2008年7月21日 (月)

思いがけない出会い

梅雨が明けた。いきなり暑い。夏の間は朝早く散歩するのがよい。そう思いながらも、もたもたしていると、すぐ昼近くになる。

そんなわけで、汗だくになりながら散歩道を歩く。丁度、ウラギンシジミが草の葉っぱの上の露を吸っていたので、近づいて写真を撮る。Uragin20080719

ウラギンシジミの姿を見ながら、彼らは水のありかをどうやって探し当てているのだろう?などと考える。そうやって座って写真を撮っていると、モンシロチョウやスジグロシロチョウが体にまとわりついてくる。私が汗をかいているので、その汗に寄ってくるようだ。こういう姿をみると、まるで私がチョウを手なずけているように見えるかもしれない。

しばらく歩いていくと、ヤマユリが大輪の花をつけているのを見つけて、思わず「おお、すばらしい!」と声をあげた。ヤマユリはその香りが強烈なので、近くに花が咲いていれば香りでわかる。歩いていて、ヤマユリの香りがしてくれば、「あ、この近くで咲いているな」と思って探すことができる。Yamayuri20080719

もっとも、このヤマユリの場合、あまりに目立っていたので、香りで探し当てる必要はあまりなかったのではあるが。

そうか、蝶たちも香りで水のありかを探っているのかもしれない。しかし、本当にそれだけなのだろうか?これは色々試してみないとわからないことだろう。既に研究されているのではないかとは思う。

そうして、さらに歩く。真夏の暑い日でも、木陰はひんやりと涼しい。しかし、昼頃になると、木の陰も小さくなるな、そんなことを思いながら、地面に映る木陰をみていたら、上空を何かが飛んだ。大きな蝶の影が見えたのだ。咄嗟に上を見上げた。私はたいそう驚いた。オオムラサキだ!

木の間をかなりのスピードで飛んでいく。是非とも私は写真を撮りたいと思ったので、蝶の飛んでいく方向に上を見上げたまま、少し後ずさりした。その次の瞬間である。何か夢を見ているような、一瞬の出来事。そのオオムラサキはヒラヒラと私のそばに舞い降りてきた。「とにかく写真を!」頭の中ではそう思っているのだが、手にカメラを持ったまま身動きがとれない。そのほんの1秒くらいかの後に、そのオオムラサキは私のからだに突進してきたのだ。私のからだの正面、みぞおちのあたりに突進してくるオオムラサキ。バタバタと凄い羽音をたてる。そして、一生懸命私にぶつかるのだ。「何がどうなってるんだ?」さっぱりわからない。私はそのぶつかってくるオオムラサキの驚くほど鮮やかな紫色に驚きつつも、「どこかにとまってくれ」と心の中で叫んでいた。いや、心の中だけではなく、実際に声に出していた「わかった、わかった、わかったから、どこかにとまってくれよ!」そんな風にさけんでいた。そうしているうちにもう一匹が私の頭をかすめていった。そして、その数秒後、なんと、肩にとまった。私は一気に心拍数が上昇し、震える手をおさえつつ、カメラを向けようとする。しかし、だめだ。と、思った次の瞬間、そのオオムラサキは私の手に乗り移った。内心「やった!」と思った。オオムラサキは私の手の甲に滲んでいた汗を一生懸命吸っている。そして、これが最初の1ショット。Oomura2008071901

もう、無我夢中でシャッターを切っていた。カメラは撮影した時刻を秒単位まで記録するのだが、実際、ブレブレでピントもあっていなければチョウも写っていない1ショットから20秒くらい後のショットなので、この状態になるまで、私は約20秒、このオオムラサキと格闘していたことになる。

それからしばらくは、この状態で動けなかったようだ。ずっとこの姿勢の写真が続く。そして、30秒後あたりから徐々に手を動かしていく。Oomura2008071902

この状態の写真なのだから、当然ノーファインダーだ。すなわち、ファインダーを覗いて構図を決めることが出来ない。カメラの位置だけで構図を想像しながらシャッターを切る。その間にいろんなことを考えて、カメラの設定を変えようとするのだが、相当に心拍数があがっており、それこそ震える手をおさえつつ、いつ飛んでいくかもわからないチョウと格闘する。

そして、1分20秒後にはこんな写真を撮っていた。Oomura2008071903

わかる人にはどこで撮ったかがわかる写真となっていた。

私は、この場所の自然を記録したいと思い、ずっと写真を撮り続けてきた。だから、オオムラサキの写真を、まったくどこか別の場所で撮ったとしても、それは私の目的が達成できない。いつも歩いている散歩道で撮る、このことが大事なのだ。そして、思いがけず、背景をしっかりと入れて撮ることができたのだ。

オオムラサキがいた、といっても、オオムラサキの写真だけでは、どこにいたのかわからない。だから、「ここにいた」という確かな記録を残すための写真をずっと目指してきた。そして、こういう写真が撮れた。本当に飛び上がって喜びたくなるほどであった。

Oomura2008071904 そして、これは、思いがけず、撮影時刻までわかる写真となった。

実は、この時計、2分ほど進んでいる。先日から気になっていたのだが、ちゃんとあわせておけばよかったと思う。まあ、それでも誤差の範囲ではあるが。

そして、約3分間、ずっとこのままの状態で写真を撮ることが出来たのだ。本当に驚異の出来事だった。Oomura2008071905

自然は、何も見せてくれないこともあれば、時々、いったいどうしたのか?と思うくらい、凄いものをみせてくれることがある。その自然に感謝しつつ、私は、この場所のこの自然の記録をずっと残すことをこれからも続けたいと強く思う。

このオオムラサキとの出会いは、決して忘れることの出来ない、私と散歩道の自然の物語の一つとしてずっと残るだろう。

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2008年7月 7日 (月)

田んぼの中の藻

北京オリンピックが大変なことになっている。海の競技会場で海藻が大量発生してとんでもないことになっているらしい。その映像をテレビで見たが、あれは酷い。それにしても、一気にあのような状態になるとは考えにくい。海藻が徐々に増えてきて、異変に気付いた時はもうどうしようもなかったということか?一生懸命、海藻を取り除いているようだが、そもそも、そんな海に人が入って泳いだりして大丈夫なのか?と思う。

なんでもそうだが、ある種の生き物だけが大量発生するということは、なにか異変が起きているはずだ。自然のバランスを崩すような何かが。海はつながっているのだから、その原因が実は遠い場所にあったりするのだ。それを探らないで、表面的な対処だけやろうとすると余計に事態を悪化させると思う。それは、病気になったときに、症状だけ抑えてもどうしようもないことと似ている。

まあ、それはさておき、昨日、散歩道にある田んぼの中に藻が沢山あるのを近くでみてちょっと驚いた。Mo2008070601

藻があるのは、除草剤などをあまり使っていない健全な田んぼという証拠だが、その藻の大きなかたまりに、オタマジャクシやらホトケドジョウやらが大量にからまっているのだ。からまっているというか、彼らは藻を食べているようだが。

オタマジャクシは藻をよく食べる。彼らは藻のような植物も、他の生き物の死骸などの動物系のものも食べる。要はなんでも食べる雑食系である。

まだ田んぼの中にほとんど生き物、すなわち餌がない時期に卵を産むアカガエルなどは、卵の殻に藻が生えてきて、それらがオタマジャクシたちの大事な餌になる。アカガエルは小さな水溜りなどにも卵を産む。そうすると、そもそも小さな水溜りであるから餌がほとんどないのだが、藻が生えてくれば餌が確保できるというものだ。カエルが雑食なのはオタマジャクシの時代だけで、肢が生えて上陸したカエルは昆虫などを食べる肉食だ。証拠に、こんな藻にオタマジャクシが沢山くっついていて、中には肢が生えてきているものもあるが、カエルは一匹もくっついていない。Mo2008070602 もし、カエルが藻を餌にするなら、カエルだらけになっているはずだ。周囲には、気をつけてあるかないと踏んづけてしまいそうなくらいのカエルがいるのだから。

Mo2008070603 驚いたのは、ホトケドジョウがウジャウジャといることである。ホトケドジョウは藻などに産卵するのであったか。それにしても、これは単に食べているか、藻の中を棲みかにしているかであろう。海藻の繁る場所に魚が多く棲むというが、これはその田んぼ版である。

先日、小学校4年生の次女が国語の問題集をやっているのを見たら、「田んぼはお米を育てるだけでなく、生き物を育てるのだ」というような文が載っていて、いたく感動したが、田んぼはもちろんお米を育てるためにあるのだろうけれど、長い歴史の中で、生き物を育ててきた。それが、日本の風土、日本の自然の中で大事な要素になってきたのだ。そのことをいつのまにか忘れてしまい、米の収量だけを気にするような効率優先で、生き物を育てる田んぼでなくなってきたという問題を認識すべきだと思う。

私の散歩道周辺の田んぼは生き物を育てることに関しては優秀な場所が多い。この田んぼでもホタルが育っているし、なにしろニホンアカガエルが沢山育つ田んぼだ。しかしながら、世の中の整備された米工場のごとき田んぼには、たいした生き物がいないことが多い。これは実際に見てみればわかる。田んぼといっても、生き物を育てる機能には格差があるのだ。(とはいえ、米の収量がどれだけ格差があるかはわからない。ほとんどないように思うが)

実は、このように藻が生えている田んぼは多そうで少ない。実際にはこのようになる前に除草剤をたっぷり撒く田んぼの水は澄んでいて、藻など生えていない。

実際に私なども田んぼの手伝いにいくが、農薬を使わないで田んぼをやっている人に言わせれば、藻や浮き草が生えるということはそれはそれで大事なことなのだそうだ。なぜなら、藻や浮き草が田んぼの水面を覆うと、水底には光がとどかない。したがって、余分な雑草が生えにくいというのだ。ということを考えると、除草剤を撒いて、藻も生えなくすることはなんとなく矛盾を感じる。

藻が生えて、こうして藻を食べる生き物がいる。藻を食べる生き物によって藻が分解されてそれが稲の栄養になる。藻を食べる生き物は、田んぼの害虫をも食べて稲を守る。田んぼは自然の力をうまく利用し、自然は田んぼに育てられてきた。そういう上手い関係。それを誰か偉い人が忘れてしまっていたことに、大きな間違いが始まったと思わざるを得ない。

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2008年7月 6日 (日)

ビワをめぐる不思議な協力関係

うちのビワは、私がこの地に越してきたときに、人からもらって食べたビワの種を庭に埋めておいたら芽が出て、それが育ったものである。そのビワは随分育ち、毎年枝打ちをしないと2階の窓に当たってしまう。

ビワは11月頃花が咲くが、11月といえばもう虫もいなくなる時期なのになあと思う。だが、見ていると、メジロなどが花の蜜を求めてやってくる。蜜蜂なども来ていることもある。そして、6月頃に実が実る。放っておくと鳥がきて食べてしまうので、我が家では、まず人間の分を確保する。実際、実は沢山なるが、取りやすい位置のものだけ取って、あとは放っておく。そうすると毎日鳥がやってきて食べる。

鳥たちは、一つの実を全部食べきることはない。ちょっとだけつついて食べてはまた別の実をちょっとだけつついて食べる。そうすると、その鳥がつついた場所に蜂や蟻をはじめとする昆虫たちがやってきて食べる。虫たちは鳥がつついてくれることで食べやすくなるようだ。Biwa2008070601

不思議な協力関係だなあと思う。そういえば、柿などもそんな風になっているのをよく見る。

果実といえば、果実を食べるモノがいて、そのおかげで種が運ばれるのではないのか?まてよ、ビワの場合、種が大きすぎて、鳥は運ばないだろう。柿もそうかもしれない。

実際のところ、このビワの種は私が食べて運んだともいえる。もしかすると、地面に落ちた実を拾って食べる動物に期待しているのだろうか?

一本のビワをめぐって、生き物たちのいろんな協力関係が見えるような気がした。

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2008年6月22日 (日)

田んぼの中の足跡

田んぼの中にクサガメの足跡を見つけた。かなりしっかりした大きな足跡だった。大きな大人のクサガメの足跡だ。Ashiato2008062101

そういえば、大きな大人のクサガメにはしばらく出会っていない。生まれたばかりか、せいぜい1~2歳の小さな子供クサガメには比較的よく会うのだが。

かつては、大きな老クサガメにちょくちょく出会った。彼らは人を恐れるでもなく、近づくと、たちどまってこちらをじっと見たものだ。彼らの目をみながら、気持ちが通じたのではないかと思うこともあった。何しろ、何十年もここで暮らしてきた長老である。私などよりずっと先輩なのだ。そんなことを思ったことがある。

しかしまあ、今回見つけたのはかなりの大物の足跡である。よく見ると、田んぼの中はクサガメの足跡だらけだった。大きいもの、中くらいのもの、小さいもの、様々な大きさの足跡が縦横無尽についている。毎年この時期にはクサガメの足跡や、クサガメそのものを見ることが多いのだが、丁度彼らの繁殖期なのだ。

クサガメの足跡を探していると、ダイサギやアオサギの足跡をよく見る。これはかなり大きな足跡で、手のひらサイズである。Ashiato2008062102

偶然なのか、これらの足跡は、クサガメの足跡と交差していることが多かった。彼らがクサガメを見つけてつついている姿を想像する。しかし、大きなクサガメだと、おそらく彼らの手に負えないのではないかと思うが、どうだろうか?

ダイサギやアオサギは大きいので、田んぼの中でも歩ける場所が限られる。つまり稲を避けて歩く必要がある。クサガメも同様だと思われるため、たまたま交差しているだけかもしれない。それらの足跡には時間差があるのかもしれない。

クサガメに出会いたい一心で、田んぼの中の足跡を一生懸命に見てまわる。獣の足跡も沢山ついていた。ノラネコと思われるものもあるが、なんだかわからないものもある。

Ashiato2008062103 カルガモの足跡はすぐにわかった。水かきの形がしっかりついている。そういえば、先日ここでカルガモのツガイが休んでいるのを見たな、そんなことを思っていたら、カルガモに遭遇した。

梅雨時で天気が悪くても、こうして田んぼの中の様々な足跡を探して、ここで生活している様々な生き物の動きを想像するのは面白い。

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2008年6月16日 (月)

我が家の生態系

先日、「そんなにカエルを駆除したいのか」というタイトルでここに書いた。何故か物凄い反響で、このブログへのアクセスが急に100倍近くに増えた。急に私のブログにやってきた人々は戸惑ったかもしれない。色々なコメントもいただき、普段、このようなブログに興味を持つこともなかった人々がどう考えているか?ということも少しながらわかった気がする。

中には大きな誤解だと思われる反応があった。それは、私が「カエルはカワイイ」と思っているので、カエルがうるさいからといって駆除したがるような人に対して怒っているのだろう、という感想だ。もっとも、そういう感情がないわけではない。しかし、それは私の言いたかったことの1割も理解していないと思う。それでは「カワイクない」生き物は駆除されてもいいのか?そんなことはない。単純にカワイイから守る、カワイクナイから知らない、そんなことで、どうして自然が理解できるだろうか。どうして自然を守れるだろうか。

Kumo20080616 これはアシダカグモだが、我が家には沢山いる。一般的にあまり気持ちのよいものではないと思うが、我が家では大事にしている。春先に沢山の子グモが生まれるが、やがてそれは次第に減ってくる。そして、だんだんと大きく育ってくる。妻がよく「こんなのが夜中に顔の上を這ったりするとゾッとする」というが、そのくらいどうでもいいことではないか。彼らはゴキブリを食べる。だから、彼らがいればゴキブリが増えて困るということもない。むしろ、彼らの動きが鈍くなる冬にゴキブリが増える気がする。彼らがいることで、我が家の生態系のバランスが保たれているともいえる。

庭にはダンゴムシが沢山いる。ダンゴムシは落ち葉を食べる。落ち葉を食べて小さく分解し、それはさらに微生物に分解されていき、養分をたっぷりと含んだ土が出来る。それは天然肥料である。それと、ダンゴムシは子供達に人気だ。最近は少し大きくなったので、あまりダンゴムシで遊ばなくなったが、二人の娘がよくダンゴムシレースをして遊んだ。Dango20050501

庭で、大きくて元気のよさそうなダンゴムシを探して捕まえてくる。それを、古くなった風呂蓋の溝に置いて走らせる。ゴールまで、どちらが早いか競争するのだ。Dango2005050102

これは、なかなか人気のある遊びだった。子供達が自然に触れて遊ぶにはとてもよい遊びだと思う。別に誰かに教わったわけでもなく、実は私のオリジナルだ。なんとなく、子供と遊んでいたら、思いついた。それ以来、長女はダンゴムシが大好きで、一時期は、ダンゴムシを飼うといって、自転車のカゴで沢山飼っていた。よくみると、ダンゴムシはかわいいものだ。

Kanahebi20080412

次女がすきなのはカナヘビだ。庭には沢山のカナヘビがいる。次女はどういうわけか、簡単に素手でカナヘビを捕まえる。そして、手の上に乗せて遊ぶ。次女いわく、カナヘビはとてもカワイイと。そして、不思議なことに次女の手の上に乗ると、カナヘビはおとなしくなる。

彼らは、庭にいる沢山の虫を食べて生きている。かといって、害虫が減ったかどうかはわからないけれど、少なくとも殺虫剤を撒くなどということはしたことがない。

庭には、鳥が運んできたであろうクワの実から芽が出て、毎年美味しい実をつける。それをケーキに入れてやいたりして、美味しくいただく。もちろん、自然に生えてきたものであるし、農薬も使わない。鳥が時々食べにくるが、それは鳥の分である。Cake20070604

追い払うことも不要。別に、鳥に食べられても量が少し減るだけで、そもそも全部なんて家族だけでは食べきれない。

ただ、ビワだけは、放っておくとほとんど鳥に持っていかれるので、鳥に持っていかれないように、まず人間の分を確保するのだが。

そうして、家の中や家のまわりの生き物と一緒に生活しているのである。

私がよく散歩に出掛けるのを見て妻がいう。「うちの庭でもいっぱい自然が観察できるよ」と。

自分の家の中や、庭。これが最も身近な自然にちがいない。その自然をことごとく排除し、殺虫剤を撒いたりしているのに、はるか遠くからCO2たっぷり排出して運ばれてきた無農薬野菜を食べるなどという生活をロハスなどと呼ぶのは一体なんなのだろう?と思う。

ちなみに、うちでは、蚊も捕虫網で捕まえて潰す。殺虫剤を撒かない。まあ、そこまでのことをお勧めはしないが。

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2008年6月 7日 (土)

アカガエルが上陸する頃

例年より2週間程度遅かったアカガエルの産卵だが、上陸はほぼ例年通りのようだ。今日いってみたら、多数のちびアカガエルが上陸していた。体長は1センチ程度。小さな小さなカエルが大量に上陸する。3月にここで産卵されたあと、水が涸れたり、突然、寒さが戻り、凍結してしまったり、流されてしまったり、と、例年、様々な苦難が続くが、それでもこの時期になると、気をつけて歩かないと踏んでしまいそうなくらいに大量のちびカエルが上陸するのだ。Akagaeru2008060701

ただ、上陸できたからといって、これで安心、というわけではない。彼らが大量に上陸するころには、天敵も彼らをもとめてやってくる。ヤマカガシなどは、彼らが大好物であり、一斉に上陸するのを待ち構えている。片っ端から丸呑みしていく。

Akagaeru2008060702 これから、彼らは少しずつ数を減らすが、彼らの体も少しずつ大きくなっていく。秋までは、彼らはこの水辺からそう離れずにくらすが、秋になれば、水辺でみることはむしろまれになる。草むらや林の縁で見ることが多くなる。

彼らより少し遅く産卵されたヒキガエルたちは、オタマジャクシの期間が短く、もっとも早く産卵されたアカガエルたちを追い越して、5月中旬にはすでに上陸している。彼らは水辺に居つくことはなく、すぐに林の中に入っていくので、林の中で見つけることはあっても、水辺には長くいない。

さらに彼らより遅く、新緑の頃に生みつけられたシュレーゲルアオガエルや、アマガエルたちはまだオタマジャクシの姿で田んぼの中にいる。Otama2008060705  田んぼは水がたっぷり入っているので、アカガエルたちのように水が涸れて死んでしまったりする心配は、あまりないようだ。

ただ、この時期、田んぼには除草剤が撒かれる。田んぼのそばを歩くと、その除草剤の臭いが鼻につくほどである。そうすると、Otama2008060703

中には、お腹を上に向けて死んでしまうものもいる。水が減ると、除草剤の濃度が高まるのか、多くのオタマたちが白いお腹を上に向けて浮いているのをよくみる。

しかし、それで全滅するわけではない。おそらく、長い人間との付き合いの結果、除草剤に強いものが生き残っていったのかもしれない。そして、死んでしまったオタマは、仲間の餌となる。あちこちで、死んだオタマをオタマが食べる姿が見られる。自然は死をも無駄にしない。

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2008年5月29日 (木)

そんなにカエルを駆除したいのか

梅雨のはしりである。しばらく前までは大変ににぎやかだったシュレーゲルアオガエルの声が少し静かになり、かわってアマガエルの大合唱が響くようになってきた。気温が高く湿度の高い夜は、カエルの棲む田んぼからかなり離れたところでも声が聴こえるほどの大合唱だ。その大合唱の盛り上がりとともに、おかしなおかしな人間の行動がみられるようになった。

このブログには、ブログを訪問した人が検索エンジンで検索してこのブログにやってきた場合、どういう検索ワードでやってきたのかわかる仕組みがある。そこで、時々、その検索ワードを見ているのだが、ここ一ヶ月くらいで急激に増加したワードがある。それは「カエル駆除」である。中には「カエル駆除方法」とか「アマガエル駆除」などというワードで検索してやってくる人もいる。どうやらカエルの駆除方法を検索して調べているようなのだ。Akagaeru2007022306

しかし、どうして駆除したいのか?と考えたときに、やはり、あの事件を思い出す。それは、「カエルの声がうるさいと苦情がきたから駆除しておきました」という公園管理者の発言である。東京在住の知り合いが、毎朝犬を連れて散歩する近所の公園で、ヒキガエルの卵を見つけ、その成長を楽しみにしていた。ところが、ある日、その卵は忽然と姿を消したのだ。公園の管理事務所にたずねたら「それなら、苦情がきたから駆除した」と平気でいうと。ついに日本人もここまで馬鹿になったかと思う。

もし、この話しでもピンとこなかったあなた。あなたにもわかるように説明すると、あなたはヒキガエルの鳴き声を本当に聴いた事があるだろうか?ヒキガエルは一年でわずかに一週間くらいしか鳴かないことを知っているだろうか?それから、ヒキガエルの卵とアマガエルの卵の区別が出来るだろうか?私の問いに全て答えられる人はほんのわずかな人でしかないはずである。その程度しかカエルのこと「すら」知らないのである。そんな人が「自然を大切に」とか「エコ」などと、何をほざくか!といえよう。

実際に、「カエル 駆除」で検索してみると、本当にカエルを駆除しようとしている人がいる。アホみたいにヒトにたずねているのだ。「カエルを駆除する方法はあるのでしょうか?」「庭にカエルがいるけど、駆除しなくて大丈夫ですか?」と。

アホか!

まず、カエルは人にはこれっぽっちも害を及ぼさない。なかには、カエルの皮膚の粘液に毒が含まれているので、害があるという人がいるが、それは肌が弱い人がカエルを直接触ったときに、ちょっとかぶれる程度であり、そんなもの、それ以上の害を及ぼす雑草だっていくらでもある。そんな程度である。それに、水辺があって、土があって、そこにカエルがいてもなんの不思議もない。そんなことすらわからなくなっているのだろう。それから、ネットで誰かにきけば、答えがあると思っているフシがある。それで嘘を教えられても確かめもせずに「はい、そうですか」と納得する。そんなんだから、納豆ダイエットのようなくだらないものに騙される。そんな程度である。かと思えば、「カエルがいなくなるとカエルの餌の虫が増えるから困る」というような、紋切り型の答えで満足する始末。あなたはカエルがいなくなってカエルの餌の虫が増えたという事実を調べたのかい?そもそも、今の都会にカエルなんてほとんどいないじゃないか!虫が増えたかい??

Amagaeru20050612 今、にぎやかに鳴いているのはアマガエルである。この写真、緑色のカエル、これがアマガエルである。もし、あなたがこれを駆除しようとすれば、駆除した結果は、こいつらの死骸があちこちに転がることになる。それはどうするのだ?ゴミとして捨てるのか?

私は別に、生き物を大切にしよう、とか、むやみに生き物を殺してはいけない(かわいそうだから)、とか、そんな野暮なことをいっているわけではない。自然に優しく、という前に、本当に自然に優しくして、豊かな自然とともに生きることがよいと思うのならば、自然のことをよく見てはどうだろうか?と、いつも言っているのだ。この日本のような季節の移り変わりとともに、かわっていく様々な自然を、自分の生きる大事な大事な生活の場の風景として感じてはどうだろうか?それが出来ないで、自然を守るというのはなにを守るのだろう?自分にとって大事な自然があるから守るのではないのか?その中の一員としてカエルもいるのが当たり前。カエルだって、時には人間と衝突することもあるが、それはそれで、そこに生きている生き物として存在をみとめ、尊重し、ともに生きるためにはどうするか?という知恵を働かせること、それが自然を大切にすることであろう。それを、うるさいから、とか、気持ちわるいから、ということで、自分の目の前から消えてなくなればよいというような、短絡的な考え方で、どうやって自然を守れようか?

検索していくうちに、どこかの大学が、そこに本来住んでいないカエルがいたから駆除しようとしているということもあるらしい。彼らの主張としては、そのカエルたちとの生存競争で在来のカエルが負ける、すなわち絶滅する可能性があるから、というが、そんなことはまずない。あり得ない。これは確信をもっていえる。ある種のカエルが増えすぎて、ある種のカエルが減ることは、まずない。あり得ない。これは私の長年の観察からわかる。踏みつけそうになるくらいのアカガエルと同じくらいのアマガエルは共存しているし、姿はあまり見えないが、それと同じくらいのヒキガエルも、シュレーゲルアオガエルもいる。彼らは本当に普通に歩いていて踏みつけそうになるくらいいても、餌に困ることもないし、むしろ、沢山いると、天敵に襲われても、全て食べつくされることがなく、生存する可能性が高くなる。天敵は、もともとそこにいたカエルだから食べるとか、そこにいなかったカエルだから食べないということはない。要するに、どこにどれだけの根拠をもって、そこにいないカエルが本来そこにいたカエルを脅かすといっているのかわからないが、おそらくたいした根拠はないと思う。そこに本来いなかったカエルが増えてきた、という事実を把握しているのみである。そもそも、何故生息していなかったのかといえば、生息に適さなかったのであり、そうであれば、本来生息していたカエル(すなわち生息に適しているカエル)に打ち勝ってそこで優位になるということも考えにくい。だいたい、自然に改変を加えようとしているのであるから、それなりの根拠を示した上で、多くの人が客観的に見て、「正しい」と合意できるものでなければ、到底許されるものではないと思う。間違ったことをして、「うまくいきませんでした。事態はおかしなことになって、とりかえしがつきません」ということになったら、誰がどう責任をとるのだろう?無責任にも程がある。

いろんなことを総合的に考えてみよ!といいたい。頭で考える前に、目の前にある自然をもっと見ろ!といいたいものだ。もっとも「カエル駆除」などという検索ワードで私のブログにやってくるような方は、自然などこれっぽっちも見ていないだろうし、考えたこともないだろうことは確信をもっていえる。そんな人に自然に優しく、とか、ロハス??とかエコなどと、気軽に言って欲しくないね。Ama20060618_2

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2008年5月18日 (日)

雑草の名前

自然観察会で、とにかく、身近などこにでもある草の名前を言う。これがオオイヌノフグリ、これはヒメオドリコソウ、これはハルジオン....そうすると以外な反応が返ってくる。「こんな雑草にまで名前がついているんですね?」と。それは、その人の正直な感想なのだろう。昭和天皇の「雑草という名前の草はない」という言葉は有名である。考えてみれば当たり前のことである。別に雑草だから名前を付けないということはない。ただ、いえることは、そういう風に、「これが○○」と教わらなければ、「雑草には名前すらない」という意識が一般的にあるということだろう。花屋の店頭にある花には名前がある。だが、雑草には名前がない。それはどういう根拠からくるのか。

Zasso2008051801 私は、草の名前を知ることは重要ではないと思っている。名前を知らなくたって、それがどんな場所に生えていてどういう季節に花を咲かせるか、を知っている方がより自然を見つめているということであると思うからだ。名前なんて知っていても、どこにどんな風に生えているのかも知らなくては、知っているとはいえない。だから、名前なんてどうでもいいや、と思っていた。でも、自然観察会をしていると、「これは何?」と名前を尋ねる人が圧倒的に多い。名前を知ることが自然を知ることだと思っているフシがある。

最近、「名前を教える」ということはそれはそれで意味のあることであると、気付いた。

普通に道端にある雑草を「これは○○」と教える。そうすると、「いつも庭や畑に生えていて、なんにも考えずに抜いていたが、これは○○なんだ~、と思うと、抜くのがもったいなくなって困る」という話しをよくきく。そんな風に言われると、名前を教えてよかったかな?と思う。私は「別に、気にしないで抜いてくださいな」というのだけれど。

ただ、「雑草」としか思っていなかったが、よく見ると、いろんな草花があり、いろんな生活をしている。ただそれだけのこと。よく考えてみれば当たり前のことだが、それに気付くと随分と自然を見る目が違ってくる。よく、観光バスで大勢で見に行くような、メジャーな草花だけが偉いわけではなく、すべては自然の一員であり、それぞれにそれぞれの場所で生きている。そういうことに気付くだけでも自然に対する考え方が違ってくるとしたら、それはそれで大変意味のあることだと思う。

私は常々、自然観察なんてものは、「自然観察が出来る場所」というのがあるわけではなく、身近に生きている生き物のことをまず見つめることから始まると思っているし、それが出来ないで、いきなり「名所」などという場所にいって何を見るのだろう?と思う。遠くに出かけなくては自然観察が出来ないと思っているとしたら、それは、「自然観察観光商売」の思うツボなのである。

もっとも、遠くに行かなければ決して見られないものもあるから、それはそれで遠くに出かけていくことは必要なのだけれど、じゃあ、自分の住んでいる場所のまわりの自然をどれだけ知っているか?ということが問われるのではないか?自分の住んでいるまわりの自然を知っているからこそ、遠くに出かけたときに、その違いがわかる。その素晴らしさがわかるというものだ。

身近な雑草を見ること、これは重要なことだと思う。そこに目がいっているかいないか、それは重要なことである。「貴重な場所」といわれている場所でなければ「貴重」でないから、破壊してもどうってことはないという意識があるとしたら、それは、身近な自然も、かけがえのないものであることを知らないからだ。自然とともに生きるということは、世の中を貴重な動植物だらけにすることではない。身近な生き物もその姿をしっかりみて、その存在を尊重することだ。Zasso2008051802

雑草だって、その地域にしかない雑草は沢山ある。そこで生きている生き物たちの生態系は地球上に他に同じものは二つとないことは確実に言える。

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2008年5月 2日 (金)

もはや人間は自然を完全にコントロールできるという幻想

カエルが賑やかな季節がやってきた。これは、昼夜を問わず、大きな声で鳴くアマガエルやシュレーゲルアオガエルの繁殖期がやってきたためである。特にアマガエルは都市の環境にも適応しやすいため、都会の近くでもよく鳴いている。実際、カエルの声といえばアマガエルの声を連想する人は多いのではないかと思う。そのくらい、よく聴かれるのがアマガエルの声である。それに、アマガエルの声は大きくよく響く。アマガエルの声がよく聴かれる季節になるとともに、毎年のことながら、ある現象を私は見る。それは、「カエル・駆除」という検索ワードで私のブログにやってくる人が急激に増えるのである。

数年前、東京に住む私の知り合いが、近所の公園にアズマヒキガエルの卵を見つけた。そして、毎日、犬を連れて公園を散歩しながら、ヒキガエルの卵の成長を楽しみにしていたという。しかし、ある日突然その卵は忽然と姿を消した。公園の管理事務所にどうしたのかとたずねたところ、恐るべき答えがかえってきた。公園の管理人は平然と、「カエルの声がうるさいと近所から苦情がきたので、駆除しておきました」という。

Gassen2008032300 アズマヒキガエルの声を聴いたことがあるだろうか?アマガエルのように合唱になることはなく、単独で、小さな声でつぶやくように鳴くだけである。しかも、アズマヒキガエルが鳴くのは一年でほんの一週間だけである。カエルのことを少しでも知っていれば、なんという馬鹿なことを、と思う。カエルの声と池の卵が結びつき、それを駆除したのだろうが、そもそも、カエルの声がうるさいというようなイカレタ苦情に、「はいはい」と、駆除しようとする人もどうかしている。

さて、ここ数週間で急激に増えた「カエル・駆除」という検索ワードで私のブログを訪問する人々も、おそらくカエルの声がうるさいのでなんとかしようと思ったか、あるいは、カエルが嫌いで、嫌いな生き物が身近にウロウロしているのでなんとかしようと思ったのであろう。そこで、すぐ「ネットで検索」である。そこには答えがあるものと期待する。しかし、有効な答えがないと、なぜか「不満」を漏らす。実際、検索エンジンで「カエル・駆除」で検索してみてほしい。カエルを駆除しようという試みに答えを求めようとしている人のなんと多いことか。

これが現代の都会人の自然感の一端であろうと思う。何事も完全にコントロールされている都会。何かを求めれば、すぐに身近にあるという、コンビニ感覚の生活。そんな生活の中で、野生の生き物のようなコントロールされていないモノに対しては「抹殺」しようと考えてしまう。恐ろしいことである。そういう感覚が、今、社会の中でいろんな歪みを生んでいると思う。極端な話しであるが、親が、自分の思い通りにならない子供を抹殺するというような事件も、その延長線上にあるのではないかと思える。

これは極端な例であるため、自分はそんなことはないと思う人も多いだろう。ところが、日常的に自然に接している人たちも、いつのまにか、そのような考え方におかされていると私には思えることがある。私には「里山」というキーワードもかなり危ういと思う。里山は人の手の入った「二次的」な自然である。そのこと自体は否定するつもりはないし、そのことによって豊かな自然が生まれていることも否定はしない。しかし、いつしか全ての里山が、ある種の「里山」という代表的なものが存在するかのような幻想にとらわれてはいないかと思うのだ。

実際に里山の手入れをしようと、何かしら着手した人たちの話しをきくと、多くの場合、「悩み」が存在するようだ。実は、この「悩み」が存在すること、これが本来の姿だと私は思う。「悩み」とは、自分達が行っていることが思うようにいかない、あるいは、このままでいいのだろうか?という「悩み」である。場合によっては、手入れをすることによって、一時的に多くの植物が芽吹き、一時的に沢山の花が咲いたことがあったけれども、それが長続きしない、いくら手入れをしても元のようにならない、どんどん荒廃していく、というのも現実にはある。一般的に言われている「里山の手入れ」を人々が同じようにやっても、結果が同じになるとは限らない。これが「自然」なのである。だが、理想的な里山という幻想は、それを「悪いこと」にしてしまう。一体どこに判断基準があるのかと思う。一ついえることがあるといえば、「人々が周辺の自然をうまく利用しながら、出来るだけ持続的に利用できるような状態に近づける」ことが大事なのであって、気候も違えば、地形も違う、もともとの植生も違えば、生態系の成り立ちも違うものを、一律に同じモノサシではかること自体が間違っている。もっともそのモノサシが「幻想」なのだが。

Zasshu20080423sさて、 先日、散歩をしていたら明らかな雑種タンポポがあった。一つの株に在来種のカントウタンポポの形態に近い花と、外来種セイヨウタンポポの形態に近い花がある。

セイヨウタンポポに代表される、移入種というもの、本来日本になかった生き物は、それが本来の日本の生き物を駆逐していくと言われてきた。ところが、実際のところ、セイヨウタンポポが増えすぎてカントウタンポポを駆逐しているとは私には思えない。それは明らかに生えている場所が違うからである。それに、その境界線ではこのような雑種と思われるものが沢山存在する。

実際、最近、セイヨウタンポポと思われるタンポポの遺伝子を詳しく調べたところ、ほとんどが雑種だったという報告もある。どうやら都市に生育しているタンポポは雑種になることで都市で生活できる性質を獲得したようであり、都市に生息するのは実は雑種タンポポなのである。そして、カントウタンポポが減ったというのは、セイヨウタンポポが増えたからではなく、都市化によってカントウタンポポが生息出来る環境が減ったのであり、セイヨウタンポポとカントウタンポポの雑種が都市という環境に適応し、なおかつ、その雑種は見た目はセイヨウタンポポなので、そのような誤解が生じているのである。

外来種を駆除すれば、在来種が復活するかのような幻想も、また、「人間が自然をコントロールできる」という幻想である。実際には、在来種が生息出来る場所が減っていることを見逃しているし、そもそも、そんなことが出来ると思うのは何の根拠があるのか?全ては「やってみなくちゃわからない」レベルである。

やってみなくちゃわからない、から、「やってみる」のはいい。しかし、その結果がどうなったかという評価をし、やってみたことを少しずつ修正していったり、並行して、いろんな研究や、観察によって、本来の姿を追求しなければ、ただ「これがよい」と誰かが言ったことを「やってみる」だけであれば、本当かどうかわからない健康法をやって実は健康を害していた、ということと同じことである。自然に対するときに我々は何一つ100%の答えなどもっていない。そういう謙虚な認識を持たねばならないといつも思うのだ。Aka20080315

なにやら、話しが脱線しまくるが、カエルを駆除しようと思った人に、カエルの本当の生活、一生懸命に生きている彼らの本当の姿を見て欲しいと思う。今、人間社会のおかしな仕組み、誰も得をしないのに、単なる机上の空論、それを唱える人のおかしな面子、おかしな幻想がもたらす、おかしな都合のおかげで、彼らがどれだけ生息環境を失っているかも知ってもらいたいものだ。そのうえで、あなたはさらにそのカエルを駆除しようというのか?何一つまともにコントロールできないくせに人間は勝手過ぎる。そして自然に対して誤ったことをして、失敗してもなんの責任を負うこともなく、さらになんとかして誤魔化そうとしている。そういうスパイラルの根底にいつもあるのは、「人間は完全に自然をコントロール出来る」という幻想であり、コントロールすべきであるというおかしな使命感である。

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2008年4月27日 (日)

今年も谷津田に輝く季節がやってきた

Yatsu20080427巷では、ゴールデンウィークの始まりという。行楽シーズンという。そのゴールデンウィークの始まる少し前から、私の散歩道フィールドである、瀬又の谷津田は輝き出す。それは本当に輝きはじめるのだ。

それは、丁度田植えが始まる時期である。田んぼには水が入れられる。林の木々は芽吹き、新緑が輝いている。最初はごくごく淡い色の芽が出てきたかと思うと、日に日に色を濃くしていく。そして、静かに水を蓄えた田んぼに新緑が映る。それはもう、たとえようのない透明感である。そして、シュレーゲルアオガエルが鳴く。カエルの声は谷にこだまし、ときどき盛り上がり、そしてまた静かになる。ウグイスの透き通った声が四方八方から響き、ときおりキジのケンケーンという鋭く甲高い声がこだまする。

この時期は、一年でもっとも花の多い時期である。それこそ色とりどりの花が咲くのだ。この時期になると、私は歩く早さがぐっと遅くなる。それは見るものが多すぎるからだ。一歩一歩進むと、一歩一歩違う花が見える。Kumagai20080427_2

イチリンソウ、ニリンソウ、ジロボウエンゴサク、ヤマエンゴサク、ネコノメソウ、クマガイソウ、キンラン、ギンラン、ササバギンラン......それらが一斉に咲く。色とりどりの花の中を歩く。

こんな幸せがあろうか?と思う。この谷津田の輝きを見たら、どんな花壇だって、つまらなく思える。Ichirin20080427

この自然の中に咲く花を道端に見ながら歩くことの素晴らしさは、どんな花壇にもかなわないだろう。

この時期は早起きして、朝早くに散歩をするのが気持ちいい。夜露に濡れ、まだ花が半分くらいしか開いていない。葉が繁り出して、やさしくそそいでくる木漏れ日の下で、色とりどりの花がキラキラと輝くのだ。湿った緑の香りがただよい、カエルが鳴き、ウグイスが鳴く。チョウはまだ寝ぼけているのか、飛び方がゆるく、時々花にとまっては、ゆっくりと翅を広げたり閉じたりする。Jirobo20080427

この美しい季節の美しい自然、それがこんなに身近にあることを、もっと多くの人に知ってもらいたい。そして、それがいかに脆いものであるかを知り、それを大切にしてもらいたい。

いや、決して花だけが大事なのではない。私は何度も言っているが、きれいな花を守るためといって、人が一生懸命手をかけるというのはどうか。あげくの果てには花につく虫を追い払うために殺虫剤を撒くなどということを、こんな自然の中でやってしまう人がいる。それは私に言わせれば本末転倒である。

花を愛する気持ちがあるなら、その花を育んでいるもっと大きな自然を愛せないのだろうか?自然があって、そこにいろんな生き物が様々な生活をしている。その中で、奇跡的に咲く花がある。その奇跡を奇跡としてどうして愛せないのだろうか?木を見て森を見ずというが、花を見て自然を見ず、になっていないだろうか?Hotaru20080427

花は美しい。だから花だけに目がいってしまう。しかし、花を食べる虫がいる。花とともに生きる生き物だっている。植物だって、花を咲かせるために、いろんなものを犠牲にしていたりもする。それが自然の姿であり、そこに綺麗な花が咲いているということは、自然の複雑な営みが生んだ奇跡なのだ。その奇跡を生んでいる自然の凄さに思いをはせることが出来なければ、本当の花の美しさは感じることができないと私は思う。そうでなければ、花壇の花を見ていればいいではないか。そちらの方がよほど手軽に見れるではないか。でも、それでは私にはまったくつまらないのだ。

この美しい自然がずっとずっとそこにあって欲しいと願う。そこには自然という奇跡が生んだ美しいものがある。そのことを多くの人がごく当たり前に感じる世の中であったらいいと思う。昔から自然を敬い、大切にしてきた心。自然は、人の心に美しい恵みを与えてくれるのであろう。誰でも自然を素直に見つめるだけで、その素晴らしい自然からの贈り物が見えるはずだ。なにも遠くまで花壇の花を見にいかなくても、あなたの足元に素晴らしい贈り物が沢山あるではないか。なにも私の散歩道が特別なわけではない。私は多くの人にそのことに気付いて欲しいのだ。

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