2009年6月21日 (日)

ホタルブクロ

Hotaru2009060601 梅雨の季節。散歩にいくにも雨にはばまれる。しかし、あるいてみれば、湿った香りの中、おだやかな気持ちになる。

つかのまの梅雨の晴れ間に、水のしたたるホタルブクロの花を見る。考えてみれば、この時期に咲く花は、このホタルブクロのように下向きに咲く花が多い。やはり、この季節に傘をさすように、咲いているのだろう。

ホタルブクロ。ホタルが飛び交う季節に咲く。里山の道端にはあちこちに、この花がある。

今日も雨かと、庭のホタルブクロを見ていて思いだしたことがあった。祖母が好きな花だったと、思い出した。庭に植えたホタルブクロを大切に育てていたと、思い出した。白いものから、ピンクのものまで色々なバリエーションがあって、綺麗な花だが、ふと、何故に祖母が好きだったのだろうか?と、何気なく考えていたら、道端のホタルブクロが違った風景に見えてきた。Hotaru2009062101

祖母は新潟の山村の生まれ。私は子供の頃、一度だけ、祖母が生まれ育った家にいったことがある。山に囲まれて、田んぼがあった。延々と田んぼの真ん中に道が続いている。そんな中、この季節には、道端にはホタルブクロが咲いていたのではないか。祖母は、遠くはなれた地の庭に咲くホタルブクロに、故郷の道端に咲くその花を思い出していたのではないか。だから、この花が好きで、庭で大切に育てていたのではないか。

Hotaru2009062102_2 人々が身近な自然を感じて育ち、身近な自然を感じて生きる。そして、そのことが、人の中に、自然をいとおしむ心が生まれる。子供の頃に感じた自然の記憶は、一生、母なる自然として自分の中に生きるのではないか。

私はここで生まれ育ったわけではない。しかし、私がこの地でこの地の自然にこれほどまでに心が動かされ、この地の自然を思うのも、どこか遠い昔の記憶に呼応するものがあるのだろう。それは本能、野生の感覚かもしれない。それを忘れずにいること、そして、多くの人にその感覚を呼び覚まして欲しいと思う。そのことが、自然を感じ、自然とともに生きることに喜びを感じ、自然を大切にすることに繋がると信じる。人々が人間の都合に翻弄され、忘れかけていたこと。それは、今の人々が言う、エコなどという軽い言葉で表されるものではないと思う。それを誰もが忘れている。

そうだ、いつか祖母の故郷にまたいってみよう。私は何かを思い出すかもしれない。

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2009年5月31日 (日)

毎年多数拉致される里山の蘭

散歩道には沢山の花が咲く。特に、春から初夏にかけては、次から次へと色んな花が咲き、自分の記憶の中にある花カレンダーを思い出し、「ああ、そろそろあれが咲くころだ」といっては花の様子が気になる。数ある中でも、ラン科の花は格別だ。Ran_kinran20090505 大雑把に言えば、ランはラン菌根菌という菌の助けを借りなければ発芽することが難しい。極端なものになると、菌から栄養分をもらわなければ育つことすら出来ないものもいる。

要するに、土壌の菌が元気でなければランも元気に育つことが出来ない。土壌の菌が元気であることは、ごくごく大雑把にいえば、枯葉や朽木、あるいは、昆虫、動物の死骸といったものが土に落ち、それが菌の餌になるわけであるから、そういう自然のめぐりがしっかりと生きていることが大事なのである。だから、そういう自然のめぐりの中のごく限られた部分がランの花となって開花している、そう思えるから、余計にランに魅かれる。

Ran_kumagai20050424 もっとも、自然の中の生き物は、多かれ少なかれ、目に見えない生き物も含めて、他のいろんな生き物と、複雑にからみあって生活しているのであるが、このランたちはある意味、自然の生命力のバロメータのような気がする。

しかしながら、多くの人はそんなことは知ることもない。ランといえば、なにか高級で、栽培が難しい植物と思っているくらいだ。道端に咲いていれば、高価なものが落ちていたという感覚で拾っていく人もいれば、それを持って帰って売る人。売っているのを買う人もいる。その花を咲かせている自然の力、そのすばらしさ、などというものは一切感じることもなく、単に「綺麗だ」というだけで花に接する人々だ。

Ran_sasaba20090510 実際、これらの里山の蘭たちは、特に、道端などの目立つ場所に生えていると、かなりの確率で盗掘にあうことは、見ていればわかる。葉がでただけの段階では、かなり大丈夫だが、つぼみをつけたり、花が咲くと、根こそぎなくなる可能性が高くなる。

まず間違いなく、盗掘されたものは花が終われば枯れて、それっきりになるだろう。それは、複雑な生態系に組み入れられている「生きた」土壌がなければ生きることが出来ないからだ。それを植木鉢のような閉じた場所に再現することは相当困難なことだ。

中には、一生懸命、人工栽培方法を研究している人がいて、かなり手をかければ栽培は可能なのかもしれないが、自然に生えているものを盗掘した人が、それを栽培する手段を一生懸命研究するというのは、いかがなものかとは思う。(もっとも、自然に対する理解を深めるという意味で、栽培方法を研究するというのはありだとは思うが)

一方で、このような盗掘を憎み、純粋に自然の中の花を愛する人々も沢山いる。そして、盗掘する自然破壊派との戦いも生じている。見つけても決して場所を教えない。しっかりと監視する。盗掘禁止の立て看板を立てる。生息域を立ち入り禁止にする。などなど、ありとあらゆる方法で守っている人々がいる。そうやって守らなければならない現実がある。

Ran_shunran20080330 私も何度も悔しい思いをした。ツボミをつけているのを見つけ、そろそろ花が咲いているだろうと行ってみると、跡形もなくなっている。根こそぎ、消えている。そのたびに、本当に腹が立った。自分の子供が連れ去られて、探し回る親の気持ちだ。それは、毎年何度も味わっている。それぞれの花の季節に、必ず一度や二度は味わう。本当は、そういうことがあると、このブログでも怒りをぶちまけたくなるが、そのたびにいちいち怒っていては、体がもたないくらいだ。私は、そのたびに、どうしたら盗掘がなくなるのだろうか?と一生懸命考えるのである。

秘密にしておくこと、も、ある程度は有効かもしれない。しかし、盗掘する方も、我々が見つけたのと同じように探し回っているはずであり、また、一度、生息場所を見つけられてしまったら、もう意味はなくなる。監視したり、立て看板を立てたり、立ち入り禁止にしたり、それもある程度は役に立つだろうが、特定の場所は守られても、全てをそのようにして守ることが出来るわけではない。

盗掘が起きる原因の一つには、世間一般の「花」に対する意識の問題があろう。花屋で売られている花と、自然の中に咲く花は何がどう違うのか?きれいな花が欲しければ、花屋で買ってくればいいじゃないか。それなのに、何故、盗掘しなければならないのか。そこに現代人のおかしなおかしな自然観の問題を見る。

花を守る方も、一歩間違えば、五十歩百歩のおかしな自然観におちいってしまう。公園に綺麗な花を植えて、それを大切にするという感覚と同じ感覚ではまるでダメ。自然の力で生きているものに、選択的に力を貸すことだけにとらわれてしまう。それは、花が綺麗であればよく、他の邪魔なものは排除するということになる。極端な話し、花を守るために農薬なり殺虫剤を吹きかけるなどという馬鹿げたことすら行って平気になる。それじゃあ、畑の作物と同じ、お花畑の花と同じ。私はそんな花はどんなに綺麗でも見たくないのである。いや、そもそも綺麗だとは思えない。せっかくのものを台無しにしていることに気付くこともない人がいる。

Ran_ooba20090510 今年、オオバノトンボソウが沢山芽を出していた。それを見て、今年は好調だと思った。いつもより、沢山の花が見られると。しかし、それは逆にいえば、彼らを目立たせてしまったのかもしれない。今日、愕然とした。

目立たない場所の1株を除いて、全て消えてなくなっていたからだ。

花を見ることは出来ても、自然を見ることが出来ない人が多すぎる。

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2009年5月 6日 (水)

雨降りの気持ち

昨日、田植えの手伝いにいったら、途中から雨がポツポツと落ちてきた。雨が強くならないうちにと、一生懸命田植えを終えた。田植えを終えて、延々と自転車で帰る。谷津田の中を帰る。Yatsuda2009050501

雨は、田植えの終わったばかりの、静かな田んぼの水面にたくさんの輪を作る。やがて、輪はどんどん増えていく。

畔道を自転車を押して進む。次第に本降りになってきたので、レインコートを取り出して羽織る。

田んぼわきの木がせり出している場所は、木が雨をさえぎってくれるので濡れない。けれど、すぐに通り過ぎる。

ああ、なんだかこの風景が好きだな。元気な晴れの日もいいが、雨が降ると、心が鎮まるのは何故だろう。新緑は濡れてよい香りを強くただよわせる。Yatsuda2009050502

サーッと雨がしぶきを上げて降ってくる。たぶん今日は帰りは雨になるだろうと思っていた。だから、雨の中、どこか木の下で雨宿りをして、そこでお弁当食べて、というのもいいな。などと思っていた。けれど、本降りになって、田植えの疲れもあるし、とにかく一生懸命進んだ。

今朝、起きたらまだ雨が降っていた。新緑の季節は短く、すぐに過ぎ去ってしまう。その大切な時間、散歩していたいと思うのだけれど、雨だ。

昼前になって雨があがったようだったので、散歩道へと向かった。シュレーゲルの大合唱と、ウグイスの声が谷に響く。特に、こんな、湿った曇りの日には、しっとりと、よく響く。Kunetoge20090506

くねくね峠を越えて、新緑の中で一人田んぼを眺める。先日、用事があって徒歩で山を越えて行った帰り道、ここで一人お弁当を広げて食べた。いつか、そうしたかったのだけれど、何故かそんなことをしたことがなかった。今日はつかのまの雨あがり。空はまた暗くなり、雨が落ちてきそうだ。ゆっくりもしてられないな。と思ったら、パラパラと雨が落ちてきた。

「あっ、雨だ」

一人つぶやく。しばらくここで雨宿りするか。

Karugamo20090506 田んぼにカルガモの夫婦が降りてきた。彼らは、毛づくろいをしたり、田んぼの中の何かをつついたりと、ゆったりと過ごしている。この季節、ここでよく見かける光景だ。

雨はそれほど強くはないが、しばらく降り続いた。空を見上げながら、雨がやんだら帰ろうか、と思う。でも、この場所で新緑にパラパラと雨が落ちる音をきいていたい気がする。緑の香りは濡れてさらに強くなってくる。じっとしていると、この場所に溶け込む。人の言葉では多くを語れない。でも、木々は香りで語りかけてくる。自然は音で、空気で、語りかけてくる。言葉に出来ない言葉。何度となく、私がここで感じたこと。

Kunetoge20090506r 空が少し明るくなったので、さあ、帰ろうか。

ゆっくりゆっくり進む。心の中のとげとげしい部分も今日は濡れて、やわらかだ。やんでいた雨は次第にまた本降りとなってきて、私はまた家へと急ぐ。玄関の前まで来たとき、急にザーッと雨が強くなった。

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2009年5月 5日 (火)

それでもカエルを駆除したがる人々に告ぐ

昨年、そんなにカエルを駆除したいのかという記事を書いたら、一躍有名になってしまった。あれを書いた直後、一日数千人もの人がこの「散歩道ブログ」をおとずれた。私にとってはごく当たり前の記事のつもりだったのだが。Amagaeru20080621

  さて、今年も、ちょうど今、田んぼなどではアマガエルの合唱が最盛期である。そうなると、今年も来た来た、「カエル駆除」で検索してこのブログにやってくる人々が。ここの散歩道ブログにどういう検索フレーズでやってくる人が多いのかということは、公開している。よく見てもらえば下の方にある。見ればわかるが、「雑草の名前」「カエル駆除」とそれに似通った検索フレーズでほぼ100%に近いのだから、ここは「散歩道ブログ」でもなんでもなく、「雑草の名前」「カエル駆除」ブログということだろう。
 実際に検索エンジンで「カエル駆除」で検索してみて欲しい。そうすると、この散歩道ブログが真っ先に出ることだろう。その次から出て来る結果をずっと見てみて欲しい。ゾッとするよ。これが現代の日本人のカエルに対する考え方であることは間違いない。もっといえば、自然に対して、このレベルの認識なのだ。「カエルの駆除方法知りませんか?」「庭にカエルが住み着いているので困っています。いい駆除方法を知りませんか?」である。まったく、呆れるというか、笑っちゃうくらい、なのだけれど、そんなに駆除したかったら手で捕まえて殺せば済むことだろう、と思う。だいたい、「庭に10匹くらい住み着いています」というヤツが一生懸命駆除方法を調べているが、そんなもん10匹くらいなら簡単に捕まえられるだろう。そんなに広い庭なのかい?なんならオレが行って捕まえてやろうかと思う。 Amagaeru20080614
 そういうことがあるから、私は、あえて「かわいい」カエルの写真を載せる。カエルのキャラクターはカワイイというくせに、本物のカエルは気持ち悪いなどという。本当にそうか?よくみてもらいたいと思うのだ。
さらにはカエルそのものに対してまったく無知。カエルは一年中鳴くわけではない、というと若干語弊があるが、一年中よく鳴くのはアマガエルくらいで、他のカエルは繁殖期以外はほとんど鳴かない。アマガエルだって、大合唱となるのは繁殖期くらいで、後は数匹がポツリポツリと鳴いているくらい。全く何の害もないカエルを、「声がうるさい」とか、「キモチ悪い」といって「駆除」したがるのだから、そんな人にいくら自然の大切さ、その一員である生き物の大切さをうったえたところで、「きもち悪いものはきもち悪いのだから、何が悪い!」といって逆ギレされるのがオチである。
  Akagaeru20070223_2

以前も書いたが、都会の公園の池にカエルがいて、近所から「カエルの声がうるさい」といって苦情がくるそうだ。そして、公園管理人はカエルを本当に駆除してしまったという。世も末だね。元来、日本人は四季折々の自然を愛でることに長けているのではなかったか?カエルの声だって自然の一部だし、「蛙飛び込む水の音」は、あんた、キモチ悪いと思うのかい?
都会では、公園の池のカエルは駆除される。ところで、池ってなんだ?水が溜まっていれば池なのか?あんた、本物の池を見たことがあるかい?カエルやメダカやいろんな生き物がウヨウヨいる池だ。ゴルフ場の池とか都市の公園の池はあれはなんだ?最近は、やたらと親水公園とかいって、水に親しむ環境を作るというが、その水ってなんだ?その根本的なことをないがしろにして、やれ水に親しむ、自然に親しむといったところで、自然ってなんなの?水に親しむってどういうこと?という根本的な問いに答えられない。
 Akagaeru2008060701 今日、私は田植えの手伝いをした。泥まみれになって田植えをする。田んぼにはカエルやドジョウやカメなどが生きている。子供には、そういうところで泥まみれになって遊んで欲しいと思う。しかし、今時は、子供がそんな泥に足を踏み入れようとすれば、「汚いからやめなさい」と親が言う。だから、今は裸足で土の上を歩けない子供がたくさんいる。子供の頃から、そんな狂った感覚で育つものだから、庭にカエルでもでてこようものなら、狼狽してしまって、「駆除方法しりませんか?」である。
 しかも、ネットで検索すれば答えがあると思っている。ネットで検索してでてきた答えを「ああ、そうですか」と信じ込んでしまうのだから、そんな人々に対しては情報操作だって簡単に出来るというものだ。自分の考えは捨て、情報はすべてネットにゆだねている人のなんと多いことか。なにしろ、友人の結婚式のスピーチに何を話せばいいか、例文はないか?などとネットでたずねている人もいるくらいだから、完全に自分を殺してるね。自分の存在意義さえも捨てて、全てをネットにゆだねてしまっている。Amagaeru20070716
 だったら、そんな悩めるあなたに私が教えてあげよう。正しいカエルの駆除方法を。

「カエルを手で捕まえて手にぐっと力を入れて潰す」

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2009年5月 4日 (月)

散歩道では絶滅したかと思った生き物

散歩道の生き物で、かつてよくみかけたが、みかけなくなった生き物はいくつかある。何シーズンかみかけなくなると、もしや絶滅してしまったのでは?と思うことがある。果たして絶滅してしまっているのだろうか?
サワガニは、かつて、散歩道で最も絶滅に近い生き物だと思っていた。かつては、ごく普通に見かけることができたが、やがて見かける回数が減り、そして、ついには何シーズンか見かけなくなり、絶滅したかと思った。その後、水路で、幼いサワガニを見つけた時は驚いたが、絶滅していなかったことを知って嬉しかった事を思い出す。

Sawagani20040724
本当に絶滅したかどうかは、本当によく調べてみないとわからないことだろう。生息の可能性のある場所をくまなく調べ、何シーズンかみかけなかったときに、初めて絶滅したということになるのだろう。Sawagani20090504

今日、そのサワガニを水路で見つけた。ぱっと見で生きているのかどうかわからなかったので、近づいていったところ、そいつはちゃんと生きていた。その直後「もしかしたら絶滅したかも」と思っていたものを見つけたのだから、驚いた。こういう日もあるものだ。

Koke20090504
それはコケリンドウ。数年前に偶然見つけたのだが、その後みかけなくなっていた。今日、ふと思い出して、探してみたら、あったあった。こいつはかなり小さいので、見逃していた可能性もある。ちゃんと生きていたのだ。
生息基盤が脆弱な生き物は色々ある。生息するための環境が複雑であったり、微妙であったり、逆に大規模な環境が必要であるものもいる。だから、そういう環境が少しでも変化すると、絶滅してしまうんではないかと気をもんでしまう。

散歩道にはニホンアカガエルの楽園のような場所がある。いや、あったというべきだろう。ここでたくさんのアカガエルが育っているが、ここ数年少し環境が変わって、必ずしも楽園でもなくなってきた。ただ、私はそういう変化がどう影響するだろうかと思って毎年見ている。雨が少なく、水が涸れてほとんど死滅したと思った時でも、今までみてきたところでは、なんとか生き延びているものがいて、ちゃんと育っているのを目にするから、ちょっとくらいの変化には耐えられるようだし、彼らはそういう過酷な環境でも生き延びてきたからこそ、過酷な環境に耐えられる能力を身に付けてきたのかもしれない。Aka20090504

本当に絶滅してしまった生き物は、全てではないが、およそ人間が無知であったがために絶滅を防げなかったということだろう。人間はいつの時代も無知だ。だから、それを補うために一生懸命に研究して、一歩一歩進んでいるにすぎない。今も、一歩一歩進んでいる途中である。だから、現代人だけが全てをわかっているということは絶対にない。そういうことを前提に考えないとまた同じことを繰り返してしまう。そうならないためにはやはり、自然について、野生の生き物について、どういう生活をしているのかということを確かな目で観察することが大事だと思う。それは、ただ一つの生き物だけを見るのではなく、人間も含めた自然の中の様々な命のめぐりといった視点が大事だと思う。そして、決して完全ではない答えを、少しでもよくしようとしていかなければならない。それが、自然を守ることに繋がるはずだ。

Tampopo20090504 人々はよく、環境が「良い」「悪い」と基準があるかのように言うが、それは何を基準にしているのだろう。自然が生き生きとして、力強い生命にあふれている姿が「良い」として、それはいったいどういう環境なのか?もしあなたが「良い」環境と思う基準があるならば、それはどうやって成り立っているのか?このことに答えを求め続けなければ、進歩はないし、絶対的な答えが教科書に書いてあるわけでもなければ、誰かが知っているわけでもない。

絶滅したと思った生き物が、しっかりと生きていた。私はそんなことを考えながら輝く新緑の中を歩いた。Kunetoge20090504

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2009年4月26日 (日)

輝く季節

毎年、この季節が一番楽しみだ。田んぼにはたっぷりと水が張られる。田植えの季節でもある。空は澄み、落葉樹の森は新緑に覆われる。Yatsuda2009042601

ウグイスが澄んだ声や、シュレーゲルアオガエルの合唱が、さざなみのように強弱をつけて響き、谷にこだまする。冬の間、乾いていた空気が一気に湿り、日が当たると、緑の香りが当たり一面のただよう。

Kunetoge20090426s 木漏れ日の中を歩くと、日差しが、新緑の葉の影にやさしく揺れる。日陰は少し新緑色になる。

林の中にわけいれば、キンランなどの美しい花がひっそりと咲いているのに出会うことが出来る。Kinran20090426

そよ風が揺れる。木々がざわめき、風が舞う。そんな中で、自然にとけこんでゆく。

一年を振り返ったとき、なによりも、この季節が輝いて思える。この季節のために、また一年、自然とともに歩んだのではないか?そんな気すらしてしまう。その輝いた季節が、また一年、また一年と年を重ねていく。その重なった年は、いろんな物語を私にくれる。

Karugamo20090426

一つ一つの場所、沢山の思い出がつまっている。それは、こうして私がここを歩き続けてきたあかしだ。

生き物たちは、また一年、この場所で命をつないできた。誰のためでもなく、決して特別な生き物のためというのでもなく、様々な生き物が、この場所の自然を必要とし、この場所も少しずつ変化して、生きてきた。人間もだ。

この場所は私にいろんなものを教えてくれた。これからも、ずっと教えてくれるだろう。そして、子供達、そのまたずっと先の子孫に、同じように、素晴らしい時を過ごして欲しい。それが、今、この場所で生きている私達の使命ではないか。この場所、この季節、ここに生きる生き物たちの物語、その全ての素晴らしさを感じること。それが、この先もずっと続いて欲しいと願う。人間が、立派な生き物として生きるため。人間は人間の力のみで生きるなどという窮屈なことをやりとげようなどという馬鹿げたことを考えない方がいい。物理的にも精神的にも自然の恵みを得て、一人の人間が一生かかっても絶対に到達できない自然の大きなめぐりのなかで、命を得て、その命をまっとうすること。「よく生きる」とはそういうことではないか。なにか大げさだが、そんなことすら思う。

Yatsuda2009042602 また、輝く季節がやってきた。輝く季節を精一杯感じて、また一年、私は歩く。

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2009年3月20日 (金)

優勝するのは誰?アズマヒキガエルのカエル合戦

今年もこの季節がやってきた。アズマヒキガエルは決まってお彼岸の頃、すさまじいカエル合戦を繰り広げる。普段はなかなか見かけることの出来ない彼らが、一斉に水辺を目指してやってくる。そしてカエル合戦が始まる。Gassen2009032001

いつもの合戦場に向かうと、おお、やってるやってる。彼らのグェッグエッという声があちこちできこえてきた。あっちでもこっちでもダンゴ状態になっている。

あるものは動き回り、片っ端から抱きつく。とにかく動くものがいれば抱きつく。だから、オスにも抱きつく。抱きつかれたオスは「グェッ、グェッ」と声を出す。「俺はオスだ!放せ!」というわけだ。そうすると、あわてて放すのだけれど、しばらくして抱きつかれたオスが動くとまた抱きつきにいってしまう。Gassen2009032002

見ていると、とても滑稽なのだけれど、彼らは真剣な表情で泥まみれになって合戦をやっている。

運良くメスに抱きついたオスはまわりにオスがいたなら出来るだけ早くその場から離れなければならない。そうしないと、オスだらけの状態では奪い合いが始まり、すぐにダンゴ状態になる。ダンゴ状態になっている上に、また他のオスがやってきて、事態をさらに悪化させる。Gassen2009032003_2

毎年、彼らの合戦場の環境は少しずつ変化していくが、今年もこうやって彼らの元気な姿を見ることができた。

これからも、毎年この場所でずっと合戦をくり広げられるよう、見守って行きたいものだ。もはや、彼らが元気に合戦を繰り広げることが出来る場所は数少ない。

彼らの合戦は散歩道に春を告げる。一気に春の空気になり、 様々な花が咲き、新しい季節がめぐってくる。

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2009年3月 1日 (日)

今年もやってきたアカガエルの季節

このところ雨が続いている。田んぼには水が豊富にあり、アカガエルにとってはよい年だろう。アカガエルの卵塊の数も順調に増えている。ただ、まだ気温が低目なので、それほどでもない。これで、気温がぐっと上がれば、爆発的に卵塊は増えると思う。

今年は、gaku塾関係の知り合いに、私の散歩道のアカガエルの産卵の様子を見てもらうことにした。まるで、自分の子供を見てもらうような気持ちだ。産卵は夜行われるため、夕方集合して田んぼを見にいく。日没とともにどこからともなく少しずつ出てくるアカガエルの様子から見てもらおう。

とりあえず、観察の日の昼間に様子を見にいってみた。久々に太陽が顔を出し、気温が上がったこともあって、昼間なのに、あちこちでアカガエルの鳴き声が聴こえた。昼間なのに、あちこちにアカガエルの姿が見える。これは期待できるかもしれない。Akagaeru2009022801

もしかしたら、以前に見た、すさまじい大爆発のような風景が見られるかもしれない。

ところが、夕方近くになって、だんだんと気温が下がってきた。気温が下がると、アカガエルの活動が弱くなってしまう。そして、オスは出てくるけれど、メスがほとんどいないという状況になってくる。そんなことに気をもみながら、カエル観察ご一行様を案内した。

産卵観察ご一行様到着は夕方。少しずつ暗くなっていく田んぼは、昼間とは違い、とても静かになっている。Tambo20090228

アカガエルの姿もみえない。あれだけ昼間騒いでいたのに、また寝てしまったのだろうか。不思議なものであるが、まあ、なんとなくアカガエルの気持ちもわからないではない。

あたりが暗くなってくると、じわじわと地面からアカガエルが湧いてきた。さっきまで姿が見えなかったものが、一匹、また一匹と地面から出てきた。そろそろ宴が始まるのだ。Akagaeru2009022802

アカガエルの姿が随分と増えてきたかと思うと、あちこちで短いささやくような鳴き声が聴こえるようになった。

「あっ、鳴いた!」

「あっ、こっちで鳴いた!」

でも、鳴き声は長くは続かない。

しばらくすると、一匹の鳴き声に他のカエルが反応して鳴くようになってきた。鳴き声はさざなみのように、田んぼに広がっていく。

Akagaeru2009022803 抱接しているものも、ちらほら見られるが、メスの数が極端に少ない。やはり、気温が低いからメスがなかなか出てこないようだ。

そうして夜は更けていき、田んぼにはオスたちの、ささやくような声が、さざなみのように広がり続けるのだった。寒くても、オスは一生懸命鳴く。

こうして、私は、毎年、このお祭りを見守っている。ここは、いまや数少なくなった彼らの楽園だ。これからも、ずっとここで生まれ、ここで育っていって欲しい。そして、この時期だけの、彼らのささやくような歌声をずっとずっとききたい。

Akagaeru2009022804_2

彼らの美しい姿。美しい鳴き声。そして、彼らが必要とする微妙な環境のことを少しでも多くの人に知ってもらいたい。

まずは、この場所の彼らの存在に、多くの人に気付いてもらいたいと思う。

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2009年2月21日 (土)

春の始まり

昨日はザアザアと雨が降った。その後、北風がビュンビュン吹いた。日差しには春を感じるものの、北風が寒い。でも、散歩道は春の明るさ。ちょっとだけワクワクする。Sampoent20090221

散歩道に入っていって、一番最初にチェックすることがある。それは、散歩道の入り口の近くの松の木の下をチェックするのだ。

ここの松には夜な夜なリスがやってくるようで、時々、リスが松の実を食べた跡、いわゆるエビフライが落ちている。今日も新鮮なエビフライが落ちていた。Ebi20090221

エビフライはかなりの頻度で落ちているが、毎回というわけでもない。この道は綺麗に掃除されているようでもあり、また、風で飛ばされるということもあるだろう。私はこのエビフライを落とす主にはここで会ったことはないが、これを見るたびに、いつか会いたいと思う。

雨が降った後でもあり、田んぼには豊富に水があった。Tambo20090221

これだけの水があれば、アカガエルが産卵するには困らないだろう。もっとも、ここのアカガエルは以前書いたように、ずいぶんとネボスケである。私はこの田んぼとそのまわりの水路をくまなく探したが、どこにもアカガエルの卵がない。ちょっと残念な気もするが、でも、そうであれば、今年も産卵を見るチャンスがあるということだ。

田んぼのまわりには、オオイヌノフグリやヒメオドリコソウがもう咲いている。Ooinu20090221

この時期のオオイヌノフグリは青色が濃く、鮮やかだ。

そして、しばらく山の中を探検した。先日からノウサギの写真を撮ろうとしている場所にいく。藪の中を走るノウサギの後姿を見て、ここにノウサギが出没しているだろうという私の予想が当たって嬉しかった。ノウサギはそろそろ繁殖シーズンになり、走り回る。そうなれば、遭遇するチャンスも多くなる。

散歩道の日当たりの良い田んぼが、丁度いい具合(丁度いい具合というのは、アカガエルの産卵にとって丁度いい具合ということだが)に水をたくわえていたので、もしかしたら、と思って、田んぼのまわりをグルッとみてまわる。「まだ、ないかな?」「いや、あったあった!」Tamago20090221

アカガエルの卵だ。よくみると、卵の黒い部分が少し長細くなっている。これはもう産卵されてから1週間くらいたった卵だ。先週気付かなかったのは、私は「まだない」という先入観で見ていたからだろうと思う。

春は始まった。

今年はどんなドラマを見せてくれるのか。

花粉症の花をグスグスいわせながら、私はなんだかワクワクしてきた。毎年のことだけど、季節の始まりはワクワクする。

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2009年2月16日 (月)

散歩道プロジェクト6周年

今日は、散歩道プロジェクトの誕生日だ。6年前のあの日、私は何を考えたのか。思えば、その前日の夜にテレビで「もののけ姫」を見たことを覚えている。6年前の2月16日は雨の降る日だった。そして、デジカメ一つもって出かけて最初に撮った風景はこれである。Sampo20030216

これが、私が言うところ、砂漠エリアの6年前の姿である。これは6年前の姿だが、今の散歩道エリアと続くこの場所に、これ以前に何があったかは想像がつくだろう。私はその記録をとっていなかったことをとても悔やんだ。でも、それならば、このあとをずっと記録していこうと考えた。それが散歩道プロジェクトである。

それから週末のたびにカメラを持って歩く日々。最初は、家族も、まわりも、いったい私が何をしようとしているのかわからなかったと思う。でも、とにかく、何かに突き動かされていた。ここにある自然の素晴らしさを信じ、自然の営みの凄さを信じ、見つけたものを全て記録するのだという気持ちだった。誰も気付いていないからダメなんだ。誰もその貴重さ、素晴らしさに気付かないから、平気で失くしてしまうんだ。その思いが、来る日も来る日も私を歩かせた。それは、一つ一つ石を積み上げていくがごとくの作業であった。最初はなんにもない。少しずつ少しずつ、「散歩道日記」という形で石を積み上げていったのだ。Kunetoge20030223_2

やがてそれは、図鑑や物語へと発展し、このブログへと繋がる。

そうして発信していたことが、何人かの人の目にとまり、人との繋がりができた。一緒に歩いてくれる人、新しい発見をして教えてくれる人、地域の小さな新聞に記事を載せてくれたり、講演会を開いたりしてくれる人もいた。

去年、あるところで講演会を開くことが出来、そこに参加した人からこんな感想をきいた。

「私はこの地にきて数十年になるが、今までここは何にもないただの田舎だと思っていた。しかし、こんなに素晴らしい自然があって、足元にこんなに知らないことが沢山あると知って驚いた。これからは、散歩をしても見る眼が変わるだろう。」

これこそ、私がこの散歩道プロジェクトを通して、このまわりで暮らす人々に知って欲しかった、気付いて欲しかったことだ。

私が最初にやろうとしたことは、6年間で少しずつ前進してきた。だが、まだまだ私にはやりたいことがある。時にはしんどいこともある。でも、これだけは何があってもやりとげようと思う。ずっと見つめ、考え、発信しつづけること。それが私を少しずつ育ててくれる。

愛する散歩道と、散歩道プロジェクトで繋がりの出来た多くの人々に感謝しつつ。

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