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2006年8月28日 (月)

小さくて大きな教科書

Kyokasho20060722 近所の木が生い茂っていた急斜面の木がことごとく伐られたのは数ヶ月前のこと。なにやら、伐って欲しいという要望があったらしい。それを何故か「環境問題のため」だといって伐ったそうだ。環境問題?いったいどういうことなのだろうか?そして、誰がこんなに根こそぎ伐ることを想定してたのだろうか?

やはり、こんな風になって、少し問題が発生しているようだ。こんなに伐ってしまっては、土砂崩れなどの恐れがあるのではないか?という人が現れた。もっともだと思う。

木を伐るといったって、地主に無断で伐るわけにもいかない。地主を探し出すのも結構大変だったらしい。最近は、流行の個人情報云々があるから。しかし、散々苦労して探し出し、お金もかけて伐ったのがこの状態である。そこまでして、誰がこんな風景を望んだのだろうか?

この写真を普通に見て不思議なことがないだろうか?これは7月の終わりに撮った写真である。草がこんなに枯れ草状態なのは7月としてはあり得ない。これは真冬の風景だ。草を刈ったばかりだからこうなっているのではない。今現在でも、こんな風に枯れ草状態だ。これが何を意味するのか?もともと木が生えていた場所は、木が光をさえぎっていたため、夏の強い日差しもやわらぎ、そのおかげで下草もある程度生えていた。ところが木が一気になくなってしまって、夏の強い直射日光が直接斜面に当たるようになったことが影響しているのだろう。この土地は一度死んでしまったのだ。

以前、同じように、「枯葉を掃除するのが大変だから」といって、木が伐られた場所があった。私は随分憤慨して、少々荒っぽい言葉で罵ったかもしれない。そうしたら、その荒っぽい言葉だけをずっと覚えていた人がいた。そういう荒っぽい言葉を発する人は信用ならないのだそうだ。なんだか「星の王子様」の中で王子様の住む星を発見したが、みすぼらしい服装でそれを発表したために、誰も信用しなかったという話しを思い出す。まあ、それは余談だが...

以前、谷津田の斜面に建設残土を埋め立てられた場所があった。酷いことをするもんだと思ったが、その場所がどうなっていくか記録してやろうと思った。想像だけでは説得力はない。ちゃんと写真を撮って、こういう風になっていくんだと示すことが出来れば、それは説得力を持つ。実際、長雨が続き、土砂は流れ出し、根元が土砂に埋まった木は、いつのまにか枯れてしまった。それはしっかり記録されたし、私の中での理解も深まった。

実際、この伐採箇所がどうなっていくのか?いろんな見識や予想だけではわからない面もある。ならばしっかり記録してやろうと思う。おそらく、この近所の人は、すでに大きな異変に気付いているはずである。台風シーズンで集中豪雨や長雨があった場合にどうなるか?を心配する人も多いだろう。私はむしろ、今年の冬を経て、来年が危険だと思う。冬はむき出しの土地を乾燥させ、土は脆く細かい砂となり、砂は空っ風にのって近所の洗濯物を土色にするだろう。そうして、次の雨の季節、それはどうなるのだろうか?

この斜面はかなり急なので、上からみると少し怖いほどだ。上部は県道に面していることもあり、大量のゴミが捨てられている。環境問題というのなら、このゴミは何故そのままなのだろうか?小学校の通学路でもあるその場所から足を滑らせれば、それも大変なことになる。Kyokasho2006072201_1

とにかく、いろんな意見があることは承知しているし、ここでまた、荒っぽい言葉を発すると、それだけを根にもっていつまでも言われてしまう。

ならば、ここは小さな場所だが、このような伐採がどんな結果になるか、ずっと見守ろう。それは大きな教科書になる。荒っぽい言葉で罵るより、それが大事だ。まさか、それにさえ異存があるとはいうまい。一種の実験でもある。実験結果は事実であるから、その記録は捏造でないかぎり、受け止めなくてはならない。

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2006年8月27日 (日)

セミの声

今年は梅雨が長かった。7月の終わりにようやく梅雨が明けた。梅雨が明けた散歩道を夕方歩くとヒグラシの大合唱につつまれた。夏の始まりを告げるヒグラシの大合唱だった。今年も夏がやってきた。今年の夏はどんな夏になるだろう。そう思いつつ、このヒグラシの大合唱の中を歩くことにとても幸せを感じた。

8月に入り、週末はずっとイベント続きだった。盆には帰省もした。広島では朝早くからクマゼミの大合唱だった。暑い暑い朝、汗だくになりながらも、クマゼミの大合唱の中で目を覚ます毎日だった。それが私の毎年の帰省の音風景である。朝の光の中、クマゼミの大合唱を聴く。それは変わらずに毎年やってきている。

帰省から戻ると、千葉はすでに秋の虫の声につつまれている。セミの声は、ツクツクホウシが主体となり、夏の終わりが近いことを感じる。

週末のイベント続きで、バテ気味だった私だが、昨日は久々に少しだけ森の中を歩いた。天気が悪かったので、昼からヒグラシの大合唱につつまれた。朝早くに降った雨にぬれた森の湿った香りと、ヒグラシの合唱につつまれて、私は元気を取り戻す。

今日、久々に散歩道にでかけた。ミンミンゼミが残りの時間を惜しむように、物凄い声で鳴き競う。やがて、道端にセミの死骸を沢山見つけるようになる。そうして、いつのまにかセミの声は静かになり、秋の虫の声とともに、秋がやってくる。

自然は五感で感じるもの。時間の流れ、季節の流れを五感で感じる。もし、セミの声がなくなれば、それは何か大きなものを失うことだ。実際、私の家のまわりではセミの声がうんと小さくなった。近所の木がことごとく切られたからだ。しかし、それでも何も感じない人はいる。自然を五感で感じることがいかに大事なことか。私は、毎年、同じようにセミの声を聴いていたい。それは、珍しいセミがいなくなるのはまずいとか、セミがかわいそうとか、そういうことではなく、ごく普通に身の回りにある自然のリズムを失いたくないからだ。それは、私の記憶の中にあるいろんなものを呼び覚ましたりもする。それを失うと取り戻すことはとても難しい。セミの声を失うと、セミの声と重なった自分の記憶も葬り去られていく。人々の感覚も葬り去られていく。だが、失っても気付かないでいること、無視すること、軽視することは簡単だ。人々はそんな風に飼いならされている。セミの声がだんだん遠くなり、きこえなくなり、それがいつのまにか、人工的な騒音と置き換わっても、それが当たり前のことだと思うのではないか。私にはそれは耐えられない。Semi20060805

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2006年8月 9日 (水)

小さな水辺の小さな生き物

一ヶ月と少し前に、子供が飼っていたザリガニが死んだことはここに書いた。その後、次女がまたどうしてもザリガニを飼いたいというので、一緒に近くの田んぼに捕りにいき、今年生まれたばかりの小さなザリガニを捕まえてきた。Sarika20060805今度はとても注意深く飼ったので、元気に育ち、脱皮までして、大きくなった。そろそろまた田んぼに帰してあげようと、先日、二人の娘と、もといた田んぼに連れて行った。ザリガニのようなものでも情が移り、家族の一員のようでもあった。眼がクリクリしていて、仕草もなんだかかわいい。とはいえ、ずっと飼っているわけにもいかないので、かわいい子を旅に出すことにした。

この時期、田んぼはすでにほとんど水が抜かれている場所が多く、田んぼわきの水路に逃がした。いってみると、たんぼわきの水路はいろんな生き物がいっぱいだ。もちろんザリガニもいる。

小さなメダカのような魚が沢山泳いでいるのが目に付く。ホトケドジョウだ。 今年はどういうわけか、春先から稚魚が沢山泳いでいるのがみられ、いまだに数多く泳いでいる。ザリガニを逃がした後、子供達と、しばらくその小さな水辺の生き物たちを見ていた。子供達は、自然と手が出て、水に手を入れて、つかまえてみようとする。当たり前の光景である。小さな小さなマツモムシの幼虫や、 コシマゲンゴロウが泳いでいる。

ここは、別に大きな湖でも、川でも池でもなく、単に谷津田の水路という狭い狭いところ。ほんの小さな水辺だ。ここにもこんなに沢山の生き物が生きている。しかし、今、ごく普通の人に、これらの生き物を見せるととても驚く。私が子供の頃、ごく普通にこんな生き物が身近にいたはずだ。どうしても、その頃と現代の間には大きな壁がある。生き物の環境もそうであるように、人々の自然に接する心にも大きな壁がある。このような、ごく日常的にみられた生き物が突如姿を消すことは考えてみればとても恐ろしいことである。今は夏で、セミの声がきこえるが、これがある日突然いなくなったらどうだろうか?と思う。しかしながら、特に我々の世代というのは、子供の頃から、身近な生き物が当たり前のように消えていくのを目にしてきた。その中で、出来るだけそんなことには目を向けないようにしてきたし、もし、そういう光景を見ても、それは「しかたのないこと」「当たり前のこと」と思うようにしてきたのではないか?

今、子供達にみせようにも、自然がないといわれ、自然といえばアウトドア。都会の生活そのまんまに生活できるような作られたキャンプ場などで遊ぶだけ。それは浮世を離れた遊園地感覚であって、身近にある自然には目を向けることもないし、身近にかつていた生き物がいないことになんの関心もない。自然は身近な現実であることがわからない。

子供達に見せるのは、水槽の中の生き物、檻の中の生き物でしかなければ、自然というものがどこかの遊園地と同じ夢物語になってしまう。すでに大人にとっても夢物語になっている。

この水路のような身近なほんの小さな場所にも、沢山の生き物がいること。それは現実であること。また、その生き物たちが生きる場所をいとも簡単に奪ってしまう人間がいること、あるいは、人間がそれらの生き物にいろんな影響をあたえていること、そういうことを実感として感じさせることが大事なことだと思う。水槽の中の生き物、檻の中の生き物だけを見せても、自然を大事にしようなどという心が生まれるわけはない。もっとも、そういう人間が「飼っている」生き物しか見せられなくなってしまった現実もある。自然環境を守るといえばすぐに「リサイクル」と子供達はいうが、そうではなくて、何故に自然環境を守りたいのか?守りたい自然というものの「実態」はどこにあるのか?まずそれを問うてみるべきである。そうでなければ、自然が夢物語になってしまう。夢物語は、いざとなれば「どうでもいいこと」になる。現実の欲望の前に、切り捨てられるのだ。そこが問題だ。Hotoke20060805_1 Koshima20060805_1

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2006年8月 8日 (火)

台風が来る

昨日、物凄いセミの合唱だったが、今日は台風の影響で天気が悪く、セミはそれほどでもなかった。明日はかなり接近しそうであり、荒れた天気になりそうだ。

それを考えると、台風が来ることを察知して、わずかな好天の間に一生懸命鳴いていたのだろうか?

アシナガバチが高いところに巣を作ると、その年の台風はたいしたことなく、低いところに巣を作った年は何かしら台風被害が出るなどとも言われている。もし本当だとしたら、何らかの方法で気候を予測しているということになろう。本当かどうかはわからないが、そんなことを言う気象関係者もいた。そんなホントかどうかあやしげなことでも、実際に研究してみたら、面白い事実がわかるかもしれないと私は思っている。生き物の能力をあなどるなかれ。人間の常識でははかり知れない能力をもつ生き物は沢山いるのだから。

そういえば、先日、背の低い草の茎にアシナガバチが巣を作っていたのを見たが...

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2006年8月 7日 (月)

突然の異変

つい先日まで、今年はセミが少ないと思っていた。梅雨が長引いたこともあり、また、梅雨明け後もしばらく気温が低い日が続いたので、そのせいもあるかと思っていた。セミというのは、地中で6~7年ほど暮らす。そのため、6~7年前が天候が悪く、あまり産卵されていなければ、天気がよくてもセミが少ないという年もある。あまりにセミが少ない気がしたので、6~7年前の天候はどうだったかな?そんなことも考え始めていた。

ところが、昨日、外出先から自宅に帰ってきて驚いた。物凄いアブラゼミとニイニイゼミの合唱。外にいたら、立ち話に支障をきたすほどの大音響。いったいこれはどうしたことかと少しビックリした。そして、今朝、セミの声で目が覚めた。といっても、明け方のヒグラシの合唱だ。しかし、この合唱、最初、目が覚めた時、寝ぼけていたせいもあるが、ヒグラシの声だと一瞬わからなかった。なにしろ、とてつもない数が一斉に鳴いているので、完全に一つの音になって、それはもう「カナカナ」などという風流なものではなく、「キーーーン!」というような、宇宙人が宇宙船に乗ってやってきたか?と思うような凄まじい轟音。こんなのは初めて聴いた。

土曜日に、羽化しそこねて、羽が半分延びきらなかったアブラゼミが落ちているのを拾った。そのセミはオスで、まだ生きていたが、鳴くことは出来なかった。セミは羽化してすぐは鳴けない。たいてい、1~2日後にようやく鳴けるようになってくる。金曜日あたりから急激に暑くなったので、それまで涼しくて羽化できないでいたセミたちが、急激な暑さで一斉に羽化し、それが鳴けるようになったので、一斉に鳴き始めたということではないかと思う。要するに、天気が悪かったり、気温が低かったりで、鳴くのを待たされていたセミが一斉に声を張り上げたというところか。

しかし、それでも、注意していないとわからないものだ。私はセミに関心があるので、そんな異変にもすぐ気付いたが、妻は,言われるまで気付かなかったという。あんなに大轟音が響いていても、単に「夏だからセミが沢山鳴いてるのね」くらいにしか思わないものなのだろうか?不思議といえば不思議だが...Abura20060805

写真のセミは羽が半分延び切れていなかった。木にとまらせてやったが、しばらく後に見に行ったらいなかった。飛べたのだろうか?

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2006年8月 4日 (金)

環境もゲーム

新聞記事から、こんなところに行き着いた。

http://www.yc.musashi-tech.ac.jp/news/2006game.html

環境問題をゲームにしてしようという。そのゲームねたを募集するという。まあ、そういう話になると当然賛否両論出てくるだろう。私は最初これを見た時、正直な話、「大学が?」「アホか!」と思った。それで、募集要項を見ていると、リサイクル、リユース、省エネ、グリーン購入というテーマだった。「ははあ、なるほど」と思った。世の中、大学でさえ、環境問題といえば「そこ」に行き着くのかと思った。

「そこ」とは何か?リサイクル、リユース、省エネ、グリーン購入、その全てが「人間社会」の問題である。しかも、人間社会をなんとかうまくやりくりすることによって、環境問題をなんとかしようという一つの「取り組み」であろう。その結果、確かな結論すらも見出せない現在において、何をしようというのか?人間社会側からだけ、しかも、極めて狭い枠組みの中で、なんとかしようという取り組みを通して、環境問題の何がわかるというのだろうか?

まあ、それぞれの取り組みについて、当然マジメに、真剣に「研究」されている方もいるだろうし、それを否定はしない。しかし、それは、「自然環境」というのが中心にあって、人間が今の社会の枠組みの中で(もっとも、それらの取り組みによって枠組みを変えようということもあるだろうが)「それをなんとかする」という「マネジメントの方法論」でしかない。世の中、マネジメントの方法論さえ完璧であれば、全てうまくいくという錯覚をしてしまう。これが全ての間違いの元である。

何故そういう錯覚をしてしまうのか?コントロールされた都会の生活が「文明」であって、不確定要素ばかりの「自然」は征服されるものであるという発想が根底にある。「環境問題」といったとき、それは、我々の人間社会が自然の中で「不完全」であるがゆえに引き起こす問題であるとでもいうのだろう。すなわち、人間社会が「完全」を目指すことが環境問題の解決に繋がるのだと。ある人はそれを「調和」というかもしれない。しかし、「調和」とはなんだ?そこが、そもそもおかしい。考慮しなかった不確定要素が出てきたとたんに崩れ去る筈だ。かといって、全ての不確定要素を取り込めるほど、人間は偉くも賢くもない。だから、そんな「マネージメント」が出来ると信じている方がどうかしている。

こんな議論は随分昔からされてきているはずであり、何をいまさらなのだが、去年の愛知万博をみても、環境問題に取り組んだ「愛・地球博」といいつつ、35年前の大阪万博から意識のレベルで大して進歩していないこと自体が「何をいまさら」であり、その万博で、牛乳紙パックでウチワなどを作ってゴミを増やしていながら「環境問題に取り組んでいる」というレベルの市民の意識であるから、それこそ、人間は「何をいまさらやっているのだ!」なのである。

しかもそんなもので「ゲーム」を作るという発想には恐ろしさすら感じる。「ついにここまできたか!」という感じであり、逆にそういうことに異を唱えようとする私にとっては問題点が明確になってむしろ「愉快」ですらある。

まあ、そんなことを言うと、「じゃあオマエは何が出来るのか!」といわれそうであるが、では、実際に身近な「人間社会と自然」のかかわりで、何が起きているのか、あなたは見ようとしているのか?見たことがあるのか?といいたい。現場を見ないマネージメントはどんな場合にも最悪である。机上で難しげなことを言う人(特にマネージメントを論ずる人々)はフィールドというものをバカにする傾向がある。そもそもフィールドに立脚しているわけでもなく、さらにそれをバーチャルなゲームの世界に構築しようなど、とんでもない。常に現場に立脚して、考えて、そこからなんとかしようという、本当のマジメな取り組みが出来ていないからこんな発想になるのである。本当に現場で「なんとかしよう」とするならば、毎日のように「絶望」を目の当たりにするはずである。ゲームなどとのんきなことを言っていられない。それは現場を見ればわかる。頭で考えたことなど、埃くらいにちっぽけだ。

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