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2006年4月20日 (木)

花よりダンゴ、花より自然

散歩道ブログ、しばらく間があいてしまった。少々多忙な日々を送っていた。私の散歩道の自然を広く見てもらう機会が近々あり、そのための準備を進めていたのだ。

さて、気付いてみれば散歩道の道端にはいろんな花が自己主張をしている。春先は黄色い花が多いが、黄色い花があちこちにあると、それがなんとなく春を感じさせる。上を見ると、木々がそれぞれに芽吹いている。里山の木々はそれぞれ芽吹くときの色が微妙に違う。それがまだら模様となっている。そのまだら模様は日々変わっていく。新緑というと、みな薄い黄緑を連想するかもしれないが、実際にみていると、様々であり、白っぽい芽、茶色っぽい芽、真っ赤な芽、などなど色々ある。それが日々変化して色が少しずつかわっていく。それは遠くから見てもわかり、季節が進んでいることと、木々がたくましく生きていることが実感として感じられる。

やがて木々の葉が出揃うと、冬の間は明るい森だった里山の森は、木の葉の陰で覆われるようになる。そして、ゆれる木漏れ日は春の黄色い花にゆるやかに動く影をつくり、その陰の中をアブやハチやチョウが飛ぶ。ウグイスやシジュウカラが鳴き、田んぼにはカエルの声、水の上にはアメンボが泳ぎ、水の底には無数のオタマジャクシが跳ねる。カエルを狙って空にはサシバが舞い、地面にはトカゲやカナヘビがチョロチョロと走る。そしてシマヘビやヤマカガシといったヘビたちも出てくる。その風景、その音、その香り、その肌に感じる風、その全てが私の散歩道の春であり、そのどれか一つがかけてもそれは違うものになるだろう。やがてキンランやササバギンランも花をつける。とくにキンランは盗掘が多く、見にいくたびに「今日は無事だろうか?」とドキドキする。なくなっているとガッカリする。花が終わるまで残っていれば胸をなでおろす。花が終わったものを持っていく人はまずいないからだ。もっとも、花が終わったものを見つけられればであるが。

花を持っていく人は花のまわりにある全ての自然を感じているだろうか?花しか見えていないのではないか?いや、もっといえば花が咲いた時の花だけである。庭に植えた花の種でさえ、芽が出て、花が咲くまでの過程があろうし、それは育ててみればわかろう。一生懸命花を育てている人の鉢植えを割ったからといって、花屋でそれより立派な花を買ってきて、はたしてその育てた人は許してくれるだろうか?そこには過程があり、時間の流れがあり、それは単純に値段、見た目、そういったもの計れないものがあろう。それとは若干違うが、自然の中の花は、自然がそれを育て、あるいは自然の中でたくましく生きているのである。自然の一部として存在しているのである。そういう花というものをまったく想像すらせず、単にアクセサリーが落ちていたとでもいうかのごとく、持っていく。

その時期にその場所にしか咲かない花。それは確かに大事なものであるが、それはその自然の風景のほんの一部、ほんの一瞬の出来事でしかない。花を持って帰っても、大事に育てているからよかろうなどと考える人があれば大きな間違いである。自然の中の全てのもの、時の流れを含めて、それが自然であり、それがその場所の花を育て、その中で花は一生懸命生きている。それが自然なのである。その一生懸命生きている花の姿や、それを育む様々なもの、花を訪れる虫たち、花に影を落とす木の葉...五感を使って自然の中の空間を、自然の中の時間を感じていれば、自然の中での自分のまわりのもの全て、それこそが自然だと思うのであって、花だけ持ってきても、それは手間のかかった料理のスパイスだけを持ってきたに過ぎないと感じる。それだけを食べても美味しくないのだ。しかし、スパイスを持っていかれてしまえば、料理の味が台無しになる。普段からスパイスだけを舐めている人にはそんなことわかるはずもなかろうが...

まあ、もっとも「花よりダンゴ」なのであれば、なんの関係もない話だろうが、そうもいかないのは花に値段がついたりするからか。

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