トップページ | 2006年4月 »

2006年3月27日 (月)

時の流れを考える

今住んでいるこの地に移り住んで来てからもうじきまる13年。初めて来たのは初夏の頃だった。それまでは東京の下町に住んでいた。そんな都会でも、わずかな自然を求め、よく歩いたものだ。江戸川の近くだったから、江戸川の河川敷や、あるいは矢切の渡しをわたった向こう側、そこも千葉県だが、そのあたりをよく散歩した。13年前、これから住むこの地の、駅に降り立ったとき、圧倒的な自然の力を感じた。なにしろ、歩けば道路を昆虫が横断しているし、チョウが舞っている。小鳥はさえずり、緑が香る。

以前は東京の下町、しかも幹線道路のそばに住んでいたせいか、当時、ずっと体調が思わしくなかった。そして、この地に越してきて、まず体調が変わった。とても元気になり、いろんなことに意欲が湧いてきた。朝はウグイスのさえずりで目覚め、夕方はヒグラシの声をきく。休日には自転車でアップダウンの激しい丘陵を、汗をたらしながら、耳が遠くなりそうな蝉時雨の中を走ったものだ。

その時はあまり気付かなかったのだが、周辺の開発は進行していた。ただ、まだそれはずっと遠くにあった。やがて、近くの山をことごとく切り崩し、平らにしている光景がいやでも目に入るようになる。宅地造成だが、当時まだほとんど誰もすんでいない造成地にいってみたら、沢山のキジが走り回っていたのがとても印象に残っている。造成地は、これでもか、これでもかと増え続け、砂漠が広がっていった。もうここで終わりだろうと思っていたら、さらに拡大する。そうして砂漠はどんどん増えていった。気付いてみると、家のまわりでも沢山さえずっていたウグイスやホトトギスの声はうんと遠くなり、ヒグラシの声もかすかになった。秋の夜道で圧倒されるほどに鳴いていた虫も、いつのまにか弱々しくなっていた。

思えば、私はわが身を削られるような思いをしてそんな光景を見ながら長い間なんにも出来ないでいたのだった。いつものように散歩道を歩く。おそらくずっとずっと昔、私がここにくるはるか昔から、この道を歩き、ここで生活していた人がいたこと、それよりも、ずっとずっと昔からここで生きてきた生き物たちが沢山いること。歩きながら、自然とそれを感じていた。

里山には小さな神社が沢山ある。それを一つ一つめぐるように歩いてみたこともある。すっかり忘れ去られたようなものもあれば、今でも人々の生活の中にわずかながら生きているものもあった。里山はそこでくらす人の文化でもあった。それが、何のためらいもなく削られていく。やがて神社が、丸裸になり、砂漠の中にポツリと取り残される。計画した主はそこに神社という建物を見ているだけで、そこにはるか昔から生活している人々のこと、そこに御神酒やお供えを持ってやってくる人々のこと、そうして昔から少しずつ変わりつつも続いてきた時の流れのようなものを見ることはない。まして、そこにずっとあった自然など見えるわけがない。

そうして、砂漠になった土地に、砂漠になったずっと後から来た人には、そんなことは知り得ない。残された里山やそこにある自然や文化、人の生活の貴重さ。それは、かつて、ずっとずっと広く、ずっとずっと力強かった。もし、その頃の記録、少なくとも写真に撮っていればと悔やまれる。だから、今、こうして残された自然や人々の生活を記録に残したいのである。

私がこうしてささやかながらも記録に残していると、それを目にする人もあり、近くに住んでいながら、「知らなかった!」という人や「なにやら自然が豊かでよいところがあるそうだ」という人も出てきた。是非、身近にある風景をよく見て欲しいと思うが、同時に、今残っている自然や人々の生活が、かつでどうであったか?その時の流れも感じて欲しいと思う。それが、これからそれがどうなっていくのか?という想像にもつながる。だから、我々はどうするのか?ということを考えられれば。Sabaku10511_1

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2006年3月26日 (日)

カエル合戦

先日、久しぶりに散歩道にいってみたら、ヒキガエル(アズマヒキガエル)のカエル合戦が最盛期だった。カエル合戦というのは、いわゆる繁殖行動である。オスがメスをめぐってすさまじい争奪戦を繰り広げる。

ヒキガエルは普段あまり目にしないが、年に一度、このカエル合戦の時は一斉に水辺に出てくる。カエル合戦はわずか数日間で終わる。毎年ほぼ同じ時期だが、何の合図かみんな一斉にやってくる。もし、あなたがカエル合戦のことを何も知らずにそれを見たのなら、その水辺には沢山のヒキガエルが棲みついていると思うことだろう。しかし、数日後にいってみるとその姿がまったくないことに驚くことだろう。本当にお祭りのように、やってきて大騒ぎをし、祭りが終われば一斉に山に戻る。彼らは、こういう生活を、おそらく人間が地球に登場するはるか以前から繰り返してきたのだろう。そういう長い時間の流れを考えると、彼らは大先輩である。その時の流れからすると、ごく最近登場してきた我々人間の勝手な行動を彼らはどう見ているのだろうか?といつも考えてしまう。さらに現代人となれば、ついさっき登場してきたばかりの新参者である。

こうして産卵した卵はすぐにオタマジャクシになり、わずか1ヶ月ほどで上陸する。ヒキガエルの成体はこんなに大きいが、上陸したてのヒキガエルは豆粒ほどに小さい。しかし、その数たるや物凄い数だ。上陸したばかりのところを見ると、少し大きなアリの行列を見ているようでもある。上陸した彼らを狙って、ヘビなどが待ち構える。上陸したてのチビはすぐに姿が見えなくなる。もっとも、小さすぎて、バラバラにいても見つけるのが困難なのではある。夏がすぎた頃に、コオロギくらいの大きさにまで育ったヒキガエルに山の中で会ったことがある。どこに行ったかわからないけれど、確かに育っているのだ。

私が彼らをざっと観察して知ったのは、まだこれだけだ。まだまだ知らないことは沢山ある。彼らがどこでどうやってあんなにまで大きくなるのか?何年くらいであのカエル合戦に参加出来るほどになるのか?何を合図に一斉にカエル合戦に集まってくるのか?などなど、考えれば謎はつきない。だが、彼らは彼らなりに長い長い時の中で自然の中での役割を果たし、自分達の世代交代をこうしてしっかりまわして人間よりもはるかに長い時をここで生きてきたのだ。

そんなこと、全て理解出来るはずもない。しかし、人間、理解出来ないものは無いものと思うのかもしれない。彼らの生活する環境を何も考えることもなく平気で潰して砂漠に変えてしまうような人間がいかに愚かなものか、考えてしまう。年に一度、カエル合戦の時以外はほとんど姿を見せない彼らがここで生きていることさえ知らない人ばかりなのだから。Hiki20060321

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月19日 (日)

自然と人間

よく、自然を保護するというと、「自然を守れば人間の生活はどうでもよいのか?」というようなとても陳腐なご意見を拝聴することがある。どうも、自然と人間は相反するもののように考えている人も多い。「私はそうは思わない」というのだが、そうすると、なんだかよくわからなくなる人もいるようだ。そもそも人間も自然の一部である。人間が自然に与えている影響は計り知れないし、同様に自然が人間に与えている影響も多大である。だが、多くの人はそれを忘れている。

都会の生活では、自然というものを意識することはほとんどないのかもしれない。だから、自然というのはどこか遠くに出かけていかなければ見ることの出来ないものという固定観念があるのだと思う。都会に住んでいる自分のごく身の回りにも沢山の生き物が生きていて、人間社会と密接にかかわりあっていることを知らないでいる人が多い。だから自然のことを考えてみようといっても、それがどこか遠く離れた場所での出来事であって、都会に住む自分達には関係ないと思っているのかもしれない。

最近、「地球にやさしい」という言葉がはやっている。この「地球」というのが大きすぎて、それが、どこか絵空事のように感じてしまっている面があるのではないか?それは、私にはとても「まやかし」の言葉、自分達のしていることを正面から見ないで、なにか遠い場所の出来事のことのように思うことで、ごまかしているようにしか思えない。

子供達に「地球にやさしいことをしよう」というと、すぐに「リサイクル」という。それが本当に地球にやさしいのか否かという点については、大人はまったく考えさせない。それは自分自身が考えてないからでもある。リサイクルをしさえすれば、どこか遠いところに住む自分とは関係ないけど「かわいい」生き物が困らなくて住む。そんな風に考えさせるように仕向けてはいないか?いや、自分自身、そういう考えに仕向けられているのではないか?それでいて、身近にいる生き物を平気で殺虫剤を蒔いて殺したりする。

別に殺虫剤が全て悪いといっているわけではない。人間に危害を加える生き物がいて、それと戦うこと、これも人間と自然のかかわりである。しかしながら、生き物は繋がっていて、自分が殺虫剤を蒔いて生き物を殺したことが、どんな風に自然の中で影響して、どういう風なことになるかということを考えもしない。

自然の真の姿を知ることは非常に困難なことであり、人間の頭で考えるには非常に難しいので、人間はそれを単純化するために、人間は一生懸命である。川が氾濫すれば、一生懸命コンクリートで固めるし、山を削って平らな砂漠にしておいて、そこに住んだりする。これはある意味、自然の中における人間の特性だと思うが、その特性そのものが人間社会であり、それに当てはまらないものが自然であると考えるならば、自然対人間という対立軸が生まれ、人間の文明は自然を破壊して生きるものであるということをさも当たり前のことのように思ってしまう。そういう考えからすれば、自分は人間なんだから、人間として生きているのだから、自然など知ったことか、自分が生きるために自然を破壊して何が悪いということになろうが、そもそも、自然に影響を与えずに生きている生き物なんて、世の中にいるわけがない。

近所の人に、身近な自然の中に生きる生き物をいいタイミングでお見せすることが出来れば、多くの人が驚く。こんな身近にこんな自然があったのかと、毎日のように歩いていた道端にこんなにも複雑な自然があったのかと驚く。そこに気付くことが自然を理解することの最初の一歩なのではないかと思う。自分が今、道端に捨てたゴミを数時間後に見れば、アリがたかっているかもしれないし、ハエがたかっているかもしれない。それは無から湧いて出てくるものではなく、そこに最初からいて、いま、あなたがゴミを捨てたことで自然が動いたということではないのか?

そういう全てをとりまく自然があって、その中の微妙なバランスがあって、綺麗な花も咲くし、いろんな鳥の声も聴こえるのではないか?複雑な自然が織り成す山を平らにして砂漠にして花を植えても、植えた花は咲くが、それには肥料をやったり、他の草を刈ったり、殺虫剤を蒔いたりしなければならない。そんなことをしないでも自然の中でいろんな花が咲いていることはどうしてか?鳥かごの中に餌を置いておかないでも、太古の昔から今まで、鳥がさえずっていること、それはどうしてか?と少しは考えてみてはどうか?そんな自然があって、人間もその中で生きている場所があるということだ。

そんなことを忘れて、人間が頭で考えた仕組みだけの世の中にしてしまうとするならば、そんな全てをコントロールできるほど人間は賢くはないので、人間の考えに誤りがあれば、それは破綻をきたすことになる。自然は人間が頭で考えられるほどの単純な仕組みでなりたっているのではない。そこが問題なのだ。その点を忘れて、たとえば、人間が考えた「リサイクル」などという仕組みだけを追及していくと、それが破綻した時、何が起きるのかは予想がつかない。それが問題だと思う。

その昔、人々に毎年大きな被害をもたらす台風を消してしまうことを研究すれば、それが明るい未来をもたらすと信じた人がいたようだ(確か、大阪万博にはそんな展示があったらしい)。そんなこと、今時、だれも思わないが(中には思っている人もいるだろうけどさ)、今、我々がやろうとしているリサイクルだって、地球にやさしい生活だって、ずっと未来からみたら同じくらい馬鹿馬鹿しいことに思えるかもしれないということは考えたことがあるだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

花見

桜の季節が近づいてきた。今年は例年になく冬が寒かったからか、我が家の梅は今ちょうど満開を迎えようとしており、梅が終わったころにちょうど桜が咲き始めそうだ。

電車の中吊り広告に旅行者の広告。各地の桜の名所の写真と解説があった。桜を求めて遠くまで出かけていく人も多いのだろう。大きなお世話かもしれないが、この桜の季節に、桜「だけ」を見ているとしたら、なんとももったいない話である。丁度桜が咲く頃に自然の中に少し足を踏み入れれば、いろんなものが見られるというのに。

私はなにも桜が嫌いなわけではない。公園に植えられたみごとな桜、それはそれで素晴らしいと思うし、お花見も嫌いなわけではない。長い冬、静かな冬を乗り越え、桜の咲く季節になった開放感もあり、桜の花の下で酒を飲んだりするのもまたよいと思う。

それはそれで、人里の話、都会の中の公園の話、庭園での話しである。これが野山に咲く野草となれば話はまったく別となる。

よく、花の名所というのだろうか?珍しい花が見られる場所というのが有名になっていたりする。私自身は何故かそういう場所というものをほとんど知らないので、実際に行くこともない。だが、世の中、そういう場所に延々と遠くまでカメラやら三脚やら重装備をかついで行き、花を見て、写真を撮って帰る人がいる。そういう人たちを見ると、この人たちは一体なんなのだ?と思う。先日も、どこやらでフクジュソウが沢山咲いているというのがテレビのニュースになっていた。なんだか知らんが、フクジュソウを守る(?)会だかなんだか、そんな人たちがフクジュソウを「植えて」「育てて」いるらしい。そこにみんなして大勢出かけていって、「ああ、フクジュソウはきれいだな」などといって見ている。なんだか知らんけど、大きな三脚に、たいそう高価なカメラを持ってきてフクジュソウを「どアップで」写しているジイサンがテレビにうつっていた。ご苦労なことである。「植えて」「育てる」人たちも、わざわざはるばる見にくる人もである。

結局、花を愛するといいつつ、まったくそれは「うわべ」のことであって、「花壇の花」と「自然の野草」の違いもこれっぽっちも理解しているとは思えない。自然の野草が花を付ける季節に、その「花」だけを見にいって、まわりにあるその花を育んでいる自然、自然のめぐりの中で様々な生き物たちとかかわりあいながら、生きている「野生の花」の存在などというものをまったく見ていない。鉢植えだろうが、誰かが植えた花壇だろうが、そんなことは関係ないのである。自然といったって、彼らにはたんなる花の「背景」くらいの話でしかない。だから、花を見にいって平気でゴミは捨てるし、踏み荒らすし、野草を持って帰ろうとする。結局、自然全体を見ていない単なる「花オタク」である。そういう人は自然を愛するなどということはこれっぽっちも頭の中にはないのだろう。「花」を見ていても、自然を見てはいないからだ。花に限らず、単なる物珍しさだけで、自然の中のある「もの」だけを見ようとする人はまったく同じことである。鳥でも動物でもだ。そんな人は植物園や動物園に行けば充分である。Sakura20050409

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月12日 (日)

愛護と保護

いつだったか、地方のある新聞におかしな記事が載っていた。その地方では、白鳥が沢山飛来する湖があり、そこに多くの人がやってきて、白鳥に餌をやっている。しかし、最近、白鳥以外の水鳥が増え、白鳥に餌をやろうと思っても、他の鳥にほとんど食べられてしまうという内容だった。まあ、事実は事実としてよしとしても、どうもそのおかしな論調が気になった。それは、「せっかく遠くから白鳥を目当てにきても、他の鳥ばっかりである。おまけに、餌をやろうにも他の鳥にばっかり餌が取られてしまい、白鳥に餌をあげられない」と。これが白鳥が沢山飛来する地元の人の一般的な意識なのであろうと私は思った。当然、記者は地元で取材しており、地元の人にインタビューしているのだろう。それで、地元の人がそんな風にいえば、記者は「はあ、そうだよなあ。困ったなあ」と思ったのであろう。地元の人にとっても記事を書いた記者にとっても、白鳥はペットであり、あるいは観光資源である。それだけだということだ。白鳥が野生生物であり自然の風景であるという観点は皆無であるし、もっと言えば、自然の風景としての白鳥も動物園の白鳥も、外にいるか中にいるかだけの違いでしか見えていない。それに、白鳥以外の鳥は、観光資源にもならず(要は金にならねえから)どうでもよいという意識すら見える。

白鳥は渡り鳥である。かなり遠い距離を延々と飛来するのである。途中、休む場所もあり、そこで餌をとったりする。しかし、最近どうも途中で餓死してしまう白鳥がいるらしい。それは餌付けが原因と思われる。つまり、餌付けになれてしまったので、人間が餌をやらなければ自分で餌がとれずに餓死してしまうというのである。極端な話をすれば、白鳥に餌をやって白鳥を餓死させているのだ。これをどう考えるのか?

おそらく、湖で白鳥に餌をやっている人々のほとんどがそんなことは一度も考えたことがないだろう。動物園の白鳥に餌をやるのとまったく同じ感覚で、「かわいいから、餌をあげたい」と思って餌をやっている。白鳥が餌を嬉しそうに食べれば、なにか白鳥にいいことをしてあげたくらいの感覚であろう。まさか自分が餌をやったことが白鳥を餓死させることになるとは気付くこともなく。

以前、ペットの動物と野生動物の本質的な違いを理解して、それぞれに接しているだろうか?と書いた。この白鳥の件は理解していないということの例である。ペットをかわいがるのと同じように野生動物に接することが問題を発生させている例である。別にペットと野生動物のどちらが偉いというわけではない。ペット動物は人間が育て、生かしているものである。だから餌をやらずに放っておけばそれは問題だ。しかし、野生動物は自然の中で自分で生きているのであり、自分で生きられなければ死んでしまう。簡単にいえばこの違いである。そのことを考えてみれば、野生動物のためには何をすればよいのかということが見えてこないか?本当に野生動物のことを大事に思うのであれば、単純に餌をやるのではなく、安心して餌が取れる環境を守ること、これが大事であることに気付く。こういうところから、自然を大事にしなければならないという気持ちが生まれるのではないか?これが保護ということであり、その生き物だけを人間の手で餌をやり育てるのであれば、それはもはやペットであり、その行為は愛護かもしれないが、けっして保護ではない。その理解がないから、白鳥が餌をとれる場所を平気で破壊しておきながら、餌をやるという矛盾した行動が生まれる。

時に、野生生物は自然の中で淘汰され、死んでしまうこともある。しかし、死んでしまっては意味がないわけではない。アカガエルなど、あんなに沢山の卵があっても、上陸できるのはほんの一握りにすぎない。しかしながら、卵から上陸するまでをずっと観察していると、その死んでいったオタマジャクシたちの死というものがしっかりと意味を持っていることがわかる。そういうことも含めて、自然の生き物を見て、考えて、接しているだろうか?私は私の好きなアカガエルが死んでしまうからといって、それが自然の死であるかぎり手助けはしない。なぜなら、Shimetsu20050402 自然を見つめていれば、死にも意味があることがわかるからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月11日 (土)

キンラン

毎年、新緑が芽吹くころ、楽しみにしているものがある。私の大好きな花、キンランが咲くのだ。数はそれほど多くはない。毎年、少しずつ場所を変えながら、それでも確実に花をつけてくれる。

毎年、花が咲く少し前からキンランを探しにいく。家の近くにも生える場所があるが、とても限られた場所にある。つぼみをつけているのを見つけると、いつ花が咲くだろうかとそればかりが気になる。丁度、シュレーゲルアオガエルのカカカカッという声が響き、ウグイスがさえずり、キンラン以外にも沢山の様々な花が咲き、一年で最も美しい季節だ。

毎年、キンランの株を見つけた時、心配になることがある。それは盗掘だ。キンランは盗掘に遭うことが非常に多い。比較的目立つ場所に生えるものは、花が咲くとすぐに持っていかれる。まず3日ともたない。だから、心配でしょうがない。株を見つけたら、隠したくなってしまう。キンランを見にいくのに、ドキドキする。今日はもう持っていかれているのではないかと。そして、昨日まであった場所に見つからなかった時は本当に落胆する。今年も持っていかれてしまったかと。

そもそも、キンランは持っていっても栽培できるものではないし、庭で増やすなんてことはまず不可能だ。ランの仲間であるキンランは、土の中の菌と共生しているので、土の中の菌がいないところでは、栄養供給が絶たれる。キンランの栽培が困難なのはそれだけではない。いちいち説明はしないが、様々な複雑な生き物の絡み合いがなくては生きられない植物なのである。あの美しい姿を身近に置いておきたいと思うのかもしれないが、それは一時だけのことでしかない。

そもそも、何故に自然の中に生える野草を持って帰って庭に植えたいと思うのか?というところが問題だと常々思っている。もっとも、栽培品種にはない美しさと気品を感じるというのは理解出来る。しかし、これはあくまで野生の植物なのである。前にも書いたが、花壇の花と野生の草花に対する根本的理解がない。

花壇の花は人が育てることによって花をさかせているわけであるが、野生の花を咲かせているのはその花のまわりにある自然なのである。その自然に目を向けてみてはどうか?キンランが咲くのは本当に一年で一番美しい季節。木々が香り、新緑が芽吹き始め、春の日差しが木々の枝の間から注ぐ、様々な鳥がさえずり、虫の羽音がきこえる。春になり、自然の力がどんどん盛り上がってくるのを感じる季節だ。その中で、美しい花を見ることが出来る。それは自然の中の一つの点であり、自然自体は面であり立体である。

自然観察をするといっても、単なる宝探しになってしまうことが多い気がする。こんな珍しいものがあった、こんな美しいものがあった、それはそれでいいのだが、それを育んでいる自然と、そこにある生き物のめぐり、様々な生き物が少しずつかかわりあいながら、助け合ったり戦ったり争ったり、そうしながら、少しずつ風景を変えていく、ダイナミックな自然というものを感じてはどうか?まずは自分の五感で自然を感じてみてはどうか?あなたが自然の中で美しい花を見つけた時、あなたのまわりに五感で感じる自然そのものがその花なのである。このことを感じることが出来れば、持って帰ろうなんて気にはならないと思うのだが...Kinran20050505

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年3月 9日 (木)

何故自然を見るのか

「自然を守ろう!」などというスローガンは最近はよく目にする。しかし、それじゃあ、守ろうとする自然は一体なんなのだ?どこにあるのだ?と問うてみると、そんなスローガンを掲げている人ですら答えられないことは多いと思う。じゃあ、守るためには何をする?

「エコ」という言葉は一種の流行りモノであるが、これはエコロジーのことを言っているのか?エコノミーのことなのかもわからないのではないか?そのようなまやかしだらけの世の中に気付くべきである。

私は身近にある自然とその風景が好きだった。いや、今も好きなわけである。その自然が急激に失われていくことに漠然と恐ろしさを感じていた。何とかしたいと。しかしながら、人々の世の中の流れはその破壊されていく様子こそが「自然」なのであって、広大な自然がそこに残っていることが「不自然」であるかのような風潮があった。友人と近所の自然の中を歩いて、当然のことのように友人がつぶやく。「こうしてここで自然の中を歩いたということも、何十年もたったら、誰も信じないような世の中がくるんだろうな」と。

さて、それで私はその自然を守りたいのである。だが、そこに何があるのか知らないではないか?漠然と、色々な生き物がいて、様々な生き物の営みがある、そういうことは抽象的に知っていても、実際に見たことがないじゃないか?そう思った。だから、見ることから始めた。そこは私の予想以上に凄い世界が広がっていた。

自然を見ること。これは大切なことだと思う。都会で生活していると、一生を人間が作りだしたもの、作り出した仕組みの中だけで生きてしまう。まるでそれは動物園の動物が餌を与えられ、狭い檻の中で生きているようにだ。それが当たり前になってしまう。自然の凄さを知らないままに、自然を無意味に破壊していく。破壊しても気付かないのだ。見えてないのだから。

自然というのは、遠く人里離れた場所にいかなければ見れないことはない。身近なところにも、都会にだって、よく見れば自然は存在するし、野生生物は生きているのだ。みんなそれに気付かないで生活している。

だから、自然を見ること、ここで私がいくら言っても、おそらく以下のことに答えを持たない人にはわからないのではないかと思う。いろんな人に自然は見てもらいたい。しかし、自然の中でひっそりと、しかし力強く生きている美しい花を、持って帰って庭に植えるような人は自然が好きだといいつつ自然をこれっぽっちも理解はしていない。例えば、

ペット動物 ---- 野生生物

花壇の花 ---- 野生の草花

どちらが価値があるというんではない。その本質的な違いをわかって、それぞれに接しているだろうかということだ。そういうことがわからない人は、ここに載せた写真のように、自然を破壊して公園を作り、さらにその中にビオトープを作ったりする。その矛盾に気付かない。Sabaku30511

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月 6日 (月)

カエルの抱接

先日、私の観察フィールドである散歩道の田んぼに行ってみたところ、大量のニホンアカガエルの卵塊を見ることができた。先週まではほとんどなかったから、一週間の間に産卵したのだろうが、一つの田んぼに100個以上の卵塊を見ることが出来た。

産卵するというのは、当然、交尾するわけであるが、カエルの場合は抱接といわれる。ニホンアカガエルは雨あがりの夜に行われることが多く、なかなか見ることが難しいが、それでも、シーズンの夜に行って見ると、昼間は姿が見えなかったニホンアカガエルの姿を沢山見ることが出来る。日が暮れるとともに、どこからともなくやってくるその姿を見たり、暗闇に響く神秘的なカエルの声を聞くと、それは太古の昔から延々と続いてきた自然の営み、命を繋ぐための営みであり、時の長さや、生命の神秘を感じて、感動する瞬間である。

ニホンアカガエルの場合は夜だが、ヒキガエルの場合は昼間でも抱接しているので、比較的簡単に見ることが出来る。ヒキガエルはほとんど一週間くらいの間に一斉に産卵場所の田んぼや沼にやってきて、凄まじいカエル合戦を繰り広げる。オスは動くものとみるとなんでも抱きつき、とにかくメスに抱きつこうとする。しかし、間違えてオスに抱きつくと、抱きつかれたオスが悲鳴を上げるので、すぐに離れる。しかしまた、その抱きつかれたオスが動くもんだから、また抱きついていたり、少々こっけいな光景も見られる。無事メスに抱きついたと思っても、それを横から奪おうとするオス。とにかく凄まじい光景が展開される。

さて、先日、自然についてのある記事を執筆する機会があった。そのなかにヒキガエルのカエル合戦のことも書いたし、オスとメスが抱接している写真も提供した。ところが、それがどうも「検閲」にひっかかってしまった。「子供が見る可能性があるのに、これはいかがなものか?」というわけである。それをきいたとき、一瞬耳を疑ったが、そんなことを言う人を説得するのは時間の無駄だと思えたので、「どうぞ、その部分、写真も含めて削除してください」といった。

ヒキガエルたちよ、怒れ!君達の真剣な生命の営みを、こんな風にしかとらえられない人間がいるのだぞ。

こうして沢山産卵された卵、それからオタマジャクシになり、ヒキガエルはすぐに手足が生えてちっちゃなちっちゃな姿で陸に上がる。それはその時期、水の中は天敵が多く、危険だからだ。だからとにかく素早く足を生やし、陸にあがる。たった1ヶ月ほどの間だ。しかし、それでも、多くは色々な事情で命を落とす。そして、立派に育ち、次の命に繋げるためにここにやってきてカエル合戦を繰り広げることが出来るまでに、どれだけの苦難があったことか。ここでこうしてカエル合戦をしている間でも、天敵は空から狙っているかもしれない。それでも、次世代に命を繋ぐために、ここにやってきて、こうして争い、そして子孫を残す。やがて自分たちは死んでいく。でも、こうして産み落とされた沢山の生命が、また、次の生命へ、そしてまた...そうして自然の中の生命はめぐっているのだ。Hikigaeru01

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 5日 (日)

花粉症

うちは家族そろって杉花粉症だ。先週までは、あまり花粉が飛んでいなかったようで、今年は薬を飲まないでもなんとか過ごせそうだと思っていた。しかし、それはあまかった。

一週間ほどのぐずついた天気から、昨日、急に天気がよくなると一気に花粉症の症状が出た。夜、仕事に出かけなくてはならなかったので、眠くなる花粉症の薬を飲まないでいようと我慢していたが、ついに限界。眠くなるのもかまわずに薬を飲んだ。

杉林の中を歩いたことがあるだろうか?杉は年中青いので、葉が落ちないと思っている人もいるかもしれないが、頭髪が黒々としている人でも髪の毛が抜け落ちるように、杉の葉も落ちて下にたまる。そして、杉林の地面というのはその杉の枯葉が積もっているだけで、ほとんど他の植物が生えていない。杉や檜には防虫作用があるといわれるが、それと同じことで、他の植物に毒となる物質を出して寄せ付けないようにしているからである。さらに杉は年中葉が繁っており、林の中は年中暗い。だからシダなどの暗い場所でも生きられる植物しか生えられない。

里山のナラやクヌギといった落葉広葉樹も多くは植林されたものであるが、これは冬の間葉が落ちるので、葉が落ちた後の地面はとても明るい。だから、葉が繁ってくる前に急いで育って花を咲かせ、子孫を残す植物が多い。従って、この葉が繁る直前の時期に里山が急激に豊かになるように感じる。

しかしながら、杉花粉症の問題や、上に書いたようなとても寂しい杉林と、豊かに見える落葉広葉樹の林だけをちらっと見て、だから全てナラやクヌギの林に変えるべきだと短絡的に思ってしまうとしたら問題だ。去年の「愛・地球博」なんてのは、そういう短絡的な考えを持った人の祭典であり、実際、「ドングリを植え、木を間引きすることが自然を豊かにする」などと言って、それがさも正しい行為であるかのように人々に信じこませている光景が多く見られた。さらに、原生林というのは元来利用価値のない自然だとも言うような(つまり、原生林をつぶして里山化することが自然を豊かにするという)、馬鹿げた論理さえも展開する輩も出てきた。そういうバカな主張がうまく権力側の利害と一致すると恐ろしいことになる。実際、去年の「愛・地球博」はそういうための祭典であったと私はいまだ思っている。

現在、杉花粉症がこんなに蔓延している原因について、30年程前にひたすら杉が植林されたせいだと言われることもある。国の政策の誤りであるとも言う人がいる。実際そうだとして、では30年前に誰にそんなことが予測できただろうか?当時は杉を植林することが、良質の木材を生産するために最も良いことであると喧伝され、みんな信じていたのだ。

自然の姿を日々よく見つめ、自分なりに考えていこうとすること、これだけが本当の自然の姿を知ることができる方法だと思う。しかしながら、長年自然を見つめていても、そう簡単に自然は答えを教えてくれないものだ。わからないことだらけ、予想できないことだらけであり、それが自然なのである。自然をロクに見たこともないようなヤツが固定化された観念や思想で自然をいじくりはじめるとロクなことにはならない。人間は自然をそう簡単にコントロールできる程賢くはないし、自然はそんなに単純ではない。都会にインフラを整備するがごとく自然を「整備」することは不可能であり、誤った考えである。Sugi20060304

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2006年4月 »