« 続・流れを追う(1) | トップページ | 続・流れを追う(3) »

2007年3月14日 (水)

続・流れを追う(2)

エビをつかまえていた少年達とわかれて、さらに流れを下っていく。ここまでは、最上流のホタルの公園(泉谷公園)からまっすぐ流れてきているが、このすぐ先には一旦暗渠に入る。実際には、一部の流れを分岐させて、水車を回していたりする。このあたりの事情は前回の「流れを追う」の中でかいた。要するに、このあたりからは、真っ直ぐ流れているわけではなく、暗渠に流れ込んだり、ダムのようなところで一旦貯められたりする。いよいよ人工的なコンクリート水路になってくる。

Nagare2007031101 最後の砦の暗渠は、道路の下を走り、そこを抜けると、大規模商業施設の駐車場のわきを流れていく。ふと思うのだが、これは下水の役目をしているわけでもなく、農業用水でもなく、なんなのだろうと思うが、このあたりではわずか数センチの深さの流れである。このくらいにしておかないと、水が濁っていることが目障りなのかもしれない。

周囲はごく最近開発が始まったばかりの住宅地であり、現在売り出し中のところが沢山ある。

そして、終着地の公園へと流れる。ここは丘があり、森があり、そのわきを流れる。だから、一見すると最上流のアカガエルの卵があった場所と同じような環境に思えるが、見たところ、まったく生き物の気配がないのである。Nagare2007031102_1

底はことごとくコンクリートに石が敷かれており、まわりは岩で囲んでいる。これでは、生き物が自然に棲めるはずはなく、自然の循環を無視している。私はこれを露天風呂といっているが、つい先日、ドブサライをして綺麗になったはずの露天風呂は、ちょっと放っておくと、ごらんの有様である。こんな露天風呂には入りたくないね。

ここから少し下流にいけば、もう、そこはヘドロの流れであり、異臭すらただよってくるのである。Nagare2007031103 そのドブくさい水(別に下水を流しているわけでもないのに、ドブくさくなるのである)が流れ込む大百池は、それこそドブくさい池になってしまっている。

誰が始めたのか、なにやらこのあたりで自然観察を行っている人がいるようである。そりゃ、ドブだろうが、生き物はいるかもしれない。けれども、自然をぶっこわして、こんな露天風呂を作り、そこでわずかに瀕死の状態で残っている自然をみて「さあ、こんな生き物がいるのです。皆さん大事にしましょう」などとよく言えるものだと思う。

おそらく、都会からやってきた人たちからすれば、それでも、意外性があるのだろう。ノウサギがいるとか、カワセミがいるといえばそれは驚くが、それは、ここの自然がもっと豊かだったころ、もっと健全に暮らしていたのである。それが破壊されて、今、かろうじて生きているのである。それを観察しましょうというのは、どういう意味で観察するのか?ホントに大事にしたいのなら、この現状に疑問を感じないのか?そういうことが自然のことを考えるということなのではないか?

結局、池までいってみて、池をぐるっとまわってみたが、アカガエルの卵など、一つも見つからなかった。私は、この地形と、この水面の状況かすると、かつては確実にいたであろうことが私にはわかる。しかし、今はいないのである。いつからいなくなったのか?いつ、この地域のアカガエルは絶滅したのか?水辺があるのに、カエルが棲めないのである。これを自然とはいわない。

さて、池の向こうには、おそらく、以前のこのあたりはこうであったであろうという風景がわずかながらに残されている。ちょっとみると、まるで私の散歩道のような風景である。Nagare2007031104

以前から気になってはいたのだが、一歩足を踏み入れると、忘却のかなたに消え去ろうとしていた風景が、なんとなく私の中でよみがえってくるのを感じた。

気付くと私は、まっすぐ前を向き、無言でこの奥に向かって歩いていた。何か、後ろから押されるような、そんな気持ちがしながら、長時間歩いてくたびれた足を前へ前へと進めた。

|

« 続・流れを追う(1) | トップページ | 続・流れを追う(3) »

コメント

葛西や浦安みたいにもともと埋立地だった所につくるならまだしも
せっかく、そこにあるものを壊してまで作らなくてもよさそうなものですね。
そのうち日本中同じような風景になっていくのでしょうか?
自然を模した作り物の庭園が近くにある所が住宅地としても
人気があるんだろな、
結局、本物の自然は都会の人は求めてないんだろうと思います。
虫がわいたり蛙がでたりトカゲがでたりヘビが出たりするのは
嫌いなんだろな

投稿: ふるやのもり | 2007年3月19日 (月) 21時49分

まあ、都会の真ん中に自然を模した庭園があるのならまだいいのでしょうが、都会に住んでいると、それが全てだと思ってしまっている人々がいるでしょうね。
トカゲがいたり、ヘビがいたり、いろんな虫がいるのが自然なのですが、生まれてこのかた、そういう自然を見たことがなく、また、こういう場所も破壊された後に、やってきて見ると、とても自然が豊かに思えるのかもしれません。
ここにはかつて、もっと豊かな自然があって、それを破壊して出来たのがこの公園だということには一生気付かないで終わってしまうことでしょう。しょせん、この程度の自然しかないのが当たり前だと思ってしまうのです。
誰がなんと言おうと、私には、それが、どうしても嫌なのです。ここで自然を見るのであれば、そのことに気付いて欲しいのです。単に、ウサギがいた、カワセミがいた、○○がいた、と、物珍しさだけに終始するのでは、そのことに気付きません。もっと、現代に至る時の流れも含めて考えて欲しいのです。現代の人間社会をそういうところから見つめて欲しいのです。だから、一生懸命観察し、ここに書いているのです。

投稿: TAGA | 2007年3月20日 (火) 00時09分

TAGAさん
「周囲はごく最近開発が始まったばかりの住宅地であり、現在売り出し中のところが沢山ある」という状況は市の政策なのでしょうね。
緑地を造成してそれに隣接する宅地の価値を上げて売り出すという。
一番下の写真の風景もいずれなくなって行くということでしょうか。
里山として残すという考えは全くないのですね。
寂しいですね。
TAGAさんの散歩道大丈夫なのですか。心配。
何だか宝を海に投げ捨てるのを指をくわえて見ていなければならないようで非常に残念です。
かつてはどこにでもあった里山がいまはとても少なくなっていると聞きます。

確かに都会の人は分ってないですね。
息子が言ってましたが(申し訳ないですが)千葉の汚い海を見て
わぁ~キレイな海だなぁ~
と言っている友人達を見て心の底からビックリしたそうです。
友人達にはこれがきれいな海に見えるのかと。
東京育ちの人が言うにはそういう海しか見たことがないから仕方がない
のだそうです。

投稿: ふるやのもり | 2007年3月20日 (火) 13時55分

TAGAさん このHPは千葉県市原市役所のどこの行政窓口にもの申していますか?環境関係は、なにか責任の所在がどこなのか、わからない現象からワイワイいっているようで何をどう解決の糸口をつかんでいるのかわからない。公園土木はこの通り
のところを進めているのだろうし、宅地造成係とでもいう部署
があるのでしょうか。この地面所有者が余程の農地主義者でないかぎりこの里地は守れないというところでしょうか。街には土がない!!公園はみずたまりがないように雨水浸透工事をすすめ、無人文化の象徴となっていないか。街に必要なことは、子供が土の力をそれとなく学び、土の語っている言語を聴き、
人のこころや脳に土の記憶をしっかりと植えついた人生を歩ませるという課題をどれだけ自覚しているかという使命を遂行していくかということではないでしょうか。公園に農的使命をどう歩ませるかというところが必要なのでしょうか。どこもここも造成地的な地面で、本物の地面が感じられなくなった街です。

投稿: 節分草 | 2007年3月20日 (火) 22時29分

これは、市は公園を管理していますが、周囲の住宅地はいわゆる昔の公団、いまでいうところのURというところの開発です。20世紀半ばに、都市の周辺の宅地需要が高まり、こんな風な開発が始まったわけですが、半世紀の間、それはそのまま、当たり前のこととして存在しつづけているわけです。バブルが崩壊しても、人口が減少しても、変えられない人々なわけです。
私がニュータウン文化といっているものが、それです。都市周辺の人々はほとんどがニュータウン文化の中で暮らすニュータウン族です。
私は、日々、このような環境の中で、見るもの全て、疑問だらけになってしまいます。ですが、都会の人々は、それを「当たり前」と思っているのです。汚い海を見て「きれいだ」というような病んだ状態が当たり前になっているのです。ですから、私は、それが当たり前でないことに気付いて欲しいのです。泥舟に乗っていても、それが泥舟だと気付かなければ、それは平和に暮らせるでしょう。
最近、よく考えることは、私の子供たちが、私たちくらいの世代になった時、日本はどうなっているのか?どういう世の中になっているのか?ということです。まだ、私の中で答えは出ていません。

投稿: TAGA | 2007年3月20日 (火) 22時38分

節分草さん、
この土地は、実はおとなりの千葉市です。
行政が動き、何か、お上が指導するという形ではなく、まず、その周辺に住んでいる人々が、この現状を見て、どう思い、どう考えるかが大事と考えます。
それなりに、検索でひっかかるようにワードを仕込み、周辺の方々に見てもらいたいとは思っていますが、それは、ある意味、局所的なところからの攻めであるでしょう。
もっと、根本的な人の心や考え方、ライフスタイルの問題が私には大きく思えます。誰もが、このような現状に疑問を感じ、見る眼をもっていれば、世の中かわっていくのではないかという、淡い希望を持っています。無理かもしれませんが、少なくとも、私はそのことに自分のエネルギーを注ぎたいと考えています。
環境問題といえば、すぐ、ゴミ、リサイクル、などとみなさん言いますが、それは、日々、ゴミ集積所にゴミを出し、それが日常生活の中の関心事となっているからです。しかし、環境問題といえば「公園」という人は、日本中探しても、数えるほどしかいないでしょう。そういうところに目をむけ、何が起きていて、何が問題なのかを知ることから、と思います。少なくとも、カエルの声がうるさいといって、公園の池に産卵した卵を駆除するような馬鹿なことを平気で行う人々には、その問題点が見えていない。だから、愚かな行動が愚かに思えないのでしょう。

投稿: TAGA | 2007年3月20日 (火) 22時58分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 続・流れを追う(1) | トップページ | 続・流れを追う(3) »