« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月31日 (水)

カエルの声

カエルの話が続く。

毎晩、駅から自宅へと向かう道、駅前の商店街で何故かカエルの声が聴こえる。あれはシュレーゲルアオガエルの声だが、何故にあんなところで鳴いているのかまったく謎である。一面アスファルトに覆われている場所だ。まあ、商店街裏の民家の庭のあたりから聞こえてくるのではあるが、それにしてもビックリである。

さらに、そのカエル、季節的には少し遅れた時期から鳴き始め、今夜あたりは何故か数が増えたように思えた。田んぼの方では、カエルの声は静かになりつつあるというのに。まったく謎だらけである。いったいどこでどうやって鳴いていて、何故そこで鳴いているのか?大変興味をそそられる。

さて、カエルの声といえば、これまた、先日の「カエルを描きなさい」と同じようなことがいえる。「カエルの声ってどんな声?」と質問してみれば、大抵、「ゲロゲロ」だろうが、そんな風に鳴くカエルはいない。カエルの声といっても、かなりバラエティーに富んでおり、「カエルの声」とひとくくりには出来ないものである。

それともう一つ、年中鳴いているアマガエルは別として、大抵のカエルはそんなにいつでも鳴いているわけではなく、ほとんどが繁殖期だけ。たまに、天候などの関係で鳴くことがあるくらいである。

要するに、カエルといえば、「ケロケロ○○ッピ」のような格好で、いつもゲロゲロと鳴き、水辺にいてピョンピョン跳ねているものという先入観を持っている人は多いのではないか。そういわれて、「それは違う」というかもしれないが、では、「どんな姿でどんな風に鳴く?」ときかれて正しく答えられるだろうか。現代の都会人はほとんどが答えられないのではないか?「近頃の子供は...」と言いたげな大人であってもである。それこそ「井の中の蛙」であろう。都会人の多くは「井の中の蛙」なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月29日 (月)

カエルを描きなさい

昨日、うちの娘たちが、粘土でなにやら色んなものを作って遊んでいた。長女と次女がそれぞれの作品に点数を付けろといって私のところに持ってきたりして、それでどっちが高得点であったかなどと競っていたのだが、そのうち私に「お題」をくれといってきた。「しめしめ」と思ったので、「カエルを作りなさい。ただし、リアルなカエルだよ」といって、カエル図鑑まで与えて作らせた。

予想通り、なかなか出来上がらない。だんだん、「難しいよ~」という悲鳴がきこえてきた。そこで、私が「カエルってさ、こんなだよ」と、粘土で作って見せたら、子供たちは一生懸命、私の作品を見て真似しようとしていた。

長女も次女も実物のカエルを見たことがないわけではない。二人とも、なんども触っているし、つい先日も私の散歩道を一緒に歩いたときに見つけたアマガエルを手にのせていたくらいだ。しかし、「カエルの形」がわからないのである。

これにはちゃんと理由がある。だから私は結果を予想していたのだ。幼稚園児などでもカエルの絵を描く子供は多いと思う。絵の題材としてはありふれているものであろう。ところがほとんど「マンガのカエル」なのである。子供用の文房具などについていたりするあの絵柄なのである。ホンモノのカエルを見よくたら、それがあまりにかけ離れた姿形であることはわかる。しかし、カエルというのはあの「ケロケロ○ロッ○」のような姿であるという無意識の先入観があるために、本当の姿がわからなくなっているのである。もっと言えば、都会の子供はホンモノのカエルを見たことがない。オタマジャクシからカエルになるといっても、それがどこでどういう風に生きているのかの実感などないだろう。

と、いうと、「そうか、近頃の子供は...」と思ったあなた。ためしに何もみないでカエルを描いてみてほしい。ちゃんと描ける人がどれだけいるだろうか?自然や生き物をわかっているようで全然わかっていないのはこういうところにも表れる。ちゃんと自然を見よう。生き物を見よう。Amagaeru20060430s

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月22日 (月)

感謝の気持ち

Kigi20060520_1 私の好きな散歩道。自然の中を歩き、いろんなものを見て、いろんな音を聴き、いろんな香りをかぐ。光を感じ、音を感じ、空気を感じる。

休みとなるとかならず歩く。このところ、しばらく歩いていなかった。久々に歩いた。いつもほとんど一人であるく。いろんなものを見ながら歩く。いろんな音を聴きながら、いろんな香り、いろんな空気を感じながらあるく。随分長いことずっとここを歩いている。いろんな出会いがあり、いろんな生き物と友達になり、いろんな気持ちになった。いつも感謝している。ここを歩けること、この散歩道があること。ざわざわと木々が風に揺れて、光も揺れる。それを一人見上げながら感謝した。

先日、子供たちの小学校の運動会があった。帰り道は家族4人で歩いて帰った。学校と家の間にこの散歩道があるので、そこを歩こうと思った。子供達は何度かこの散歩道につれてきて、虫を追いかけたことがあるが、家族4人でここに来ることはほとんどなかった。いい機会なので、4人でここを歩こうと。

散歩道の入り口で次女が言った「蚊に刺されそうでいやだ」、私はいう「蚊になんか刺されないよ」。実際、今の季節ならそれほど蚊が気になることもない。私がまっすく散歩道を歩くので、次女も最初は嫌がっていたがついてきた。途中、ミヤマナルコユリの白い綺麗な花を見たり、マムシグサの不思議な花を見て、触って...しばらくすれば子供達はそれなりに楽しんでいた。トンボやチョウを見つけては喜ぶ子供たち。オタマジャクシの大群に驚く子供たち。田んぼには少し西に傾いた太陽の光が反射して、キラキラと美しい。また私は感謝した。ここを歩けることを。

自然を大切にしよう、自然に感謝しようとよく言うが、そもそも、その、大切にしよう、感謝しようという気持ちはどこから来るのだろう?昔の人は自然を大事にしたという。それは、自然から直接恵みを得ていたからでもある。自然を大切にすることは、自分達の生活に直結していた。しかし、今、自然の恵みということは一切気にすることなく生活できる。自然からめぐみを得なくても、コンビニにあればなんでも買える。お金があれば何でも買える。だから、「お金は大事だよ~」という掛け声の方が実感がわくし、誰もが納得する。そんな生活をしていて「自然を大切に」がいかに実感が伴わないことかと思う。自然といえばアウトドアー。都会の生活そのまんまに生活できるオートキャンプ場で寝泊りすることで自然の大切さがわかるとは思えない。だったら考えなければいい。とても逆説的だが、自然なんかどうでもいいと最初から正直に言えばいいではないか。「自然を守ろう」といったとき、あなたが守るべき「自然」はどこにあるのか?実感が伴わないものは守りようがない。だったら、そんなことは言わなければいい。せいぜい都会を回すお金や経済システムに感謝すればいいではないか?何を本当に守りたいのかよく考えてみたらどうだ。それでいて「自然にやさしい生活」をしたいなどといわないで欲しいものだ。

私はそれでも自分の散歩道やその自然には感謝する。それは感謝したいことが沢山あるからだ。感謝したい体験があり、気持ちがあり、大事にしたいものがあるからである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年5月16日 (火)

ソロモンの指輪のアクアリウム

 中学の頃、コンラート・ローレンツ博士の「ソロモンの指輪」という本を読んだ。この本は自分が影響を受けた本の一つでもある。その中で、最初の頃にアクアリウムの話がある。それは、近くの池で魚をすくってきてガラス瓶の中に魚と水草を入れ、底には砂を入れる。水槽の大きさに見合う魚の量と、水草、砂、これだけで、時々ガラスにつくコケを取り除くだけであとは何もしないでもいい。この水槽の中でもし平衡状態が出来れば、掃除も必要ない。とあった。中学生の私は、これは面白いと、早速真似をしてみた。川で魚ではなく、エビをとってきて、水草に底には小石。それを外においておいたら、エビは結構長生きしたし、水が腐って異臭を放つようなこともなかった。が、いつしかボウフラが湧いてきたりして、だんだんと手がつけられなくなってきて、そのうち家族に捨てられてしまった(笑)。
 ローレンツ博士のアクアリウムは空気ポンプで空気を送ったり、餌をやったり、水を濾過したりと、現在よく行われているアクアリウムのように強制的に手を加えないところが面白いという。そうすると、「たった5,6センチしか離れていない2つのアクアリウムが数キロメートル離れた2つの湖ほど違う様子になってゆくことがある、これがものすごく楽しみだ」と。ただし、「アクアリウムの中に生じてくる生物の世界の特徴をこちらの思い通りに支配ることはある程度までは可能である。だだしそれには多くの経験と生物学的な勘がいる」と。
 この本はとても示唆に富んでいて、今でも時々取り出しては読んでみるが、そのたびに何か発見がある。生き物の奥深い世界を知り尽くしている人が書いた本だから、実は一語一句、深い意味があるのだと思う。このアクアリウムの章だけでも、あらためて読み直してみると、凄いことが沢山かいてある。
 何故に今こんなことを思い出したかというと、ある人が、その人はどうも野草が好きな人のようであるが、きれいな花をつける野草を食い荒らす虫がいるので、どうにかならんか?というようなことをいっていたからである。それは、たとえその虫がどうにかなったとしても、それをなんとかすることで、その虫退治が周辺の自然にどういう影響を及ぼしてどうなっても知らんよ!と思って、このアクアリウムのことをちょっと思い出したのである。小さな里山にしても一つのアクアリウムよりは相当に複雑な世界だから、そのことを全て理解して予測して自然に手を加えるなんてことはかなり難しいはずだ。ある程度、再現性のある方法で、こうすればこうなる可能性が高いとはいえるかもしれんが、それでも毎日が実験、試行錯誤ものだと思う。まあ、大昔から人々は試行錯誤してきたはずであり、その中で経験が積まれ伝統が生まれてきたのだと思う。まあ、せいぜい、その、気に入らない虫を見つけたら手で潰す程度であれば、たいしたことにはならんとは思うが...

それより、もっと大変なことを、今、人々はいとも簡単にやろうとしているのではないだろうか?わからないことはないものとして、なんでも出来ると思い込んでいるのではないか?私はそれが気になってしかたない。絶対に出来ないというわけではないが、ローレンツ博士はアクアリウムでは「ある程度は可能である」といっている。しかし、たかが小さなアクアリウムであっても多くの経験と生物学的勘が必要であるとも...では、そこで、我々は何をしなくてはならないかということを考えてみるべきだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 8日 (月)

日本砂漠化プロジェクト最前線

Kaihatsu ここにあるのは2年前の写真である。うちの近所の自然公園に隣接する土地を開発している光景である。驚くかもしれないが、これはその自然公園から撮った写真である。自然公園は当然ながら、そこに豊かな自然があるので、公園になっているわけであるが、何も、その公園の敷地があれば豊かな自然が保てるのかといえば、そうではないだろう。しかし、公園のそばはきれいに林が切り取られ、さらに土地を削っているのがわかるだろう。右側にはるか向こうに広がる広大な土地が全て開発されたのである。ずっと向こうに住宅が見えるが、かつてはあの住宅もなかった。それはほんの十数年のことであり、そこから手前に広がる広大な砂漠はほんの数年で広がった。この土地が今どうなっているかはまたここで報告することにしよう。

私はこの地に十数年前にやってきた。いってみれば新参者であるが、その新参者にとっても、この十数年間のこの周辺の開発の勢いは凄まじいものがある。人口は確かに増えているのであろうが、かといって、これらの開発がすべて順調であったとは言いがたいし、現在も順調であるとも言いがたい。数々の破綻もあったし、そもそも計画時点から破綻が目に見えているものもあった。にもかかわらず、現在も開発の速度はそれほど衰えているとは思えない。実際に開発最前線を見ていると、ほんの一瞬にして砂漠が出来上がる。何故か開発というとまず砂漠を作る。「季節折々の花が咲く緑豊かな街」などというキャッチフレーズで売り出し中の土地も、そもそも、豊かな自然があったところを一旦砂漠にして、そこに花などを植えているだけなのである。花を植えていい具合になったころに、そこを売り出すのであり、そうすると、その土地を見に来た人はその前の段階の惨憺たる砂漠を見ることもなければ、さらに前の段階の自然を見ることもない。

砂漠が出来る速度は物凄く速い。これがどのくらい速いかといえば、一ヶ月すれば山が一つはなくなる。一日で野球が出来るくらいの広さになる。そのくらいの速さである。これは尋常ではない。そして、一瞬にして出来た砂漠は大抵、数年は放置される。もっと長いところでは10年以上放置されていることがある。その間に草などが生えてきてサバンナ状態になる。サバンナ状態になった場所をまた一旦砂漠にしてそれから売り出す。しかし、それもまた放置されたままで、ほとんどがまた草ボウボウになる。そうするとまた、それを削って砂漠にして、土を入れ替える。そういう何段階もの放置と破壊の繰り返しの末にようやく人が住む。その間に、周辺にはそこの砂漠が風化して出来た細かい砂が飛ぶため、強い風が吹くと砂埃で凄まじいことになる。放置の間も砂漠をどんどん広げる。砂漠工事現場には大型のダンプが頻繁に行き来し、もともと道路が狭い元からの街は歩くのも危険を感じるし、実際に交通事故も発生し、犠牲者も出る。ここから運び出された土はまたさらに、残土としてわずかに残った自然の谷を埋める。

これが必要な開発だという人がいる。生きるには必要だという人がいる。こんな急激な破壊が必要なことだという人がいる。何千年もこの狭い島国に生きてきた我々日本人。わずか数年で日本人はこんなに急激に増殖したのか?わずか数年、こんな速さで破壊しなければ生きていけないのか?この速さでいけばあと何年で日本が一杯になるのだろう?住むところ、商売するところ、それだけでいいのだろうか?食料は?空気は?水は??伝統は?地域文化は?自然は?人の心は?どこからやってくるのだろう?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年5月 2日 (火)

子供に環境教育...出来るの?

先日、うちの娘(小学校6年生)が宿題を持って帰ってきた。なんでも「環境問題」について調べるのだそうだ。といっても、「環境問題について調べなさい」という宿題があったわけではなく、自由テーマでグループ発表をするらしく、娘のグループは「環境問題」について発表しようということになったらしい。結局どういう発表をしたのか定かではないが、調べたという資料を見てみたら、案の定「リサイクル」だった。

実際、現場でどういう教育が行われているかわからないが、子供に環境問題をというとすぐに「リサイクル」という方向に行き、そのために廃品回収をするとか、それならまだましな方で、酷いのになると「牛乳パックで工作」という話になってしまう。「牛乳パックを利用してウチワを作りました~」ってのが、かの「愛知万博」で、大の大人がマジメに展示してたくらいだから、当然そんなレベルになってしまう。

「あなたの家では、一年で牛乳パックをいくつ消費しますか?」「それを全部ウチワにしたらどうなりますか?」

というごく簡単な質問で撃破されてしまうようでは「環境にやさしい」どころか「環境に情けない」と思う。まあ、いまだにそういうことをしてはいないとは思うが...

そもそも、環境「問題」というなら、何が「問題」なのかをまず見せるべきであろう。自然破壊がいけないというのなら、その「問題意識」はどこから出てくるのか。少なくとも、自然というものがどういう風にあって、人間がどうかかわっていて、何がどう問題なのか?ということを考えることからスタートすべきである。

ただ、そうすると、多くの大人がしていることに疑問を持たなければならなくなる。教育の現場としては余計な疑問を持ってはいけないのだろう。当然、先頭切って破壊を進めている大人が子供の親であるかもしれないのだし。だから、今そこでやっていることはとりあえず置いておいた上でなんとか取り繕うというのがまさに「リサイクル」ということであるから、とりあえずそこに目を向けさせる(他に目を向けさせないで)というのはある意味納得がいくのではある。それより簡単なことは学校のまわりを見渡せばいくらでもころがっている筈だ。娘の通う学校は、まわりに自然が残っている反面、通学路には残土埋め立て現場もあるし、大規模宅地開発現場も河川の護岸工事もみられる、考える材料はいくらでもある。それらはまたとない教材だと思う。何も考えていない大人より、そんな中で子供たちは敏感に何かを感じているかもしれないとも思うのだが...

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »