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2006年7月30日 (日)

買ってはいけないカブトムシ

 先日、ある人からカブトムシのいる場所を知らないだろうか?ときかれた。なんでも、息子さんが「カブトムシが欲しい」というのだそうだ。が、「欲しい」のはいいけれど、「買いたい」というらしい。友達は「買ってもらった」という。で、父親としては「そんなもの買うもんじゃない!つかまえるもんだ!」といって探しているのだけれど、みつからない。どこかいる場所を知らないだろうか?という。

 「ああ、そんなもん、うちの近所ならいくらでもいるよ」と教えてあげた。実際、先日も近所の知り合いが「庭に飛んできた」といって、うちの子供たちがもらってきて、今、家で飼っている。まあ、もらってこなくても、探せばいくらでもいる。自宅から駅に向かって歩いていてもしょっちゅう死骸が落ちているのをみかける。

 教えてあげた直後、その人はカブトムシを探しに、うちの近くまでやってきたが、その時は結局、見つけられずに帰った。でも、諦めきれず、次の週末も朝早く起きて探したところ、立派なオスを一匹つかまえて大満足して帰ったそうだ。

 うちは男の子がいないのでよく知らないのだが、最近は「ムシキング」とかの影響でカブトムシがブームだそうだ。この人のように「昆虫採集」に出かける人も増えているのかもしれない。父親としては、かつて自分が子供の頃やったように昆虫採集して子供たちに見せてやりたいと思うだろう。

 しかし、ふと見渡せば、まわりには昆虫がいそうな場所も少なくなっていて、かつて自分が探し回った山も跡形もなくなっているかもしれない。その時、現実に気付くかどうか、そこが問題だ。デパートなどにいけばカブトムシは売っている。しかも、最近は日本産のものだけでなく、外国産の珍しいのも沢山売っている。これは私たちが子供の頃は考えられなかったことだ。かつて生きた昆虫は輸入できなかったからだ。だからといって、便利な世の中になったものだと思うだろうか?外国産の立派なカブトムシを買ってくるような大人は何の疑問ももたないのだろうか?そこが問題だ。

 買ってきた外国産カブトムシを処分に困って、どこかに捨てる。昆虫に限らず、最近、ペットなども捨てることがあり、カミツキガメなど、危険な動物を捨てたものが問題にもなっている。この事態にもしあなたが「命を粗末にする」ということだけを問題にするとしたら、間違っている。むしろ、捨てるなら「殺してからにしろ」といいたい。もともとそこにすんでいなかった生き物を「生きたまま」捨てるということが、いかに生態系に影響を与えることになるか、その恐ろしさを知れば、別に一匹の命などどうってことはない。それでも「命を粗末にしてはいけない」と思うならば、そもそも、そんな生き物を買ってこないことだ。あなたの一匹だけではなく、生息している場所でどれだけ酷いことが行われているかを考えてみて欲しい。業者は子供の昆虫採集のように歩いて探し回るような面倒なことはしない。それこそ、木ごと根こそぎ持っていってその中にいる昆虫を探すということが行われている。あなたが「買う」ことは、そういう自然破壊行為に加担していることになる。しかも、それを「生きたまま」逃がすことは、さらに自然を破壊する。逃がした外国産カブトムシが勢力を増せば、もともといた国産カブトムシが絶滅に追いやられることにもなりかねない。これは、カブトムシに限らず、植物や爬虫類、哺乳類などなど、実際にそういう現実に直面している生き物は沢山ある。そのことに気付いて欲しいものだ。

 デパートで珍しい外国産のカブトムシを買ってくることは、二重にも三重にも「カブトムシをつかまえる」という行為を絶滅に追いやる行為に他ならない。

Kabuto20060729 ※昨日みつけたカブトムシの写真

羽が白っぽくなっているのは、どうしてだろう?自然の中のカブトムシは個性もある。

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2006年7月26日 (水)

セミの季節

関東地方はまだ梅雨が明けない。しかし、今日は天気もよく、セミの声をきくことができた。セミの季節だ。今年、次女の夏休みの自由研究のテーマに「セミ」を選んだこともあり、このままセミが鳴かない冷夏になったらどうしようかと気をもんでいたが、なんとか大丈夫のようだ。

ヒグラシが夕方や明け方鳴くのはよく知られていると思うが、セミは種類によって沢山鳴く時間帯が微妙に違う。もちろん、天気や気温でもちがってきて、どんよりと曇った気温の低い日にはヒグラシが昼に鳴いていることもある。そのあたりのことを子供に観察させようと思い、今それを進めているところだ。これは少々根気のいる観察である。日々何気なく観察しているようでも、根気よく観察したことから、「あっ!そうだったのか!」という発見を引き出せれば、これこそが科学するということでもある。そういう観察や研究には、ほんの少し想像力からの「仮説」が必要である。その「仮説」を効果的に証明するにはどう観察すればいいかという計画性が必要になる。ここらへんは経験の少ない子供にはかなり難しいと思うので、私がそれとなく方向付けをしている。結果、どうなるか、私自身も楽しみである。

数年前から、千葉県のうちでも時々クマゼミの声を聴くようになった。クマゼミはもともと南方のセミだ。沖縄から西日本を中心に生息しており、東日本、関東には生息していなかった。それがずいぶん前から、棲息域が拡大しているということが言われるようになった。というと、すぐ温暖化と結びつけようというむきもあろうが、セミの移動距離を考えると、急激に生息域が拡大するのは人為的なものが大きいのではないだろうか?セミは何年も土の中で暮らしている。一生のほとんどが土の中なのだ。

クマゼミは盛夏の朝に一斉に鳴く。朝はかなり早く、7時くらいにはもう合唱になり、10時くらいまで鳴く。昼の暑いときには鳴かない。私の生まれ育った広島では一番目立つのがこのクマゼミだ。今からもう61年前の8月6日はよく晴れた暑い日だったらしい。8時15分といえば、クマゼミの合唱の最も賑やかになる時間である。あの日を体験した人々にはクマゼミの声はどんな風に聴こえるのだろう?今年もそんなことを考える季節になった。Kumazemi20040809

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2006年7月23日 (日)

自然の中でギョッとすること

私について、「生き物に対して、やさしい愛情を注いでいる」といわれたことがある。それは明らかに皮肉である。なぜなら、それはこういう文脈の中で使われる。「自然の中の生き物に対してやさしいまなざしを向けるのに、どうして私たちにはやさしいまなざしを向けないのか?」と。そういうのを典型的な皮肉という。

しかし、残念ながら、私は「自然の中の生き物に対してやさしいまなざしや愛情を持って接しているのではない」これは自信を持っていえる。そんな単純な話ではない。まず、そのように、わたしが「やさしいまなざし」を向けると考えるのが本当に皮肉でないとしたら、その人は自然を見ていないし、私が自然について語っていることを理解していない。もっとも、だから私はこうして自然のありのままの姿を見て、伝えることをしようとしているのではあるが。もし、そんな考え方はおかしいというのなら、きくが、「あなたは毒蛇にやさしいまなざしが向けられるのか?」Shide20060723 私は毒蛇にやさしいまなざしを向けるなどという馬鹿げたことを言うつもりはない。しかし、私が見る自然とは、そういうもの全てを含んでいる。

この写真、今日、私の散歩道で撮ってきた。これが何だかわかるだろうか?一見とても気持ち悪い。カタツムリが誰かに踏みつけられたのか、潰れて死んでいる。その死骸にシデムシやワラジムシなどが群がっているのである。これを見つけた時、正直ちょっとゾッとした。けれども、これが自然のいとなみであり、こうして生き物の鎖がつながり、それが自然を形つくっている。こういうことも含めて、自然を自分の五感で感じ、また、感じたこと、見たものを記録しようというわけだ。これを撮影している最中に犬の散歩をしている人が通りかかった。その人は見向きもせず、犬は平気でこれを踏んでいった。そこで私が「これは...」と説明したら、恐ろしいものを見るようなまなざしで、足早に去っていった。そんな気持ちの悪いものをわざわざ撮影している私はヘンな人なのであろう。

きれいな花、きれいな蝶、きれいな鳥、そういうものが好きな人は沢山いる。私も嫌いではないし、むしろ好きである。しかしながら、それ「だけ」を保護しよう、守ろう、というために自然を守ろうという考えを持っている人がいたとしたら、そういう人には賛成できない。人間にとって都合のよいもの、気持ちのよいもの、世界が全てそんなもので満たされることが良いのだと考えるなら、自然の中に入ること、自然とかかわることをやめたほうがいい。あらゆるものがそんな天国のようになるべきと考えるなら、大規模開発によって自然を破壊し、人間にとって快適な都市空間を作ることとどこが違うのだ?あなたが考える理想の自然とはどういうものなのか?

人間は自然とどう接するべきか?毒蛇が出る、猛獣もいれば、気持ちの悪い生き物もいる自然はダメで、綺麗な花が咲き、毒蛇は駆除され、猛獣もいないような自然が求めるものだとしたら、やめてほしい。あなたが嫌がるものも含んで自然があり、それを正面から見なくてはいけない。そうすることによって、本来人間が感じるべき、自然に対する畏敬の念や、自然に生かされている人間という存在を感じることが出来るというものだ。

実際、私は歩き慣れた道だって、危険な場所はあり、そこを歩くときは緊張する。特に、毒蛇やスズメバチなどには出会いたくない。出会っても、出来るだけかかわらないようにしたい。それはお互いにそう思うのだ。相手もそう思うだろう。危険な動物だって、むやみに人間と摩擦を起こしたくないのだ。

Kamakiri20060723 セミもカマキリも私は好きな昆虫であるが、こういう光景を見て、何を感じるか?それは私がその場でその光景を見て感じたこと、私にとってはそれが全てだ。かわいそうだから、セミを放してやろうとか、カマキリがんばれ、とか、そんな単純な感情ではない。そんなこと、理解出来ない人には一生理解出来ないであろう。しかし、それを理解して欲しいために、私は色々考えているのである。

地域社会や、小さなコミュニティーで人間同士がうまくやること、そういうこと「だけ」を基準に物事を考えていたら、こんなことは理解できるはずがない。それは人間の都合で語られるものではないからだ。小さなコミュニティーで人と仲良くすることは単に「人間の都合」である。だが、別に「人間の都合」など、どうでもよいと言っているのではない。「人間の都合」を考えるだけのものの見方の延長で自然は見れるはずがない、ということである。こういう考えをする私を、「冷たいヤツ」だと思うのなら思えばよい。「人間のコミュニティー」は戦争を引き起こすこともあり、自然を破壊することもある。しかし、それ「だけ」あれば人間社会ではバクチを打って借金生活だろうが、一日中TVゲームをしていようが、夜も寝ないでインターネットに接続していようが、生きられる。しかし、それ「だけ」になってしまおうとする現代人の方向性は大問題だと考える。すでにそれ「だけ」しか考えられなくなっている人が蔓延している。

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2006年7月20日 (木)

トンボのめがね

去年の今頃は、一生懸命飛んでるトンボを追いかけていた。といっても、捕虫網で追いかけるのではなく、カメラで追いかけていたのだ。トンボが飛んでいる姿が撮りたいと思い、色々試行錯誤していた。トンボは同じ場所をグルグル回るので、待っていれば、近くにくるのだが、飛ぶ速さもかなり速く、カメラで追いかけてもなかなかうまくいかない。

去年は、デジタル一眼に、300mm望遠レンズでやっていた。それ以前は、かなり旧式(といっても数年前に買ったもだが)反応の遅いコンパクトデジカメだけでやっていた。反応の遅いコンパクトデジカメで、「このあたりにくるぞ」と予測して、運がよければ撮れる、という程度だった。だから、「トンボがいる」ということはわかっても、ハッキリクッキリとは程遠い写真だった。デジタル一眼になって、反応も速く、連写も出来るので、それだけで物凄い進歩だったが、それでも思うとおりの写真はけっして撮れなかった。それは「腕が悪いから、機材が中途半端だから」などと思い込んでいた。

最近、私が尊敬するあるプロ写真家の方のアドバイスを受けたり、いろんな人の話をきくことが出来て、目から鱗が少しずつ落ちてきた。毎回、なるほどと思い、なるほどと思った延長で実際に実践してみたりすることで、少しずつ改善してきたように思う。カメラ、レンズの能力を以前は10%も使っていなかったことにも気付いたし、さらにいろんな可能性にも目覚めたように思う。

散歩道プロジェクトを始めたとき、自分が散歩道で感じたことを多くの人に同じように感じてもらえないだろうか、とか、そこにある自然のありのままの姿を記録したい、などと思って始めたのだった。これからもそのことは追求していきたいと思う。今、トンボの写真は以前より少しだけ、「自分が感じた自然」に近づいてきたように思う。でも、けっして満足がいく出来ではない。だから、次のことをいつも考えている。そうして、自分が感じたこと、そこにあるものをもっとよく見つめて、感じることが出来るように、それを考えて実行していきたいと思っている。すでに数限りなく歩いた愛する散歩道。これからも歩ける限り歩き、そして記録する。その記録が少しずつ生きた記録になり、確かな歩みになっていくことを目指す。そのために、いろんなことを考えて、いろんなことを感じて、いろんなことをやってみる。自分が歩いて、感じて記録したことを、本当に意味のあるものにするために。

Tombo20060716

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2006年7月19日 (水)

梅雨末期の豪雨

今年も梅雨末期の豪雨の季節がやってきた。あちこちで凄まじい被害が起きている。自然の力の物凄さを感じる季節でもある。「たかが雨、たかが天気」という人はその怖さを知らなすぎる。

梅雨末期には豪雨が起きやすい。正確に説明するのは難しいのだが、簡単に説明してみよう。梅雨前線というのは、主に南シナ海あたりから日本付近に流れ込んでくる南西モンスーンという暖かく湿った気流の役割が大きい。これが、日本付近の冷たい空気とぶつかって梅雨前線となる。梅雨末期になると、いわゆる夏の高気圧、太平洋高気圧が張り出してくるため、その縁を通って、赤道付近から暖かい湿った空気がどんどん入ってきて梅雨前線とぶつかる。さらに日本の南に台風が出来ることも多く、そうすると、暖かく湿った空気は台風がポンプの役割をしてさらに入ってくる。また、チベット高原あたりの高原の地面が熱せられることによって出来るチベット高気圧が日本付近まで張り出すようになってくる。それによって雲が発達しやすくなる。さらに、上空の気圧の谷が近づくと、梅雨前線上に低気圧が出来る。

なんだかややこしいが、これが梅雨末期の豪雨の典型的なパターンである。上に書いた全ての条件が当てはまらなくても大雨になる場合があるが、今回の場合は、ほとんど全てが当てはまっており、これはどう考えても豪雨パターンである。毎年、この時期にはどこかで豪雨が起きることが多い。被害にあっていないと、忘れてしまうことが多いだろうが、毎年台風で被害が出るように、ほとんど毎年どこかでこの時期に大雨被害が出ている。

今日、京都のどこかの市が県から避難勧告を出すことを検討するように何度も言われていたにもかかわらず、出してなくて被害が出てしまったというのがニュースになっていた。市長が「いままで被害が出たことのない場所だったから」といっていたが、こういう考え方が最も危ない。簡単に言えば、土砂災害というのは、過去に土砂災害が発生していないところほど起きる。最近、ニュースや天気予報で、「過去数年間で最も土砂災害の危険性が高まっています」というような言い方をしているが、あれは根拠があるものだ。過去数年間で最も多い雨量を観測したときに最も土砂災害が起きやすいという研究結果をうけてのことだ。考えてみれば、その地で土砂災害が起きていなくても、その場所で初めて経験するような大雨に襲われていれば、何が起きるか、それは未知の世界なのである。

梅雨末期の豪雨をもたらすのは、南は赤道付近からの、西はチベット高原からの空気の流れが影響している。そう考えると、これは地球規模の現象でもある。しかしながら、この大雨をもたらす大気はわずか地上15kmの範囲で起きている現象だ。そう考えると、地球にとって、本当に薄い皮一枚なのである。

人間は、自分の体の大きさのスケールを基準にしないと物事が実感として感じられない。「地球にやさしく」といったとき、「地球」は物凄く大きいものであり、実感に乏しい。しかし、気象現象は、たかが15kmの高さのことである。そう考えれば、自分の行動が影響を及ぼしかねないと、考えられないだろうか?

ついでに言うと、何事もスケール感は大事である。台風の大きさには大きい小さいはあるけれど、極端に大きいのもなければ、極端に小さいのもない。梅雨前線も、温帯低気圧も同じである。竜巻などはごく小さくて、台風みたいに大きな竜巻はない。それぞれの大きさで、振る舞いが違ってくるからである。これは地球の大きさや、大気の厚みなどに制約されている面が大きいのである。何事も、スケールの違いを無視して、小さな世界のことを大きな世界に単純に当てはめたり、また、その逆をやるということも間違いの元である。人間社会も同じであろう。しかし、人間社会のことは、スケール感なく語られることが多いように思う。一人の人間が社会の中で自然に感じられることがらのスケール以上のことは理解しづらいので、どうしてもそこに置き換えて考えることが当たり前になっている部分があると思う。人間も色々な大きさの制約を受けている....話がやや脱線した。

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2006年7月17日 (月)

変化する自然

 昨日は久々に散歩エリアをくまなく歩いた。とても暑い日だった。歩くとすぐに汗だくになった。ヤマユリはところどころ咲いていた。これは例年よりも少し早いかもしれない。場所によっては、もっと早く咲くところもあるのだが、毎年歩いているからこそ全体的な早い、遅いを感じられる。
 先日までたいそう立派なヤマユリのツボミがあって楽しみにしていたものが、綺麗に切り取られてしまっているのも見た。綺麗なもの、目立つものを持っていく人々は必ずいる。これは何度もいうけれど、その綺麗な「花」だけを見ているという問題がある。最近つくづく思ったのだが、人間とはもともとそういう生き物なのだろうと思う。
 散歩道をくまなく歩いていると、いつもは9月頃に咲くヤマホトトギスが咲いるのを発見してたいそう驚いた。花を見ながら、今年の天候のことや、ここ数日の暑さのことなどを思ったが、何故こんなに早咲きなのか?その答えはそう簡単に見つかるものではない。まして、温暖化や人間による環境破壊と簡単に結びつけてよいものではない。それは人間の傲慢だ。人間が自然の中でお行儀よくしていれば、豊かな自然が保たれるなどというのは、そもそも自分たちが「お行儀よくしていない」という自覚があり、だから「叱られるかもしれない」という子供じみた強迫観念がある。つまり、いつもと違う状況をみると「もしかしたら叱られているのかもしれない」と思ってしまうのだろう。どうも、最近の「地球にやさしく」キャンペーンの根本にはそれがある。お行儀の悪い人間の行動を感じるなら、それをなんとかしようというのはわかるが、だから「お行儀よく」すれば地球や自然は「やさしく」なるわけではない。そこを間違ってはいけない。しかも、自分達のワガママはとりあえず置いておくわけだから、そんな都合のよいことはないのである。
 自然はいつも同じとは限らない。このヤマホトトギスのように毎年少しずつかわっていくのも自然である。私はずっと同じ場所の写真を撮り続けているが、そうすると毎年少しずつ変化しているのがわかる。はっきりと、変化を感じているものもあれば、いつも見ている身近な人の変化に気付かないように、気付かないこともある。数年前の写真と見比べて、「おや、こんなだっけ?」と思うこともある。
 自然とは少しずつ変化するものだとして、自然を保護するとはどういうことだろうか?いまの状態を変わらなく固定化することだろうか?固定化が出来ればの話であるが、それは到底困難である。
 自然は常にまわりのものやその自然内部から影響をうける。様々なものの影響を全て考慮することは不可能である。したがって、完全な平衡状態を作ることは不可能であるし、そもそも完全な平衡状態など地球が生まれてから一度もない。
 では、何らかの基準で「のぞましい」と思える方向に自然を変えていくことが保護なのだろうか?これも難しい問題である。「のぞましい」をどうとらえるかが、人によって基準が異なるからである。当然ながら、「これがのぞましい」という基準などどこにもあるはずはない。
 そもそも、自然は生きているのであり、生きているから変化するのである。草一本生えない完全な砂漠や、完全に人工的な都市を作ればほとんど変化しなくなるだろう。しかし、それは死んでいるといえる。生きている自然を殺さないようにすること、健康にすることは保護といえるかもしれない。だが、それには生きているということはどういうことか?健康とはどうなのか?がはっきりしないといけない。それすら知らずにひたすら行動しても、「これを食べると健康によい」と誰かに言われて、そればっかり食べてしまって、かえって健康を害しているということになりかねない。
 そんなことをいくら言っても、自然とかけ離れてしまえば、そんなことはどうでもよくなる。薄っぺらな日常の都合だけで物事を考えていては、そもそも、どうでもよいではないか?「枯葉が落ちて掃除が面倒だから木を根こそぎ伐ってしまえ」といって、実際にそういう行動をとる。これは私が一番身近に感じることだ。地域に目を向ければ、作っても誰も通らないような道路を「お金を落とすため」といって作るような感覚。そもそも自然とは何の関係もないから、そういうことが大事なことになる。コンクリート護岸でかためた河川が氾濫すれば、「管理責任」とか、「避難勧告の遅れ」などといった、どうでもよい末端の「人間の直近の行動」だけを大げさに気にする。あげくのはてに、もっと大きな堤防を作れ、護岸を丈夫にしろという議論になる。コンクリート護岸で流速が速くなったり、上流のゴルフ場建設などにともなう伐採で保水力のなくなった山、もっといえば、コンクリート護岸やダム建設のために砂が流れなくなり、砂浜が消えていくという、さらに恐ろしい現実はどうでもよくなる。一旦被害にあえば、「痛いから、痛み止めをくれ」という感覚である。
 日本人は、虫の声さえ愛でる。とはいえ、いまや、虫かごの中にゴチャゴチャと虫をいれ、やがてその虫は死んでしまうが、その声を愛でるという。そもそも、自然の中でその美しい声を聴き、それを身近においておきたいと思うことから始まったはずである。なにやら花を持っていくというのと似ているが、それにしても、そもそも「自然の中のもの」という感覚がなくなり、「虫」「花」だけ。身近に自然がなくなってしまったので、そもそもの「自然」が何なのかわからなくなったのである。「花壇の花」と「ペット動物」と「自然の中の花」、「自然の中の生き物」の区別がなくなってしまったのである。区別しようにも、片方しか見たことがなければ区別のしようがない。頭ではわかっているとはいっても、本質は理解しようがないと思う。変化する自然とは何か?といっても変化するものであることすら知らないのである。Yamahoto2006071601

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2006年7月 8日 (土)

人間という動物とネットワーク社会のアンマッチ

先日、いろいろゴタゴタがあって出来るだけ接触をさけていた人と、たまたまネットワークで遭遇してしまった。私がある人のブログにコメントを付けていたのをたまたまその方が見つけた。その方は私がその人の目の前で(って、ネットワーク上の話だが)ある人に親しそうにコメントをつけていたのが気に食わなかったらしい。その方は私がとても嫌いなのである。

私はストレートにモノをいうところがある。嫌いなものは嫌い、ダメなものはダメ、間違ってるものは間違っていると言う。それは自分の信念でそう思って言っているのだからしかたがない。だが、それで、ある人を傷つけた(かもしれない)というのだ。私がなにやら言ったという本人にいわれたわけではなく、それを見ていた第三者であるその方にとって、私のそういう態度、ある人にきびしく言ってしまった態度が「人間として許せない」らしい。まあ、誰がそんな、何を基準にして他人を「許せるか許せないか」って判断できるのか?とは思うが、まあ、それは百歩譲ってそういう考えをする人もいるというということで、少なくとも、その方にはそう思えたんだから、まあ、私は「人間として許せない」人であるとしよう。

まあ、それはいい。問題は、その方にとって、「人間として許せない」私が、その方の親しくしている人とその方の目の前で「親しく」話していたのが、その方に対して「あてつけ」のようにとられてしまったようで、そのことを酷く怒って長文メールがきた。私にしてみれば、「はあ?」という感じである。普段通りに、仲の良い友人とネットでたわいもない言葉を交わしていただけであり、そんな、私のことを嫌いな人が見ている目の前で、という意識などこれっぽっちもなかった。当たり前である。もちろん、実社会において、道端で、その人が親しくしている人と親しそうに会話をしていたところに、その「私を嫌いな人」がやってきたら、すぐやめて去るだろう。だが、ネットなので、そういうわけにはいかない。その人のやってきたという姿が見えないのだから、当たり前だ。

こういうことが起こる原因は、人間という動物の持つ能力と、ネットワーク社会がそもそもアンマッチであるからである。ネットワーク社会は怖いというのは、そういうところからくると私は考える。

以前、もし世界が100人の村だったら...というたとえ話があった。世界中の人間が100人だったらということだが、そうすると、「へえ、世界の構造はこうなっているのか?」と、とってもよくわかる。だけれども、50億人のうち...といわれても、さっぱりピンとこない。これは、もともと人間は最大で100人くらいの集団の中で社会生活を行う動物だったため、そのくらいの規模の集団であれば、とってもよく理解できるように頭の構造が出来ているからだろう。

人間が動物としての移動能力の限界を持っているというのもある。だから、村の広さも限られていて、村八分になって村から追い出されれば、二度とその人と会うことはなかった。物理的な行動範囲を越えていればいいわけだから、そういうことも出来た。島流しというのもあった。こうして無用な摩擦を避けてきた。争いごとも、そうすれば何事もなかったかのように消え去り、それぞれの生活を送ることができた。

ところが、ネットワークは一旦接続すれば、人間のそういう能力の限界をすぐに超えてしまう。100人どころか、何か書けば世界中から見ることが出来る。これは頭ではわかっていても、本能としてなかなか認識できない。だから、それなりに意識して使わなければ、自分の本能とアンマッチとなって、トラブルが発生する。それは、トラブルを起こす人に問題があるわけではなく、人間であるかぎり、今のネット社会は人間本能とアンマッチなので、しょうがないのである。その点を意識しながら注意して使う必要があるのだ。

まあ、今回もそういうことが引き起こしたのだと思う。私自身もダメージを受けたし、それは相手も同じだろう。だが、何が問題なのか?をよく考えなくてはいけない。ネットでトラブルを起こす一人一人の人間は、その実社会、地域社会の中では結構うまくやっているのではないか?だが、その人のまわりに出来てくるネット社会は一旦暴走しはじめると、どうにもならなくなる。コントロール不能に陥るのだ。ネットが引き起こす犯罪も、実は、原因は引き起こした人というより、その人のまわりに形成されたネット社会の出来事が、その人の「実社会の」認識能力を超えて暴走してしまったという原因が大きいと思う。

なんでも、その方によると、私は「自然」に対してやさしいまなざしを向けるのに、「人」に同じようなまなざしを向けられないのが不思議なのだそうだ。実際のところ、私自身は、自然に対してやさしく、でも、人に対してやさしく、でもまったくない。自然の中で生きている生き物たちに無用な「やさしさ」はありえない。村社会、群れ社会の中でうまくやっていくためには嫌な人にも表面上はやさしくする必要はあるだろうが、それでも、嫌なものは群れから追い出す、追い出されればそこから去り、自分の生きるための新たな領域を探す。これが本能。自然の摂理だ。人間とて、そうである。そこを忘れて、やれ人間だけは特別だ、人間は誰にでもやさしくしなければならない、などというのは偽善にしかならない。少なくとも、それが、自然をありのままに見ようとしている私の今の考えである。

まあ、私を嫌いなのはいい。まあ、嫌いな人も敵もいるだろう。だが、ストーカーのように、昼夜を問わずの長文メールでいちいち攻撃されては普通の生活が送れなくなる。だから一応の対策はした。でもネットワーク社会には物理的距離で隔離できないという問題がある。だから今現在懸念されるのは、私以外のまわりの人、懇意にしてもらった人たちに迷惑がかかることだ。それだけは許せない。もしそうなれば、断固戦うつもりはある。昼夜を問わない長文メール送りつけだけでもストーカー行為は成立するそうだ。しかも攻撃的メールであれば尚更だそうである。そのことは確認済みである。そのための証拠はしっかり押さえてある。

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