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2007年6月24日 (日)

ホタル

昨夜、近所に住む自然観察仲間のOBさんが、「ホタル、見に行ってみませんか?」というので、一緒にいくことにした。見に行くといっても、我が家から歩いてすぐの私のいつもの散歩道である。先週、見にいったOBさんによると、すでにいくつか飛んでいたという。

谷津田の半分は街灯があるので、ホタルは見られないが、街灯のない側にいくと結構あちこち飛んでいる。街灯がないので暗がりで足元がおぼつかない状態だが、昨夜はそれでも半月ながら月明かりがあって、明るく感じた。谷の奥の方で光の点滅が見えたので、そちらに歩いていってみると、谷奥には優雅にゆっくりと明るい光を点滅させるホタルがいくつか見えた。それは、まぎれもなくゲンジボタルの光だった。心が躍った。

ここは奥まった谷であり、もともと田んぼがあったが、休耕になってもう長い年月がたっている。湧き水があり、綺麗な水が常に流れている。だから、ホタルの生息にはとても適した場所だと思う。だが、その谷もすでに首の皮一枚。谷の先、100mもいけば、そこは住宅造成地になる。

しばらく、その谷奥をながめていた。それほど数は多くないが、はっきりと見えるゆったりとした光の飛翔。背後ではアマガエルの大合唱が鳴り響き、幻想的でもあった。

そこから、谷の入り口の田んぼに向かう。そこは毎年かなりの数のヘイケボタルが見える。私がいつもアカガエルを観察しているところと同じところである。このあたりの谷津田では、アカガエルが沢山生息している場所と、あまりいない場所があるが、アカガエルが沢山生息している場所にはヘイケボタルも沢山見られる。

ところどころ、田んぼの土手に沢山のヘイケボタルが点滅していて、まるでクリスマスツリーのようだ。そういうと大げさにきこえるかもしれないが、実際そうなのだ。この写真は昨夜OBさんが撮影したもの。わずかに数十秒の露出だが、これだけの光が見える。気をつけないと踏んづけてしまいそうである。Hotaru20070623p

昨夜は、「もっと沢山いる場所はないだろうか?」などといいつつ、このあたりの谷津田をくまなく探索した。やはり、アカガエルが沢山生息しているような場所で、街灯がなく、真っ暗闇の場所に沢山のホタルが見られた。昨夜は月明かりが少し明るかったのだが、そうすると、影になって月明かりがあたらないような場所にみんな集まってくるようで、そういう場所は本当に足の踏み場に困るほど。手をのばせば飛んでいるホタルに触れられる。

このあたりでは、あちこちでこのようなホタルが見られるが、その存在はほとんど知られていない。だから、わざわざこれを見に来るという人もほとんどない。

ホタルといえば、最近は、どこもかしこも季節になるとゲンジボタルを放流し、生息出来る筈もなく死に絶えていくホタルを増やしているだけ。見る方も、ほとんどイルミネーションを見に行く感覚で「わあ、綺麗!」といって、その時「だけ」見てよろこぶ。しかし、ホタルが生息する環境が本来どういうもので、昔は沢山いたホタルがどうして減ってしまったのか?どうすればホタルが生息出来るようになるのか?などと考える人はほとんどいない。だから、こんなに元気に生きている自然のホタルに、誰も無関心で、何の罪悪感もなく、こんな環境を潰していく。そのことに矛盾を、罪悪感を感じないのだろうか?そういう無関心、無知は本当に恐ろしい。

事実、ここからそう遠くない、都会の公園では、ゲンジボタルを飼育し、放流している。そして、ホタル祭りとやらがひらかれ、道路は渋滞し、大変な騒ぎになる。そこから歩いていけるほど近い場所に、これだけのホタルが飛んでいるというのに。そして、それらは、そのホタル放流の公園を残して、まわりがどんどん開発されていく中で、どんどん失われていったのだ。ここ十数年の間にだ。そのことを人々はどう思って公園に放流されたホタルを見ているのだろうか?それこそ、人々の無関心、無知の証拠でもある。自然にまったくかかわりのなくなった人々の病でもあり、そういうことが、自然環境破壊をなんとも思わない人々を生んでいるのだと、私は思う。表面的には「地球にやさしく」「環境にやさしく」といっているけどね。公園に放流されたホタルを愛でたからといって、まったく「優しく」もなんともないと私は常々思う。

私は、このホタルを都会の子供達にも見せてやり、本当の自然の素晴らしさを感じて欲しいと思う。そして、未来にこの環境をずっと残すことに、みんなの心が向かって欲しいと切に願う。ホタルはゲンジボタルだけではなく、ヘイケボタルはヘイケボタルの美しさがある。なにより、自然の中で力強く生きているその姿には感動する。だが、実際のところそんなことには誰もが無関心だ。それでいて、ホタル「だけ」は見たがる。たとえ、業者が放流した「偽りの自然」「偽りのホタル」であっても見れば満足する。見られなければ不満。ホタルがポツリポツリとしか見られなかったりすると、「たいしたことない」などと不満を漏らす。そういう人々のあまりに単純な感覚に酷く落胆する。本当の自然はこうして見るのだと、少なくとも、子供達には教えてやりたい。その心をしっかりと持って大人になって欲しいと思う。

まっくらな田んぼはアマガエルが大合唱し、遠くにフクロウの声が響いてくる。そんな静かな夜に、道端に時折見えるホタルの光。この自然をいつまでも大切にしたい。そのために、多くの人に素晴らしさを感じて欲しいと思う。(※OBさん写真提供:Thanks!)

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トンボとたわむれる

Tombo2007062301 散歩道は今、いろんなトンボが飛んでいて賑やかだ。普段あまり散歩道によりつかない子供達に、「トンボをつかまえに行こう」というとよろこんで散歩道に出かける。子供にとって捕虫網をもってトンボを追いかけるのはとても楽しいものだろう。私も子供のころ、そうしてトンボを追いかけた記憶がある。

トンボは様々な色のもの、様々な形のものがいて、それが楽しい。子供のころオニヤンマのような大きなものを捕まえることが出来たときの胸の高鳴りを思い出すし、ギンヤンマのオスのあの美しさを手に入れたいとおもって追いかけたときのことも、遠い昔のことながら、いまでも思い出すとワクワクする。

Tombo2007062302 今は、トンボの季節になると、私はカメラを持ってトンボを追いかける。トンボの飛んでいる季節に私が撮る昆虫の写真の大部分がトンボであることに気付く。大人になった今でもトンボは魅力的な存在なのだ。

シオカラトンボのようなごくありふれたトンボであっても、近くで見ると、複眼の美しさや、翅脈の模様の美しさには魅せられる。トンボの生きる小さな世界の美しさに驚き、もし、自分がトンボの大きさだったら、世界はどんなに見えるだろうか?と思う。

昨日は梅雨の間の貴重な晴天。散歩道には沢山のノシメトンボが飛んでいた。ノシメトンボは数も多く、ヒラヒラと比較的ゆっくり飛び、ゆっくり近づけばあまり逃げることもないので、写真を撮りやすいトンボだ。青空にトンボの翅がキラキラと輝き、その美しさに見とれてしまう。トンボのいるこの美しい風景をそのまんま写真におさめたいといつも思う。Tombo2007062303

そうして長時間トンボとたわむれる。だんだんと私はその場にとけこんでいき、いつしか、頭や腕やカメラにもトンボがとまるようになる。トンボの目の前まで近づいて、トンボの世界を覗く。

トンボたちはこの自然の中で何をみて暮らすだろうか。水の中で生まれ、やがて陸にあがり、空を飛ぶ彼らの一生からみたら、世界はどんな風に見えるだろうか?Tombo2007062304_1

光あふれる自然の中、翅をキラキラと輝かせながら飛ぶトンボたちの姿は美しい。人間がこの世に生まれるはるか以前から、彼らはこうして飛んでいるのだ。そんなことを思ったりもする。

時間をわすれてトンボを追いかけることは本当に楽しい。夏の日差しの中、気付くと、 こんな大きな大人が汗だくになってトンボを追いかけていた。

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2007年6月16日 (土)

足跡は語る

田んぼが青く生い茂ってくると、田んぼの真ん中はなかなか見ることが出来ない。だから、田んぼの端のわずかに地面が見える場所が観察場所になる。時間がないときは、なかなかじっくりと生き物たちを待ったり、探したりすることも難しい。そんな時は、何か足跡がないかと探す。足跡は長く残っているので見つけやすいし、生き物の動きがよくわかる。

水が引いた田んぼは足跡が見つけやすい。特に特徴のあるクサガメの足跡は比較的簡単に見つけることが出来る。よくクサガメを目撃するポイントで探してみることにした。

クサガメよりも先に見つけたのが、ダイサギの足跡だった。ダイサギは大きな鳥だが、すぐそばまで近づいて見ることが出来ないので、その大きさが実感としてわかないが、こうして大きな足跡をみると、なんとなくその大きさが実感できる。Ashiato20070616

私の手はそれほど大きい方ではないが、ダイサギの指の長さと私の指の長さが同じくらいである。手の大きさが同じといえばいいだろうか。そのくらいである。だから、そこにのっかっている鳥の大きさを想像すると、その大きさに少し驚く。あの長い脚、そして長い首を伸ばした時にどのくらいの高さになるのかと、この足跡から想像する。

丁度、ここは先日ちびアカガエルが沢山上陸した場所である。今日もアカガエルは沢山跳ねていた。まだ足の踏み場に困るくらいではあるが、先日に比べると若干減った気がする。おそらく、このダイサギに食べられたものも沢山いるのだろう。ダイサギの足跡は、そのアカガエルが大量にいるあたりに沢山ついていた。

その足跡を追っていたら、クサガメの足跡を発見することができた。クサガメの足跡は特徴があるのですぐにわかる。Ashiato2007061602

平行に2列に楕円形にくさび形の連続した足跡があり、その間に、一本の線がゆるやかにカーブを描く。その真ん中の線は尻尾の跡。そして、ある程度大きなクサガメの場合は、体を地面にこすりながら歩くので、平行な2つの足跡の間は平らに少しくぼんでいる。

足跡の大きさから、だいたいのカメの大きさがわかる。カメの大きさから、だいたいの年齢もわかる。この足跡の主は甲羅の長さがだいたい10センチくらいといったところだろうか?3~4歳くらいの若いカメだ。水路から田んぼの方へ上がってきたようだ。

そのクサガメの足跡の少し先に、もう一つのクサガメの足跡を見つけた。こっちはもう少し小さい。甲羅の長さが5~6センチくらい。1~2歳くらいだろう。この足跡は面白い動きをしていた。あるところでUターンしている。同時に、Uターンした先にダイサギの足跡がある。Ashiato2007061603_1

まるでダイサギに向かっていったように見えるが、そうではなくて、これはダイサギが近づいてきたのだろう。ちびクサガメはダイサギに気付いてUターンするが、ダイサギはカメに気付いて近づいてくる。そして、ダイサギの足跡とカメの足跡が交わるところで、カメの足跡が消えていた。

はたして、どうなったのか?このカメはダイサギに襲われてしまったのだろうか?

この足跡が、田んぼで繰り広げられた、一つのドラマを語っているようでもあった。

こんな生き物たちの物語はごく身近なところにこのように沢山ある。それは実際に注意してみればこんな風に意外と簡単に見つけられるものだ。人々がこういうことにもっと気付けば、自然の営みというのは、はるか遠い場所での出来事ではなく、身近なものだと思えるようになるだろう。そうすれば、身近な自然をいとも簡単に自分の思うような姿に変えてしまうことが、どれだけの影響のあることか実感として感じられるだろう。自然環境問題はどこか遠い世界で起きていることと思えば、危機感が薄れるかもしれない。しかし、こうして身近に生きた自然があり、それが失われたり、人間の営みで変わっていく現実を見れば、それがどういうことなのか実感として感じられるのではないかと思う。環境教育というとき、どこか遠くにいる生き物が絶滅してしまう、というような例え話しがよく使われるが、それよりも、もっと身近なところを見てはどうか?いや、それを見ることが出来ていないことが問題なのだろう。もし、これを見て、「それはあなたの住んでいるそばに自然があるからです。私の住んでいるところにはありません」と思ったら、それは間違いである。少し見るところを見れば、自然の営みはあるものだ。もし本当に自然がないのならば、そんなところに生きている人間こそがもっとも危機にさらされているということだ。

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2007年6月 9日 (土)

あるクサガメの最期

それは、田んぼの端にあった。私の散歩道、私がいつもアカガエルを観察している場所にそれはあった。これがもし、田んぼの奥であったなら、私は発見することはなかったろう。まるで、私に発見して欲しいと言わんばかりの絶妙な位置にあった。Kame20070609

先日、生まれたばかりの小さなクサガメを見つけた時は、生きているのか死んでいるのか、ぱっと見ただけではわからなかった。だが、これは一瞬にして死んでいることがわかった。手で持ち上げてみるまでもなく、動くか動かないかということを調べてみるまでもなく、それは死んでいるとはっきりわかった。なぜなら、すでにオタマジャクシが群がっていたからである。Kame2007060902

突然現れた大きな獲物にオタマジャクシたちが群がる。私が近づくと、驚いて逃げ出すものもいるが、それでもカメの体にかじりついているオタマジャクシも沢山。

カメは甲羅の一部が剥げたようになっている。死に至るダメージを受けたときにこのようになったのだろうが、どうしてそうなったのかはわからない。ただ、いえることは、そいつはすでに死んでいて、オタマジャクシたちの餌になっているということだけだ。

カメの甲羅には年輪のような縞模様がある。その縞模様でおよその年齢がわかる。このカメはおよそ5歳である。つまり、5年前にこのあたりで生まれたものだ。この田んぼ周辺では、私はクサガメをよく目撃した。手のひらにのるくらいの小さいものから、随分と大きいものまで様々なクサガメを見た。数はそれほどは多くはないようなので、もしかしたら以前どこかで会ったことがあるクサガメかもしれない。

クサガメの死骸は何度も目撃したことがある。それも大きなものから小さなものまで様々だ。ただ、このように田んぼの水の中で死んでいるものは初めてみた。どこかで怪我をして、ここまで歩いてきて力つきたのか、それとも道端で死んでいるのを見つけた誰か(人間)が田んぼに投げ入れたのか。カメ特有の足跡は近くにはなかった。これとて、水中であれば、必ずしも残るわけではない。だから、謎のままである。

Kame2007060903 ただこのカメの体は、こうしてオタマジャクシたちの餌となり、それを食べたオタマジャクシはカエルになる。そこにはカエルを待ち構えるヘビ。こうして、クサガメの体はこの地で循環する。その一部は、稲に栄養分を供給し、米にもなる。人もまたその物質循環にわずかながらもかかわる。

私は、このカメの5年間の生活に思いをはせる。私がこの場所の写真を撮り始めて5年目。カメにはどんな5年間だったろうか。やがて、このカメの体はあとかたもなく無くなってしまうだろう。だが、それはやがてこの地の物質として長い年月をかけて循環を始める。

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2007年6月 3日 (日)

クサガメの子供

今日も昨日と同じように散歩に出掛けて、昨日と同じように、ちびアカガエルたちを踏まないようにしながらたわむれていた。ピチピチと跳ね回るちびアカガエルたちの元気な姿が嬉しかった。そうして田んぼの端をウロウロとしていると、田んぼの水の中に小さなクサガメの姿が見えた。Kame2007060301

それはおそらく今年生まれたばかりのクサガメだ。甲羅の大きさがわずかに500円玉くらいしかない。ところが、まったく動く気配がないので、死んでいるのかと思い手にとってみた。

Kame2007060302 カメの甲羅はまだふにゃふにゃと柔らかい感触だった。そして、手の上に載せてみたが、いっこうに動く気配がない。「死んでいる?」「生きている?」よくわからなかったが、しばらく見ていると、そのつぶらな瞳が何度かまばたきをした。「生きていた!」少し安心した。でも、もしかすると弱っているのかもしれない。以前もこんな風に小さなカメを捕まえたことがあったが、手に載せるとすぐに手足を出して歩こうとした。その印象からすると、随分弱々しい感じがした。「弱っているのか?」

さっきまで賑やかだった田んぼが、急に静かになったような気がした。もう、ちびカエルたちも目に入らない。手の中でわずかにしか動かないこの小さなカメのことが頭の中でいっぱいになる。

Kame2007050303 裏返してみると、ヘソがあった。ということは、これは今年孵化したカメだ。生まれたばかりの赤ちゃんカメだ。

先日、自然観察会のみんなを引き連れて歩いたとき、これと同じようなちびカメが道路で干からびて死んでいるのを見た。そんなことも思い出した。

とにかく、自力で生きるしかないんだ。この谷津田で、こうして新たにクサガメの子供が生まれているということでもある。この谷津田がある限り、その命をつないでいって欲しいと思う。そんなことを思いながら、カメを田んぼわきの地面に置いた。Kame2007060304

そして、気付いたら、私は「ほら、ガンバレよ!」と声を出していた。そのそばを離れられず、じっと見つめながら、「ガンバレ!」と。

静かな時間が過ぎた。そして、カメが動いた。そろりそろりと足を伸ばした。「おっ、動いた!」と思った次の瞬間、そのカメはゆっくりと歩き始めた。

Kame2007060305_1そしてやがて、足取りはしっかりとし、向きを変えて田んぼの方に進む。 足取りは徐々に早くなり、田んぼの中にはいっていく。私は何も言葉を発することが出来ず、見送った。そして、カメは稲の間に消え、姿が見えなくなった。

「なんだ、元気じゃないか!」気付くと、私はそんな独り言を言っていた。と、同時に、胸をなでおろした。よかった、と。

「まあ、とにかくガンバレよ!」私は声に出してそう言って田んぼを後にした。

クサガメは長生きだ。40年くらいは生きる。あのカメが生きながらえれば、また、どこかで会うことがあるかもしれない。また、生き物と心が触れ合うことが出来た気がした。また、散歩に来る楽しみが増えた気がした。

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昨日の答え(訂正)

よく見たら、もう一匹いました。合計Aka2007060202a2 12匹。

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昨日の答え

昨日のチビアカガエル探し。ちょっと写真が小さくてわかりづらかったかもAka2007060202a 。実は11匹写っていた。正解はこれ。

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2007年6月 2日 (土)

アカガエルの上陸

このところ忙しくて2週間ばかり、ゆっくり散歩も出来なかった。たったの2週間だが、季節は大幅に変わる。しっとりとした木々の葉に、梅雨が近いことを感じる。ホトトギスが飛びながら大きな声で鳴く。その鳴き声が谷津田にこだましている。ホタルブクロのツボミが大きくなり、やがて道端はホタルブクロでいっぱいになる。梅雨もまた私の好きな季節でもある。

田んぼのほとりにいってみると、ニホンアカガエルは早いものは上陸し始めていた。Aka2007060201 そうだ、毎年この時期に上陸する。田んぼのあぜは、ちっちゃなアカガエルでいっぱいになる。それはもう、気をつけて歩かないと踏み潰してしまいそうになるくらいである。

まだ寒い2月に産卵が始まった。2月の終わりにはそれがピークとなった。田んぼじゅうがお祭り騒ぎのカエル合戦。そして、その後には沢山の卵。水が涸れて死んでいくものもあった。無数というほどの数だったオタマジャクシも次第に数が減ってくる。静かだった田んぼも、田植えの時期がきて、水が入り、人の姿もよく見かけるようになった。やがて田植えが終わり、稲が少しずつ育つ。

風景はかわる。まだウグイスも囀らない時期に生まれたオタマジャクシは、ホトトギスが鳴く時期にようやくカエルになって陸にあがる。田んぼの中は、まだアマガエルやシュレーゲルアオガエルのオタマジャクシたちが賑やかだ。アカガエルも成長の遅いものはまだオタマジャクシの形をして泳いでいるものもいる。ヒキガエルたちはもう随分前に豆粒ほどの小ささのまま、いつのまにか上陸し、いつのまにか水辺からいなくなっている。

毎年、このアカガエルたちの成長を見ることは、季節を感じることでもある。彼らとともに、季節を感じて、季節を過ごしている。毎年、いろんなドラマがあって、そしてようやく上陸することが出来た。

上陸したからといってまだ安心できるわけではない。かれらの上陸を待ち構えているものがいる。ヤマカガシだ。Yama20070602

ちびアカガエルはかれらの大好物。このチャンスを逃すわけはない。彼らもその季節をよく知っているのだ。

田んぼの水辺。なんてことはない場所なのかもしれないが、そこには様々な生命の営みがあり、ドラマもある。そして、人間も、そこに稲を植え、米を収穫する。そのことを考えると、彼らが自然の恵みを得て生きているように、私達人間も自然の恵みを得て生きているんだなということがわかる。しかしながら、それは今、多くの場合に忘れられているだろう。

こんな生き物が沢山の田んぼ。それがまだあって、そこに人間と自然とのかかわりがあること。自然と人間の接点がまだそこにははっきりと見える気がする。今は、それを忘れてしまった田んぼも多い。それを忘れてしまって米を食べることも多い。

とにかく、賑やかなちびアカガエルたちとたわむれていると、一瞬でも、自分もその自然の中の一員になった気がする。これが自然との繋がりなのだなと。

さて、ちびアカガエルがどのくらい沢山いるのか、気をつけないと踏み潰しそうになるというのはうそではないということをわかってもらいたくて、田んぼのほとりの写真を撮った。これでも、近づくと、四方八方に逃げていくので、見た目よりは少しまばらになっているのだが、あなたはこの写真の中に、何匹のちびアカガエルを見つけることが出来るだろうか?カエルの体色は保護色になっているので少々わかりづらい。写真に体の一部が入っているものも含めて、2桁数えられた人は大変優秀である。Aka2007060202

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