« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月30日 (月)

空を聴く

昨夜、随分と寒くなってきたなと思いつつ、ベッドに入ったら、電車がゴウゴウと走り抜ける音がした。最寄の鉄道からは1キロ以上は離れているだろうか?電車の長い警笛の音、踏み切りの警報機の音などもはっきりときこえてきた。「空はおだやかによく晴れているだろう」そう思った。

秋、移動性高気圧に覆われて、よく晴れた夜は風もおだやかで、明け方には空気が透き通るように気温が下がる。透き通るようにというのは、空に赤外線をさえぎるものがほとんどないので、地上の熱が赤外線として宇宙に出て行き気温が下がる。これが放射冷却だ。放射冷却が起こると、上空に比べて地表近くの気温が下がるので、いわゆる逆転層が出来る。通常、気温は上にいけばいくほど下がるということはみんなよく知っている。ところが、何かの都合でそれが逆転する、つまり、上にいくほど気温が高い状態になっているときは、そういう空気の層を「逆転層」という。放射冷却で地上付近に逆転層が出来ると、その上空で空気の密度の不連続な場所が出来、そこで音が屈折する。だから、こうして遠くの音がよくきこえてくるのだ。

というわけで、私は暖かい部屋の中にいて、音を聴いて、外の空気の状態を知ることが出来た。

一昨日、昨日と夕方散歩に出掛けたら、すぐに暗くなってきた。鳥たちがねぐらに帰る声があちこちからきこえてきたし、どういうわけかこの時期は夕方にアマガエルが沢山鳴く。秋も深まってきたな、そんな気がした。まわりの音に空気を聴いた。ずっと上空までの空を聴いた。季節を聴いた。その中の自然のいとなみを聴いた。都会の喧騒の中ではほとんどかき消されてしまっているけれど、それでもずっとどこか奥深くで響いているような、そんな音がある気がする。空気の音、季節の音、時が流れる音。静かな自然の中では、敏感に感じることが出来るのかもしれない。Sora20061028

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月23日 (月)

危険な重要保護生物

私の散歩道にはマムシはいないと勝手に思い込んでいた。実際、随分前に一度だけ死骸を見かけたことがあったものの、その後、生きているマムシはおろか、死骸すら見かけることはなかった。散歩道で見かけるヘビは8割がヤマカガシで、残りの2割のほとんどはシマヘビやヒバカリだった。だから、マムシはいないと思っていたのである。考えてみれば死骸を一度みかけているのだから、いてもおかしくはない。実際、うちの子供たちが通う近くの小学校でマムシが出たと騒ぎになったこともあったらしいし、すぐ近所で農作業中にマムシにかまれて救急車で運ばれたという話もきいた。それでも、あれだけしょっちゅう歩いていて、マムシが歩いているところを一度も見たことがなかったので、タカをくくっていたのだ。マムシを見たというのは、ヤマカガシを見間違えたのではないか?そう思っていた。実際、近くで農作業をしている人がマムシがいたといって指差した先にはヤマカガシがいたことがあったし、農家の人が「ここらへんのマムシは赤い色をしている」といっていたのをきいたこともあったので、やはりみんなヤマカガシをマムシと勘違いしている、そう思っていた。

しかし、いたのだ。この目ではっきりと、あの特徴のある模様に三角形の頭をしたマムシを見た。私は一瞬凍りついた。Mamushi20061022 マムシだ!正真正銘のマムシだった。やはりいたのだ。

同じ毒蛇でもヤマカガシとはまったく違う。ヤマカガシは以前は毒蛇とは思われていなかったほどのヘビであり、よほどのことがなければ咬まれることもなく、咬まれてもそれほどのことにはならない(とはいえ死亡例もあるが)。しかし、それに比べたらマムシは危険なヘビだ。不用意に触ったり、踏んだりして咬まれたら大変だ。

ところで、マムシは千葉県レッドデータブックでは重要保護生物としてリストされている。人間にとって危険な生物であるが、いまやほとんどの生息環境が危機にさらされていて、絶滅が心配されるほどになっている。そんなことをいうと、ちょっと待て、何故マムシが絶滅してはいけないのだ?と思う人がいるだろう。そんなところに問題が潜んでいると思う。

保護が必要な生物といえば、どんな生物を思い浮かべるだろうか?綺麗な花を咲かせる花、美しい声でさえずる美しい羽に覆われた鳥、可愛い動物....どうしてもそういうイメージが強いのではないか?誰もが保護したくなるような生き物。しかし、保護が必要なのはそんな生き物だけではない。自然の中の生き物には、どんな生き物であれ、その役割がある。生き物の様々な連鎖、微妙なバランス、その中でどれかがかけるとどこに歪が出てくるかわからない。だから、もし、そこに何万年と生きてきた生き物が、人間の仕業で消え去ってしまう危機があるならば、それは大変なのとであり、考え直さなくてはいけない事態なのだ。多くの人間はそんなことは知らず、人間社会の都合だけでものごとを進めようとしたがる。

最近は自然を守ろうという意識は高まっているといわれる。だがそれは実際、美しい花や美しい鳥などを見て、それ「だけ」をなんとか守ろうという方向に走りすぎていないだろうか?美しい花を食う虫=害虫。美しい花が咲く環境を改変してしまう生き物=害のある生き物。そういう認識だけで果たして自然がどこまで守れるだろうか?自然の成り立ちをどこまで正しく見ているのだろうか?私はあらためて問いただしたい。

マムシが生息していること、これは自然なのであり、だとすれば、そこに生息するマムシと向き合い、生活すべきだと思う。マムシに害を受けること、これは人間も自然の一部であり、マムシと人間がお互いにぶつかること(あるいはマムシ酒などといって利用することもあろうが)も自然なことであり、そのことから人間は学ぶことが沢山あるのではないか?マムシのことだって、知らないことが沢山あるはず。思わぬところで自然の中の重要な役割を果たしているはずだ。自然の中には人間にとって危険な生物も存在する。そのことを知ることも自然を知ることだ。危険な重要保護生物は多くのことを教えてくれるはずだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月21日 (土)

蝶を育てるアリ

最近、読んでとても感銘を受けた本がある。

「蝶を育てるアリ」-わが昆虫フィールドノート-  矢島 稔著  文春新書

この本の存在は少し前から知っていて、気にはなっていたのだが、どうも手にとって読むのは後回しになってしまっていた。それは、おそらく、「蝶を育てるアリ」というタイトルから私が勝手な想像をしていたのだと思う。この本は昆虫のことを書いているようだというのはタイトルからわかるし、著者名からしても、昆虫の生態のことを書いているのだろうということがわかる。昆虫には不思議な不思議な生態があることはわかる。そのことは知識として本から得るより、どうせなら自然の中で実物を見たいという気持ちが強かったのか、それが、少しこの本を遠ざけようとしていた理由だったかもしれない。それでも、やはり気持ちが興味に傾いて、読み始めた。はっきり言って、まいった。最近流行の言葉でいうならば、「ヤバイ」という。この本は、単なる昆虫の生態を説明しているのではない。著者のほとんど生涯をかけた昆虫に対する観察、研究。自然に対する思い。自然を見つめてきた目からみた現代社会に対する思い。そんなものが詰まっていた。読み進むうちに、著者の熱い思いに引き込まれていった。

このブログでは何度となく言ってきたこともあるが、自然を大事にしよう、地球環境を考えよう、などといっても、自然とは何か?環境とは何か?をどれだけ自分のこととして考えられるかは、やはり現場で自然を見つめることなしには出来ないと思う。生涯、自然を深く見つめてきた人であるから、語れることがあり、だから説得力もあるし、人に感銘を与えることが出来るのだと思った。

「あとがき」にこんなことが書いてある。

「体を動かし五感で生き物を認識しないと自然は理解できないし、それも少しずつ積み重ねる根気がないと、なかなか生物同士の関係はわからないものである。人間は物心ついた幼児から小学生くらいの間に周りの生きものに好奇心をもつ。そのときの虫を採ったり花をつんだりといった遊びの中に、人間もトンボやアリと同じ生きものであり、水をやらないと草も枯れるということを肌で感じる。大きくなって、そんなことをすっかり忘れてしまっても、生きものに対するやさしさがふと心に甦るとき、自制心がはたらくのではないだろうか」

~中略~

「美しい絵や音楽に接して心ときめくときに、涙がにじんでくるような感性が、自然や昆虫に接する際にもなくてはならない。この少年の心を失わないような、あるいは取りもどせるようなフィールドをつくりたいのである」

まったくその通りだと思う。私はこの本を読み終えて涙がにじんでくるようでもあった。

私も子供の頃、昆虫を追いかけた日々があった。子供ゆえに単純に、まわりの生き物に興味を持った。ただ、それだけのことだったろう。だんだん大人になっていくと、自然のことはどうでもよくなり、人間社会のこと、人間社会でどううまく生きていくかということ、それが大事になってくる。それが間違っているとは言わない。人間として、人間社会の中で生きるために必要なこと、それは身につけなければならないし、自分が生きていくために大事である。しかし、いつの間にか、それ「だけ」になっていく。人間社会の中で、一人の人間であるが、人間は、地球の上の一つの生物であること。そんな大げさなことをいわなくても、わかっていたはずの子供の心はどこへいったのか。自然の中で、いろんな生き物が、それぞれにいろんな生き方をしているのを感じて、そこで生かされている自分を感じること。それが、「涙がにじんでくるような」感性ではないだろうか?自分自身を振り返ってみて、人間社会の中でどうしてもうまくいかないことがあったとき、自然の中を歩き、そして、何か言葉にならないけれども力をもらえた。生きていることを実感できた。なにがおきても自分はこうして生きていると思った。自然は人間社会のゴタゴタなど知るよしもなく、そこに力強く存在した。それははるか昔から存在した。だから、自分はこうして生きていると思った。その感覚。夕暮れのヒグラシの蝉時雨の中で自転車をこぎ、坂道を歩き、感じたこと。それが大人になった私の自然に対する思いの原点かもしれない。そんなことを思い出した。

この本の著者は、そこにある自然を見つめ続けてきたからこそ説得力がある。そこにある自然の真実、事実をみてきたからこそ語れる言葉がある。私はこの著者にははるか遠く及ばないが、それでも日常的に自然に接して感じることは共通するものがある。最近流行の、人間が人間の都合「だけ」で作り出した人間社会の中「だけ」をみて、頭の中「だけ」で考えた「だけ」のトンデモ本など早く破り捨てたほうがいい。それより、こういう本を読もう。しかし、こういう本「だけ」を読んだのではだめで、やはり自分で自然を見て、その上でこういう本を読んで初めてわかるのかもしれない。だから、私は自然を見つめ続けようと思う。自分が出来ることは限られるが、それでも、出来ることをするのだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年10月19日 (木)

つながりトンボ

Tsunagari02_3 つい先日の観察会でアキアカネなどアカトンボはオスとメスが繋がって産卵し、シオカラトンボなどはメスが産卵している時にオスがまわりをまわっているという話をしたらとても反響があった。「知らなかった」「驚いた」という人が多かった。今、丁度、アキアカネなどは産卵の時期なので、田んぼなどでは普通に産卵風景を見かけることが出来る。見れば納得であろう。 
 先日のフローラサクラ展示会にて、アキアカネの産卵の写真を展示していたら、これも、いろんな人から質問を受けた。「これは交尾しているわけではありませんよね?」という質問もあった。そう、確かに、これは交尾しているわけではなく、産卵である。オスは尻尾の先でメスの首のあたりをつかむようにして、結合するが、これは交尾ではない。オスの生殖器は尻尾の先ではなく、根元にある。メスの生殖器にしても首にあるわけではない。

だから、交尾する時は一直線ではなく、ハート型になる。メスがオスの生殖器に尻尾を伸ばすわけだ。Tsunagari01_2
 面白い話がある。オスの生殖器には、ブラシのようなものがついていて、交尾をするとき、まずこれで、メスの精子嚢から他のオスの精子をかき出してから自分の精子を注ぐということだ。一時期、「利己的な遺伝子」といって、そういう考え方が少し流行した。トンボも他のオスの遺伝子はかき捨てて、自分の遺伝子を残そうとする。利己的な遺伝子といえば、まあそういうことになる。ただ、まあ、この「利己的」という表現はやや問題に思える。短絡的な人が事実に根ざすことなく、こういう理論をふりまわすとロクなことはないからである。一時期よりは下火になったようだが、今の日本にはそういうトンデモ話がいとも簡単に氾濫しやすいようである。
 そもそも、こういった自分の遺伝子(だけ)を残そうとする行動は種の繁栄に反するように思うといって驚く人がいるが、考えてみれば至極当たり前のことではないか?そうでなければオスの縄張り行動や、メスをめぐる争いというものは意味がなくなる。なぜなら、同種の他のオスの遺伝子を排除し、自分の遺伝子を残すためでなければ、そんなことして争うのはまったくの無駄だろう。少し前の「利己的な遺伝子」というフレーズの流行をみると、いまさら人々はどうしてそんなことに気付いていなかったのだろう?というのが、私の感想である。実際には日本でも「戦前」からそんなことに気付いていた人はいたわけだが、このような事実は、どうも、人間社会の「道徳」に反するなどというようなことから人々に受け入れ辛かったのではないかと思うのは、穿った見方だろうか?もし、そうだとすれば、逆に、今、こういう「利己的」が世間で大変にウケるということは何を意味するのだろうか?一つのわかりやすい例「だけ」を示して、勝手な解釈で、(全て)強いものが生き残る(べき)、弱いものは淘汰される(べき)という浅はかな考えで語られるほど自然界は単純でないことをどれだけの人がわかって「利己的」といっているのだろうか?ふと見渡すと、そのような馬鹿げた単純化が世界に溢れている。人間はなんでも単純化したがる。単純化に騙される。
 さて、何故、トンボのオスはメスの首をつかんで産卵までずっと一緒に飛んだり、産卵しているときにまわりで見張っているのだろうか?それは自分の遺伝子を確実に残すために他のオスにメスを奪われないようにするためである。たいしたものだといえばたいしたものだが、考えてみれば人間とて似たような行動をとっていることが多い。しかし、どちらも頭で考えるより事実は複雑だ。

※と、これをUPしようとしたのが2日前。なんと、ココログがメンテ中でそれからまるまる2日間使えなかった。コメントを付けようとした方は、コメントもつけられなかったのでは?こんなことではたまらんので、近日中に別のブログに引っ越そうと思う。いい引越し先が見つかるまではこちらで。また、引っ越してもしばらくはここは残すので、引っ越す時はこちらでお知らせします。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年10月14日 (土)

カマキリの世界

Mai2006100801 先日、とてもショッキングな光景に出会った。それは、オスのカマキリ、しかも、頭がないカマキリが、それでも6本の足で踏ん張って、その場でグルグルと舞っているのだった。いったいこれはどうしたのだろう?

この時期、カマキリによく出会う。花の下で餌がくるのを待ち構えているものもいれば、産卵をしているもの、交尾をしているもの、そして、道路で車に轢かれているもの。以前は、車に腹を轢かれながらも、頭と手が動いているものもあった。

生きた獲物を捕らえる肉食である彼ら。自由に回る首を持ち、目はするどく前を向く。その仕草がまるで人間のようなので、どうしても感情移入しやすいのだ。昆虫なので、顔の表情を変えることが出来るわけではないのだが、その顔のまわりの動きなどに表情のようなものを感じてしまう。

そのカマキリだが、交尾後にメスがオスを食べてしまうとはよく言われる。私も実際にそういう光景はよく目にする。子供の頃、カマキリのオスとメスを飼っていて、やはりメスは交尾、産卵後にオスを食べた。実際には全部のオスが食べられてしまうわけではないという。それはそうなのだろうが、目の前で動くものは餌とみなすカマキリに、たとえオスとはいえ不用意に近づいたら食べられてしまうだろう。実際、メスに頭を食べられて、その刺激で交尾が完結するという種類もあるらしい。そういうことを考えると、カマキリのオスがメスに食べられるというのは、単なる「事故」ではないのだろうと思う。

このオスはもしかするとメスに不用意に近づいて、頭を食べられてしまったのかもしれない。風の強い日だった。強風に煽られながらも、頭をなくしたオスはそれでも一生懸命立って歩こうとしていた。

人間のような表情を見せることもあるカマキリだが、彼らの世界は人間の想像を超えている。人間社会の中のモノサシだけではとうていはかることの出来ない世界がある。我々はそのほんの一部を見ているに過ぎない。あなたはカマキリのことをどれだけ知っているだろうか?知ることが出来るのだろうか?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年10月 6日 (金)

風の通り道

今日は関東地方は嵐。都心を歩いていて、横断歩道の信号待ちをしていたら、物凄い風雨にみまわれ、必死に傘をおさえて立っていた。ところが、横断歩道の反対側で信号待ちをしている人たちは、みんな平気な顔で、傘もまっすぐさしている。そうか、ここは風の通り道か。

ビルが立ち並ぶ都心は複雑な起伏があるので、いろんな風の通り道がある。ちょっとした風向きの変化などで、その通り道が微妙に変わる。ヒートアイランド化といわれるなかで、近年、都心の意外な場所が夏の気温が下がっているのだそうだ。それは、意外や意外、有楽町マリオン前。ここ数年で汐留に高層ビルが立ち並び、そのために風の通り道がかわり、有楽町マリオン前がうまい具合に涼しい海風の通り道になったらしい。

都心でなくとも、地上は普通、複雑な地形をしているので、その上を通る風は地表の影響を複雑に受ける。気象学ではこの地上の影響を受けている大気の範囲は接地層といい、特別な扱いがある(一応、わたくし、気象予報士でありますので)。まあ、そんな知識はなくとも、普通に風を気にしていれば、散歩していても、場所によって風向きや風の強さが微妙に違い、また、風の通り道があることはわかるだろう。妙に暑い場所や、妙に寒い場所もある。五感を使って自然を感じるということは、こんなことも感じることが出来るものである。

天気に二度と同じ天気がないように、風の通り道も、その時々の天気で複雑な変化をする。昨冬、特急電車が突風に煽られて脱線するという、いたましい事故があった。天災であろうが、なんであろうが、すべて人災にしてしまいたがる(ようするにヒトのせいにしないと気がすまない)昨今のヒステリックな風潮の中で、JR側がマスコミに風速計のデータを「誤解を生む恐れがある」からと公表しないといった。その言葉に私はピンときた。常に空調の効いた窓の開かない完全にコントロールされた場所だけで生活をしている人々には、確かに誤解を生むだろう。これは知識の問題ではない。自然とかけはなれた生活をしていると、物事のとらえ方もおかしくなる。それは人々を誤った方向に向かわせてしまうことにもなる。自然に接し、まわりの自然を五感で感じるというごく当たり前のことを、意識して行わなければならないというのも考えてみればおかしい。しかし、それをしなくなったらどうなってしまうのか。都会を離れても、蛇口を捻れば水もお湯も出て、電気のコンセントも自由に使えるようなコントロールされたオートキャンプ場でしか生きられないのであれば、それはもう危険領域であろう。そう考えると、都会から進出してくる新しい街に出来る公園が、先に書いたような、落ち葉も落ちる場所がないような公園であることも、ある意味頷ける。これは一種の病である。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月 2日 (月)

ギョッとした

昨日のことだ。いつものように散歩道をぐるりと歩いた。このところ、季節柄か、スズメバチに出会うことも多く、それなりに注意しながら歩く。大抵の場合、スズメバチに出会ってもスズメバチがこっちを無視してくれるが、時に、警告を発していることがある。ブーンとこっちにまっすぐ突進してくると、「こっちに来るな!」という合図だ。ゆっくりそこから立ち去るといいわけだが、たまに珍しいものなどに熱心に見入ったり、写真を撮ったりしていると、スズメバチの警告に気付くのが遅れてしまうこともある。先日などは、ガマズミの実を一生懸命吟味していて、ブーンという羽音がきこえていたのに立ち止まっていた。気付いたときには、私のまわりをグルグルと飛び回るスズメバチ。「ひえ~っ、いかんいかん」と、汗をかきかきゆっくりと立ち去った。危なかった。

散歩道にはヤマカガシもいる。毒蛇だから気をつけているのだが、大抵はヤマカガシの方が逃げていく。ヤマカガシが先にこちらを見つけてくれるからいいのだが、知らずに踏んだりすると、ヤマカガシも驚いて噛み付いてしまうかもしれない。だから、ヤマカガシのいそうな場所はわざと大きな足音をさせて歩く。地面を這っている彼らには、私の足音はよく響いていると思う。それにしても、ヤマカガシの足は速く、目の前を威嚇しながら物凄い勢いで横切られたときはゾッとした。

もともと私は蚊には刺されない体質だと思っていたが、今年はやたらと刺される。これまた、じっと立ち止まっていると集まってくるので、じっくり何かを観察しているときには厄介だ。必死で手で追い払うのだが、しまいには蚊の攻撃に我慢しきれなくなって、その場を立ち去ってしまうこともある。

まあ、そんなわけで、警戒したり、逃げたり、戦ったりと、穏やかな気持ちだけでいられない散歩でもある。

昨日、歩いていたら、足元でなにかが飛んだ気がした。なにか茶色いものが飛んだ気配があった。なんだろう?と見た、その先には...ギョッ!巨大なヤママユだった。羽を開いた長さは20センチはある。一瞬ギョッとしたが、その羽の模様の凄さにしばし見とれてしまった。ヤママユは羽を小刻みに動かして、少しずつ動いている。と、思ったその次の瞬間、ヒラリヒラリと音もなく舞い上がった。ひえ~っ!

たかがヤママユごときと思われるかもしれないが、ちょっと迫力があった。もっとも、彼らはそれで身を守っているのだろうとは思う。よくみると、目玉模様など本当に凄い造形である。ほとんど妖怪だ。そういいながらも、ふと、子供の頃に、捕まえて飼ったことがあったのも思い出した。よくもまあ、こんなもんを飼ったものである。こんなのを見てギョッとするようになったのはいつからだろうか? 毒蛇やスズメバチのように害があるわけでもないが、本能的にギョッとする。自然に対してそういう感情を持つのもまた自然なのかもしれない。Yamamayu20061001

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »