雑然とした雑木林は整然とした並木になり、雑草は刈り込まれた芝生になり、何も奥深いことはない、全てが管理された公園に置き換えられたら、どれほどの喪失感を味わうことになるか。いや、すでに都会の人間にはそれも感じられなくなっているのかもしれない。だが、本当はどこか心の奥底に、何か感じるものがあるのかもしれない。私自身がそうであったかもしれないから。

多くの人々は生きるため、その感覚に蓋をしている。そして、目をつむって、なかったことにして、破壊を続ける。破壊した後には自然はない。それが当たり前の人間の営みだと、思い込まされている。人間社会と自然の両立などとよくいうが、両立なんていうのは相反するものがあってのことだろう。相反するものを勝手に作り上げているのは人間なのだ。心を空にして、自然の音に耳をすまし、自分の心に響く音をきくこと。それが自然を感じるということだろう。それを感じながら、自らの行動をどちらに向けるのかを考えるということが、自然の中で生きることを考えることなのではないか。それが足りない。

| | コメント (4)

2007年9月16日 (日)

ツマグロヒョウモン

このところ、残暑が厳しい。いや、残暑というには暑すぎる。真夏だ。天気図を見ても、天気図だけ見たらこれが9月中旬の天気とは思えない。昨日は稲刈りの手伝いや、中学校の運動会があったが、稲刈りや運動会が猛暑の中で行われるというのも不思議ではなくなった。

Tsumaguro20070916そんな中、散歩にいったら、いきなり見慣れないチョウに出会った。ツマグロヒョウモンだ。

私がツマグロヒョウモンを初めて見かけたのは数年前に広島県の実家に帰省したときだと思う。お盆に帰省したときに、ごく普通に庭の花にもやってきていたし、道端でいくらでも見かけることが出来た。しかし、これは私には異様な光景に思えた。なぜなら、私は子供のころ、このチョウを見かけた記憶がないからである。チョウに興味がなかったわけではない。夏休みは捕虫網を持って走り回っていた子供だった。だから、身近にいるチョウの名前はたいてい知っていたからだ。その私が「なんだろう?」と図鑑をひらかなければわからなかったのである。

調べてみると、私が今持っている図鑑には「分布は本州(中部地方以西)、四国、九州、南西諸島。記録は北海道まであるが、土着しているのは本州以南の温暖地に限られる....夏から秋にかけて北上、東進する。」とある。広島県育ちの私の子供のころの記憶にはこのチョウはない。ということは、私の少年時代くらいの時代、少なくとも広島県あたりでも普通に飛んでいるチョウではなく、夏から秋にかけて北上中の個体がたまに見られるという状態だったのではないかと思う。

チョウは移動能力が高いので、南方系のチョウがどんどん北に分布を広げているという話はよくきくし、珍しいことでもない。私は子供のころ、ナガサキアゲハをよく見た。それは広島県だったからであり、それは関東にはいないものと思っていた。しかし、最近は千葉県でもナガサキアゲハは普通に見られるようになっているらしい。近所のチョウに詳しい人が庭で見かけたといっていた。だが、千葉県ではナガサキアゲハはまだ珍しいチョウのようだ。

数年前から、うちの近くでクマゼミの声をきくようになった。以前、東京の「お台場」の職場に通っていたときは、夏は毎朝クマゼミの大合唱をきいた。それはちょっとした驚きだった。もともと関東には南方系のセミであるクマゼミはいなかったはずである。セミの移動能力はチョウほどは大きくはないと思うので、これこそ、じわじわと分布を拡大しているということだ。

温暖化というと、やれ北極グマが絶滅するだのと、日常とはかけ離れたレベルの話で話されることが多いのはどうしてだろう?確かに温暖化は地球規模の問題だが、足元をみればいくらでも「異変」を感じることが出来るというのに。

何事も身近な問題として捉えることが出来なければ、問題意識も生まれないし、なんとかしようという気持ちにもならないのではないか?北極グマが絶滅することは日常とかけ離れすぎている。身近に見るチョウ、きこえてくるセミの声、どれだけの人が見て、聴いて、異変を感じているだろう?おそらく多くの人はそれにすら気付いていない。一年中エアコンのきいた、窓の開かない高層マンションで、それこそ地面から遠い人工的な生活をしている人に自然環境のことを考えろといっても無理。いや、考えなくてもいいように、世の中が動いていて、その真っ只中をさまよっている人々。そんな中で温暖化対策といってもなにか虚しくきこえる。そして、自然の実態を見ないままに、机上で議論をする人のいかに多いことか。少なくとも、一つの事実も自分の目で見ることなしに、理論だけでなんとかしようとするならば、それはいずれ破綻する。人間は自然の実態を見なくてもものごとがわかるほど賢くないのだ。何一つ、完全に理解出来ているわけではないのだから。

| | コメント (3)

2007年9月 9日 (日)

自然と対話すること

散歩道プロジェクト」を始める前は、自然を感じつつも、その中をいつも一人で、自分自身と対話するように歩いていたと思う。ただそうすることで自然から元気ををもらえていると感じることが出来ていた。緑の香りがただよい、鳥や虫たちの声がして、それらが、ずっと昔からここで生きているということが、とても普遍的なことで、その中でたまたま自分自身がここにいる。自分に降り注ぐ都会の様々な出来事とは関係なく、それがそこにあること。そして、それは私を包み込み、自分もその自然の中の流れとともに、ゆっくりと流れていく。Kunetoge20070908

ところが、その自分を取り囲んでいる自然は、人間社会では、ほとんど忘れ去られ、誰も気にとめることがない。もし、たまたま気にとめる人がいたとしても、それが人間社会の都合で消えていくことになんの不思議も感じないどころか、消え行くことは必然とさえ思っている現実。それはいつも背中に危機感として感じつつ歩いていたように思う。そして、ある日突然、「散歩道プロジェクト」を思いついたのである。

いつものように歩くのだが、そこに写真を撮ることと、自分が見たもの、感じたことを日記にして書きとめ、それをWEBを通して、遠く離れた人にも見てもらうこと。それが「散歩道プロジェクト」だ。素直に自分が感じ取ったこと、歩いて考えたことを、何か言葉にして、多くの人に見てもらうことが出来れば、少しは何かがかわるかもしれないと思ったからであり、それが全ての原点。

そして、そこからいろんなことが始まり、私の生活は「散歩道プロジェクト」なしでは考えられなくなってきた。今もかわらずに歩く。カメラは始めた当時に比べたらかなり大掛かりになってきた。撮影の仕方も、色々と考えるようになった。いろんな発見があった。いろんなことを知った。いろんな人にも出会った。当初は思いもしなかったいろんなことが始まった。それはすべて散歩道が私に与えてくれたことだ。そのことにはいつも何か感謝の気持ちを感じる。

たまたま、しばらく散歩にいけなかったこともあり、その中で自分自身の自然に対する対話の仕方が、最近少し変わってきているのではないか?そう思った。以前のような、背中から何かが追いかけてくるような、破壊に対する危機感も、今は少し薄れている。自然との対話も、ずっと見てきた分、いままでと違う見方、新鮮な見方というものが足りなくなっているかもしれない。散歩道プロジェクト自体が、私の日常のあたりまえのことになっているので、惰性になっている部分もある。知識は増えたが、知識にとらわれて、ありのままの自然がみえにくくなっているのではないか?そう思う部分もある。

もういちど原点に戻ろう。歩いてみたもの、感じたことを、感じたままに表現してみよう。自然の中の時間の流れをもっと素直に感じてみよう。そう思う。

自然と対話することは、自然の中に一人いて、まわりのありとあらゆるものを、五感を使って、そこから何かを感じ取る。感じ取ったものを上手く表現できれば、同じように感じることが出来る人がいるかもしれない。いままで感じてきたこと、知ったことは、土の上に積もる落ち葉のように、私の中に積もって栄養になる。そして、また新たな枝をのばし、新たなことを感じる。それが大事だと思う。もっと自然と対話しようと思う。 そうして対話して出来た物語を多くの人に語ることが出来ればと思うのだ。それが散歩道プロジェクトの本来の姿なのだから。Noshime20070908s

| | コメント (2)

2007年9月 3日 (月)

食欲の秋

秋といっても、まだ9月になったばかりでまだ夏の名残があるが、子供たちは今日から学校で、人の生活の季節も移り変わり、また一年が暮れていくのだなと思う。子供達の声で賑やかだった近所のレジャープールも、誰もいなくなり、道端にたくさん落ちているセミの死骸とともに、一抹の寂しさを感じる。

8月は毎年とても忙しく、今年もずっとほとんど散歩にもいけない状態だったが、9月になって、ようやくじっくりと散歩することが出来た。しばらく見なかったので随分季節が飛んでしまっている。田んぼでは、もう収穫が始まっており、すでに収穫を終えた田んぼもある。Tambo20070902

秋といえば収穫の秋、そして食欲の秋である。収穫したばかりの新鮮な食べ物が豊富にある秋は、体の中の季節が狂っている現代人でも、少しだけ、本来の季節感に戻るのかもしれない。

あるくと、カマキリが獲物を捕まえているのによく遭遇する。彼ら(多くは彼女ら)もまた食欲の秋なのだろう。おそらく、その後の産卵のため、多くの獲物を捕まえて食べる。トンボやチョウがカマキリの餌食になているのはよく見かける。

体力の衰えたセミも、カマキリの餌食になる。カマキリは、自分の体よりも大きなセミを押さえつける。両方のカマでセミを挟む。セミもセミで必死で抵抗しようとするが、カマキリはけっして離さない。やがて、セミの体力が衰え、動きが弱くなったところで、頭からかぶりつく。Kamakiri070901s

セミの体はカマキリのお腹の中で消化され、カマキリの卵を育てる。秋が深まっていくと、卵の塊となって、草や木の枝につく。それは最初はあまり目立たない。やがて木々の葉が落ち、草が枯れていくと、人々の目にも触れるようになる。冬は道端に沢山のカマキリの卵を見ながら歩く。

夏の主役だったセミが、少しずつ退場していく。上から降り注いだセミの声が、下からのコオロギたちの声にかわり、人々もまた、収穫を終えた田んぼからは人々の姿もやがて少なくなっていく。

食欲の秋は、秋の入り口、秋は冬の入り口だ。

| | コメント (0)

« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »