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2006年6月26日 (月)

ザリガニ

今朝起きてみたら、なにやら小学校2年生の次女が泣いていた。「どうしたの?」といっても返事もせず、毛布をかぶって泣いている。妻にきいたら、飼ってたザリガニが死んだんだと。

たった一週間ほど前のことだが、仕事から帰ってきた私を待ちかねたように走ってきて、「今日、うちにザリガニがやってきたんだよ!」と嬉しそうに言っていた。小学校の生活科校外学習とやらで、学校の近くの農家におじゃまし、そこの池のザリガニを釣らせてもらったのだそうだ。「飼いたい人はもって帰ってよい」といわれて持って帰ったのだと。名前も付けて、6年生の姉と一緒に水を換えたり、餌をやったりと、張りきって世話をしていた。ところが、どうしたのか今朝起きてみたら死んでいたのだそうだ。ザリガニは飼うのが難しいとは思っていたのだが...

子供の頃、私もザリガニは何度か飼ったことがある。近所の田んぼやら川やらで捕まえてきて、バケツの中で飼ったこともある。やはり、何度も死なせた。なんとなくそんなことを思い出した。ある時は、一晩家で飼ったが、なんとなくかわいそうになって、もといた場所に戻してやろうと思って、雨の中戻しにいったこともあった。名残惜しげに見ていた私にザリガニが手を振ってくれたように感じて胸があつくなったのを覚えている。

自然の中で生きているものを飼うことで、それに何かしらの愛情を感じて、死も目の当たりにした。それは貴重な体験だろうと思う。自然の中で生きているものを連れて来て飼ってもなかなかうまくいかない。そこには自然と家の水槽とで大きな差があるからだ。それを実感として感じることが出来たはずだ。私自身は子供の頃そんな体験を数え切れないくらいして、今朝の次女のように泣いたこともある。そんな体験が沢山あったから、自然の中で一生懸命に生きている生き物に愛情を持って接することが出来る面もあるのではないかとも思う。もし、ペットショップで買ってきた生き物を飼って、同じように感じるかどうか、私にはわからない。Zarigani20060625

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2006年6月24日 (土)

カメの足跡

このブログに時々コメントをつけてくれる、ふるやのもりさんが、いつもゴミ拾いなどしている砂浜がある。そこにウミガメがやってきたと、ふるやのもりさんのブログで拝見してとても感動した。カメには会えなかったらしいけれど、砂浜にウミガメの足跡がしっかりとついていたと。残念ながら産卵には至らなかったけれど、それでもカメがやってきたというのは凄い。そうやって、いつかカメが来るだろうとゴミ拾いなどして、環境を守ってきた。それにカメがしっかりとこたえてくれたのだと思う。

「自然環境を守ろう」といっても、ただ都会の真ん中で理屈だけを語っていてもなんにもならない。こうして身近にある自然に目をむけ、自分に出来ることをする。そういうことに自然はこたえてくれるのだと思う。そんな中、私は何が出来ているだろうか?と自問する。

カメといえば、先日、大きなクサガメを見つけて以来、その近辺にいくといつもカメを探すようになった。そうして探すとクサガメの足跡は比較的簡単に見つけることが出来る。大きいもの、小さいものなど、様々な大きさのものがある。これは大事なことだ。特に、ごく小さいカメの足跡は、生まれたばかりのカメがいる証拠である。Ashiato20060617

クサガメは小さいが、それでも長生きだ。だから、大きな年寄りのクサガメを見つけたとしよう。それは何十年も前にそこで生まれ育ったものだ。だから、今そこに生きているといっても、繁殖していなければやがて絶滅してしまう。もし、生まれたばかりのカメも含めて、様々な大きさのカメがいれば、しっかり繁殖して、世代を重ねているということであり、そうであれば、これからもずっと繁殖を続けていけるかもしれない。だが、大きなカメだけで、小さなカメがいないとなれば、繁殖は途切れており、いずれそのカメたちが死んでいくと、絶滅に向かってしまう。

カメはやはりのろまなので、見つけても、ウサギみたいに速くは走って逃げることもないが、隠れるのも上手いので足跡は見つけられるけれど、なかなか会えない。でも、カメに会うと、かならず心の中で会話してしまう。何か話しかけると、眼をあけてきいているようにも感じるから不思議だ。Ashiato2006061701

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2006年6月19日 (月)

見えていない矛盾

しばらく前、都市の河川にアザラシがやってきたといって、大騒ぎしていたことがある。あの一頭のアザラシをみんなが追いかけ、姿が見えなったり、怪我や病気をすればみんなして心配するなどという、妙な病気が日本に蔓延したことがある。あれは愛くるしい姿をしていて人に危害を与えそうにないアザラシである必要があった。同様に都市に現れる野性動物、例えばクマが現れたら、どういう反応をするだろうか?「危険だから撃ち殺せ!」といっても、「しょうがない」と思うのだろう。そういう風になんの根拠もない理屈を勝手に思い込み思考が停止してしまう。

一時、ヤガモというのも流行った。「そんなかわいそうなことをするやつはけしからん」という論調が世間に無条件に受け入れられた。それはバブル真っ只中のことではなかったか?その一方で、海鳥の産卵場所が大規模に埋め立てられて、雛も卵もあとかたもなく埋められる現実があった。大規模な開発で、木の上の鳥の巣もいっしょくたに重機でぶっ壊し、瓦礫の山にされていった。そんな現実を誰も見ていないのかといえば、見ているはずである。ただ、そこには切り倒される木、崩される山という漠然としたものが見えているだけで、そこに棲む数々の生き物達のことは無視している。もっとも、見えていないのだからしかたがない。同様に、砂浜を勢いよく走りまわるオフロード車。乗り回しているかれらには、そこにウミガメの卵があろうが「見えていない」から関係ない。もし、ヨチヨチと一生懸命に歩くウミガメの子供の姿がそこにあって、それが自分が乗り回す車の下敷きになっている光景を見ていたら、それでも大喜びで乗り回すだろうか?

私が「散歩道プロジェクト」を始めた時、この迫り来る破壊に多くの人が危機を感じないどころか、「望ましいこと」のように捉えていたことにどうしようもない矛盾を感じていた。多くの「望ましくない」現実が多くの人には見えていない。山という地形、森という景色は目に入るけれども、それがどういうものか、その中で何が起きているのか?破壊するとどうなるのか?そのことが見えていないと思ったので、「多くの人に見てもらおう、そのためには自分がしっかり見てみよう」そう思ったのだ。

自然を大規模に切り崩し、ほとんど「無」にリセットする。この「無」を「砂漠」と私は言っているが、その砂漠を作った後に、なにかしら貧弱な花を植えたあげく、こんなすべり台でも設置しておけば、「喜ぶ」人がいるのだから、それこそなにも見えていないのである。見えていないことをいいことに、好き勝手なことをする人々がいる。もっとも、私が好き勝手なことをするといっている人々もかれらなりの論理があるのだが、少なくとも、砂漠を作る前のその場所に何があり、何を破壊しているのかは見えていない。私はその現実を見せたいのである。Suberi20060415

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2006年6月11日 (日)

雨の日

Ame20060611 梅雨だ。当然ながら雨の日が多くなる。私は雨が降っても時々散歩にいく。雨の日の散歩は好きだ。土砂降りの雨でも、生き物はしっかりそこで生活しているのを見ることが出来る。なにより、雨の日は普段見られないものが見られたりもする。生き物だけではなく様々発見が雨の日にはある。

落葉の季節、雨の日には木々から物凄い勢いで枯葉が降ってきた。まだ緑の残る葉っぱも、雨のしずくの最後の一押しで地面に落ちてくる。ほんの数十分で地面に葉が積もったりする。蝶が葉っぱの陰でじっと休んでいる。雨に耐えている。カタツムリが元気よく動きまわる。森はザアザアと葉に雨粒があたる音がする。それは、強くなったり、弱くなったり、立体的に聴こえる。風が吹いてザワザワと音がするように、そのザアザアは右から左へ、手前から奥へと移動する。木々の下にいればほとんど雨に濡れない。雨の降り始めはほとんど水滴が落ちてこない。しばらくじっとしていると、ポツリポツリと時折おちてくる。暗い森は湿った香りに満ちる。その中で静かに息を潜める生き物がいる。自分も何故か動きがゆったりとして、落ち着いた気分になる。雨粒が木々の葉にあたる音以外、何にも聴こえない静寂。田んぼや水路には雨粒が規則正しい輪を作る。輪は小さくなったり大きくなったり、増えたり、減ったり。雨は心を鎮め、体の中の流れを緩やかにする。雨音をききながらいろんなことを考える。雨の日、散歩にいってみよう。雨はけっして鬱陶しくはない。

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2006年6月10日 (土)

カエルが増えた?

最近、近所の人と話しをして、「カエルが毎年増えているのではないか?」という話になることが何度かあった。確かにそれは実感として感じる。今年はあまり熱心な観察が出来なかったけれども、ニホンアカガエルの卵塊の数は毎年増え続け、特に今年は非常に多かった。さらに、今年は5月に雨ばかり降ったため、毎年沢山のオタマジャクシたちが渇水で死滅していたのが、無事に上陸したのかもしれない。とにかく今年は実感としてカエルの多さを感じる。

以前はこの時期に田んぼの水を抜くところが多く、そのためにオタマジャクシが死滅しているのを見ることも多かった。また、農薬でオタマジャクシが死んでプカプカと浮いている光景にもよく出くわしたものだが、そいううのもだんだん減っていると感じる。農薬は使っているところは確かに使っているようだが、以前のようにむやみやたらに撒くこともないのかもしれない。

農薬だらけの田んぼと、無農薬の田んぼは一見してわかる。農薬だらけの田んぼの水はずっと澄んでいて底が見えるが、無農薬の田んぼは藻や水草が生えていて、一見汚く見える。実際には、一見汚く見える田んぼの方がカエルなどの生き物は多い。実際には汚く見える田んぼの方が少数派なのだが、それでも、そういう田んぼがあることがまわりの環境にも影響を与えているのかもしれない。

カエルが増えていると感じるのは、見た目もそうなのだが、音でも感じることが出来る。田植えの頃の田んぼからきこえてくるシュレーゲルアオガエルやアマガエルの声はだんだんと力強くなってきていると感じることもある。

10年ほど前は、農薬の大規模な空中散布もよく行われていて、「外出を控えるように」と回覧がまわってきたものだが、最近はしばらく見ていない。こんなに農薬がまかれた田んぼで育った米を食べても大丈夫か?と思うような状況から、かなり改善してきたのだろう。だからといって、米の収量が減ったという話もきかない。病害虫が発生すると、一時的に農薬を使うということもあるようだが、それでも、むやみやたらにという感じでもなくなってきたのだろうか?

やがてホタルが舞う散歩道の田んぼ。着実に健康を取り戻しているのかもしれない。カエルが増えれば、それを食べるヤマカガシなどのヘビも増え、また、カエルだけでないいろんな生き物が増えたりもする。問題は、都会慣れした人間がそういう変化についていけるかということかもしれない。そして、その変化を継続して、しっかりと記録することは大切なことだとの再認識をした。Kaeru20060610

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2006年6月 9日 (金)

流速

何年かニホンアカガエルの産卵の観察をしてきて、はっきりとしたことがある。ニホンアカガエルはまずほとんど流れのない場所にしか産卵しない。以前、大学でニホンアカガエルの産卵条件を研究しているという方からメールをもらって、「ニホンアカガエルの産卵条件で重要と思われることが何かあったら教えて欲しい」とのことだった。水の深さ、気温(こちらでは2月の終わり頃に産卵するので結構寒い)、それから水流だと答えた。その方はそのほかでも沢山のデータを集め、産卵に適したpH,気温,水温,水深などのデータを整理したらしい。その時、水流という項目がなかったので、私は「これは重要では?」とたずねてみたら、ニホンアカガエルはだいたい流れのないところに産卵するのでデータとして入れなかったとの話であった。確かにそうなのだが、例えば、私の散歩道にあるような湧水のあるような休耕田では、一つの休耕田の中にわずかながらも流れがある場所と、流れのない場所、水溜りのような完全に流れとは切り離された場所がある。観察していると、ほんのわずかでも流れがある場所にはまったく産卵がない。だから、これは重要な条件だと思ったわけだ。考えてみると、ニホンアカガエルの卵塊はプカプカと水に浮くし、流れがあると流されやすく、これでは産卵してもすぐに下流に流されてしまうし、また、オタマジャクシは流れに逆らって泳いだり、たとえば地面に張り付くなどといったことは出来ないようでもあるし、わずかでも流れがあると産卵には適さないのであろう。

カエルではないが、メダカが減った原因に、川の流れが急になったということがあるらしい。メダカの場合、産んだ卵がある流速以上の水流があると流されてしまい孵化できないということだ。それでは小川に産んだつもりが、流れに流れて海までいってしまうかもしれない。では、何故に流れが急になったのか?ひとつにはコンクリート護岸があろう。あれは、複雑な川岸の形を真っ直ぐでスベスベにしてしまい、流れる抵抗を減らす。そして流速を速める。

以前、そんな話をしたら、「俺は川が氾濫して家が被害にあった。メダカなんかどうでもいいから、ちゃんと護岸してもらわなければ」という人がいた。それをきいてどう思うだろうか?人間の生活と自然保護は相反するのだから、仕方がないと思うだろうか?

ちょっと待て、その氾濫した川はコンクリート護岸がなかったのか?そんなことはないだろう。新潟豪雨で氾濫したとき、川はどうだったか?もし、川を一箇所コンクリート護岸で固めるとしよう。そうするとそこは守られるかもしれないが、そこで速まった川の流れが、その下流にぶち当たる。そうするとそこも同じかそれ以上に護岸しなければならなくなる。では川を全部コンクリートで固めなければいけないのか?そんなバカな話はない。逆に川がどこか一箇所氾濫すれば、そこに水が逃げ、下流は緩和されるということはないのか?

もっと言えば、上流の水を蓄える筈の森林を伐採してゴルフ場なんかを作る。そこからどんどん水が川に流れ込んでいるのも事実。森林があれば、ゆっくりと流れ込むはずの水が、ゴルフ場からいっきに流れ出し、川を急激に増水させる。水害があっても、こういうことは誰もいわない。マスコミなど、よってたかって、非難勧告、避難命令が遅れたのは役所のせいだといって、イジメの対象を作って被害の憂さを晴らす程度である。そんな目先のどうにもならないことより、もっと、根本を考えたらどうだ。Tamago20060304

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2006年6月 7日 (水)

ゲンジボタル

今夜あたり、うちの近所ではゲンジボタルが乱舞しているはずだ。というと、「もう?」と驚くかもしれないが、ゲンジボタルはこのあたりでは梅雨入りの前に多く飛ぶ。近所の公園で、飼育、放流をしているところがあるが、そこはもうじき凄いことになる。週末の夜になると、付近の道路は違法駐車の嵐になり、渋滞はするし、屋台は出るし...以前、行ってみて、「こんなところで見たくはねえよ!」と思い、腹が立ったし、そんな場所に行ってしまった自分にも腹が立った。

だいたい、そんなところにいかなくても、ホタルなんざ、ここらへんにはいっぱいいるのに。それで、まわりの静かにホタルが飛んでいるところなんか見向きもせず、まるで祭りに行くがごとく、やれホタルだのといって見に行く。それでもって、「思ったよりたいしたことなかった」などとふざけた感想を述べている野郎がいるとぶんなぐってやろうかと思う。

ホタルはデリケートだ。水の中で育ち、土の中で蛹になり、光で求愛する。水、土、光の環境が整っていないとダメだ。水と土のことはたいていの人が気付くことだが、光のことに気付かない人が多い。私の散歩道でも、東側は街灯が出来て、それで、そちら側にはホタルがいなくなった。ホタルの時期くらい街灯やめてみたら?と思うのだが、やれ危険だの、なんだのという輩が必ずいる。だいたい、夜暗くなって、そんな道を歩くのは危険だと思ったら、歩かなければいいのである。日本中どこを歩いても危険でないことを要求するなんてのがそもそも大きな間違い。都会の中の発想である。都会の中だって、田舎の街灯のない道よりはるかに危険なところの方が多いはずだ。

それはそうと、私の散歩道はホタルはまだだろう。ヘイケボタルが主だからである。「主」といったのは、それしかいないわけではないからだが、7月の中ぐらい以降になると、ホタルが乱舞する。いつもホタルを見ながら、もう少し暗かったらホタルもすごしやすいのにと思う。ホタルを見ていると、街灯はまぶしく感じる。

もうひとつ言ってやろう。世の中、ホタルを見るというと、何故かゲンジボタルがもてはやされるが、ゲンジボタルだけがホタルではない。あなた、ヘイケボタルを見たことがあるのか?まあ、そんなにホタルが見たいのなら、ホタルが生きられる環境には何が必要か考えたらどうだ?それとも、ペット化されたホタルがいいと思うのか?そんなヤツらが、いずれ、外国のホタルを連れてきて喜ぶかもしれない思うと、吐き気がする。う~ん、今日はなんだか不機嫌だな。まあ、もうすぐ全国あちこちでやれホタルだといって騒ぎはじめるだろう。そしたら、マスコミ報道を含めたホタルに対する扱いを見てごらんって。日本人の自然感の貧弱さがわかる筈。

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子供と生き物

先日、私はいつものように散歩道でカエルなどの写真を撮っていた。丁度、子供連れの方がいて、子供達はオタマジャクシやカエルなどを捕まえていた。こんな風にしている方には私は必ず声をかけることにしている。決して、「生き物を捕らないで」などと野暮なことをいうためではない。多くの場合、生き物を探すポイントを外しているから教えてあげたいのだ。「何を探しているの?だったら、このあたりにいるよ」というわけである。夏場になると、捕虫網と虫かごを持った親子連れにもよく会う。大抵、「何がとれましたか?」とたずねる。ちょっと探せば、子供が喜びそうなカブトムシやクワガタなんかすぐ見つかるのに、まず虫かごの中にそんなのがいることはない。「さっき、あのへんにカブトムシが沢山いましたよ」などと私が指差すと「へぇ~!」という顔をするが、行ってみようとすることはまずない。たまに、虫かごを覗くと「うわ、これ、どこで見つけたの?」というともあるが、そういうときは大抵、親御さんがそれらしい雰囲気を漂わせている。

子供は素直だ。先日も、帰り際に、子供たちが私に自慢したくてしょうがないらしく、「ほら、カエルを捕まえたよ!緑のカエルだよ!」と見せてくれた。「うわ、ホントだ。立派なカエルだねえ」などと言って見せてもらう。親御さんは「かわいそうだから、逃がしてあげなよって言ってるんですけどね~」などと、申し訳なさそうに言う。カエルを見て、触って、捕まえて、あるいは持ってかえって飼ってみる。まあ、いいではないか。自分も子供のころ、そんなことばかりしていた。ザリガニやドジョウ、メダカ、いいじゃないか。そんなものを子供たちがいくら捕っても平気なくらいの自然、それが自然が元気だということだし、子供たちも元気だということだろう。ただ、本当に捕ってはいけないものだったら、私は「かえしましょうね」というかもしれないが...

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2006年6月 3日 (土)

クサガメの年輪

今日、田んぼわきの水路に大きなクサガメを見つけた。このクサガメには何度か会ったことがある。水路でじっとしていたので、少し写真を撮らせてもらった。ちょっと近づきすぎたので、途中で一生懸命に逃げはじめ、水路の端のくぼみに隠れてしまった。何度か会ったことがあるからか、最初は近づいても、あまりあわてて逃げるということもなかったのだが、暗かったのでストロボを使ったりして少し驚かせてしまったようだ。甲羅の長さが20cmはある大きなクサガメだ。クサガメの年齢は甲羅にある年輪模様でわかるという。そこで、その年輪を数えてみたら、少し明瞭でない部分があるが、少なくとも15歳以上、おそらく20歳は越えていると思われた。亀は万年というが、実際、亀は長生きだ。子供の頃に田んぼで子亀を拾ったという人が、30年近くも飼っているという話もある。

これぐらい大きくなれば、何かに襲われて食べられてしまうようなこともないだろうとは思うが、これからも無事に生きて寿命を全うしてほしいと思う。

時々、亀をつかまえて持っていってしまう人がいる。家で飼うというのだろうか?それにしても、亀よりも年齢の若い子供がつかまえて飼うのはどうなのだろうかと思ってしまう。このカメでも約20歳。20年はこの地で暮らしてきた。その間に子供も生んでいるだろうし、孫も曾孫もいるだろう。その年月の重みをさらっていってしまうのかと思う。もっとも、カメの棲息地を根こそぎに奪ってしまう開発をしてしまえば、1匹や2匹の騒ぎではなく、その子孫まで根こそぎだ。それはなにもカメに限ったことではないのだが...

人間には害を与えることはほとんどなく、どこかしら愛嬌のあるカメ。昔の人は神聖なものとして扱った。私も何故か、カメを見ると無条件に大事に見守りたいと思ってしまう。それは理屈ではないだろう。

ここで、私はこのカメを見て、このカメが暮らして来たであろう年月、その年輪に刻まれた時間と、その間に起こったであろう出来事を想い、そして、それがこれからもずっとここで続いて欲しいと思う。それは理屈ではない。理屈ではないが、大事なことだと思う。都会の真ん中から発せられる、実態のない「地球環境を守ろうキャンペーン」より、このカメを見て何かを感じる心の方がはるかに大事であると私は思う。Nenrin20060603_3

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