2012年1月28日 (土)

ノウサギは雪が好きなのか?

先週の週末はずっと雪や雨。いつものように散歩道に行くことができなかった。首都圏は雪で混乱した。東京では何年ぶりかの数センチの積雪だったようだが、ここ千葉の丘陵地帯では、数センチの積雪は毎年1度はある。

Yuki2012012801 それから一週間ほど過ぎたが、散歩道には雪がずいぶんと残っていた。ちょっと疲れ気味の私だったが、散歩道に残る雪を見て、ちょっとワクワクした。雪が降ると、雪の上に、色んな動物の足跡が残るので、それを探すのが楽しいのだ。

今は本当に季節の底。今年の冬は寒く、寒いのが苦手な私は、このところ毎日の寒さにうんざりする。Yuki2012012802 田んぼの畦の植物たちは、ロゼットを作り、一生懸命地面に張り付いて、なんとかこの寒さを乗り越えようとしている。

大雪から一週間近くたち、街では、日陰に雪がのこるものの、ほとんどとけてしまっている。だが、この谷津田の散歩道は、気温が低く、雪が随分と残っている。Yuki2012012804 日陰の雪は、まだフワフワとした感触で、歩くと、フワッとした感触とともに雪の中に足がキュッキュッと、めり込む。これは降ってから一度もとけていないということだろう。谷底の日陰の地面近くはずっと氷点下なのだ。

Yuki2012012803 ひなたの雪は完全にとけていて、その境界がはっきりとしている。

雪の上の動物の足跡、いろんな足跡があるが、人間の足跡もある。そして人間と一緒に歩く、犬の足跡。また、自由に歩き回る猫の足跡もあちこちにある。

きまって、雪の上に見ることができる特徴的な足跡に、ノウサギの足跡がある。ケンケンパ、ケンケンパという特徴的な足跡はすぐにわかる。Yuki2012012805 私は数年前にノウサギに遭遇して以来、実際にノウサギを見ることはほとんどなかったが、雪の後に散歩道にいくと、必ずノウサギの足跡がある。彼らが夜行性であることもあろうが、それにしても、ノウサギは雪の上を好んで歩いているのではないか?と思うことがある。

日陰の田んぼの畦。そこが一番フワフワの雪が残っている場所なのだが、ノウサギはそこを選んだかのように、足跡をつけているようにさえ思える。もっとも、それは、その場所が一番しっかりと足跡が残っているからであろうが。

足跡から、雪の後にノウサギが田んぼの畦を走り回っている姿を想像する。かれらは、普段、滅多に私たちの前に姿を現さないが、縦横無尽に走り回っているということだろう。そして、まもなく彼らの繁殖時期がやってくる。ノウサギのオスは縄張り争いをし、メスをおいかけて走りまわるようになる。そして、時には交通事故にあってしまうものもいる。ノウサギは私たちの知らないところで、走り回っているのだ。

| | コメント (0)

2012年1月 8日 (日)

散歩道プロジェクト10年目に向けて始動

今年初の散歩はやはり神社への初詣から始まった。数年前は何度か三箇日に参拝し、お神酒をいただいて良い気分で帰ったこともあったなと思いだす。神様と酒を酌み交わしたんだよと、誰かが言っていた。ここ数年は三が日に参拝することはなく、その年の最初の散歩で参拝する。昨日の最初の散歩、初詣をして、そのまままっすぐ帰宅した。

今日、新たな気持ちで散歩する。短い午後に、あそこにもいこう、ここにもいこう、などと考えを巡らせつつ。散歩道はまるっきり冬の風景だ。Sampo2012010801 時折北風が吹く。寒さに背中をまるめているからか、道端の枯れ草がやたらと目につく。風が吹くと、枯れ草が静かに揺れる。寒い。風の音だけが、ザワザワと通り過ぎる。Sampo2012010802 時々、遠くでカラスがカア、カアと鳴く。雲にかくれていた太陽が、一瞬顔を出し、木漏れ日を作る。木漏れ日は静かに揺れる。林の中から、ジュリジュリとメジロが鳴く。やがてガラの群れがにぎやかにさえずり、枝と枝の間を飛び回りながら通り過ぎていく。

私は目を大きく見開き、耳を澄ませ、空気を沢山吸い込んで、あたりの香りを感じながら歩く。全身で寒さをかんじながら、どんどん傾いていく冬の午後の日差しを感じつつ。Sampo2012010803 道端の水路はすっかり凍っている。透明な氷に閉じ込められた枯葉に透き通る冷たさを感じる。

Sampo2012010804 冬の空というと、どこまでも青く、透き通っている印象だが、今日は雲が多く、木々の間から見える空はまた違った様子。木々の間から空を見ていると、今、この冬の風景の中にぽつんと自分がいることを、まるで空から見下ろしているかのように感じることができる。

Sampo2012010805 森の中を歩く。カサカサとかわいた落ち葉を踏みしめて歩く。坂道では、幾重にも重なった落ち葉が滑るので、足を滑らせそうになりながら用心して歩く。

今日は時間がたっぷりあるからと思って、森を抜け、河原を歩き、また谷津田の散歩道に戻ってきたら、もうずいぶんと日が暮れていた。谷津田は日が暮れると、急激に寒くなる。谷の斜面を冷えた空気が下ってくるのがわかる。そして、谷には、スポットライトがあたったかのように、わずかに日が当たる場所が残る。Sampo2012010806 それにしても、なんて美しい谷津田なんだろう。そして、そのまわりの私のいつもの散歩道は、なんて素晴らしい自然なのだろう。これほどまでに色んなものが凝縮されて、数多くの生き物を育んでいる。そうして、季節毎に多様な風景を見せてくれる。こんなに沢山のものが凝縮された自然は、他にはそうあるものではない。

Sampo2012010807 今年の2月で散歩道プロジェクトは9周年を迎える。そして、私の散歩道日記も10年目に突入する。こうして歩いて、写真をとって残そうと思ったこの場所の自然。ただ歩いているだけでは見えないものが沢山あったことに気付く。もしかしたら、誰にも気付かれることなく、消えていく運命だったかもしれないこの自然を、なんとか記録しようと始めたのが散歩道プロジェクトだ。当初は、自分でも不思議なくらいのエネルギーで、とにかく写真を撮り続けていた。一年後に振り返った時には不思議に思ったものだ。

色んなことがあった。それからもう、私はこの散歩道を写真を撮りながら歩かない生活は考えられなくなった。当然ながら歳もとった。デジカメの画面を細かく見るために、メガネを外すことが多くなった。ここで一緒に虫を追いかけた子供たちも随分大きくなった。愛する散歩道は少しずつ変わりながらも、ずっとそこにあった。ずっと歩くことが出来た。生き物とも仲良くなった。深くかかわった生き物も出来た。

来年迎える10周年に向けて、正月に計画を立てようとおもった。そして、歩きながら考えた。10周年に向けて、沢山色んなことをやろうと思う。これまでの10年を振り返り、次の10年に向けて新たな一歩を踏み出そう。実際、この10年、色んなことに悩んだこともあった。しかし、悩んだ時は、何も考えずに歩くこともまた何か新しい発見をもたらしてくれるだろうと思って歩くことにした。歩き続けることは、それだけで色んなことを教えてくれると信じて。歩き続けた今までを振り返り、今年は10周年に向けた充実した1年にしたい。

| | コメント (4)

2011年12月25日 (日)

季節の底

冬至が過ぎたばかりの散歩道。貴重な冬の日差しをあびながら歩く。空が一年で一番青くなるこの時期、乾いた北風が吹いて落ち葉を吹き飛ばす。子供たちが遊ぶ声が遠くからきこえてくる。Sampoent20111225 朝の散歩道、日陰は真っ白い霜で覆われる。次第に太陽が高くなり、日なたが移動する。そうして霜がとけていく。地面を見ると、そこには霜のミクロな美しい世界がある。Shimo20111225 自然はこんな風にミクロなものから大きなものへと何層にも重なる。

冬の朝は小鳥たちがにぎやかだ。コゲラやシジュウカラ、そしてメジロにエナガ。木々の枝の間を、飛び回る小鳥たち。枝が揺れて、かろうじて枝につながっていた落ち葉を落とす。

Kunetoge20111225 くねくね峠はすっかり明るくなった。まわりのコナラやクヌギはほとんど葉を落として、冬の日差しが、地面に沢山つもった落ち葉の上に降り注ぐ。そうして、やがて地面は暖まる。春一番にはここから様々な花が咲く。今はそのための準備期間。

上を見上げると、真っ青な空に枯れ枝が血管のように伸びる。Eda20111225 それは、地面から空へと伸びる血管だ。枝は空から降り注ぐ太陽の光をしっかりと受け止めるために、縦横無尽に伸びている。

静寂と、空気と、空の色。水は澄み、キラキラと光る。今は一年の底。Sasa20111225 季節の底だ。一年を振り返り、まためぐってくる季節に思いをはせる時。一人で歩く散歩は、様々なことを思い起こす時間。様々なことを考える時間だ。季節の底は、静けさの中、じっくりと自分と向き合うことが出来る。私にとってこの一年はどうだったのか?そうしてまた一年、どのように過ごすのか?

Yatsuda20111225 まためぐってくる賑やかな季節に思いをはせながら。季節はあっという間に過ぎる。けれど、その中で自然は本当に色んなものを見せてくれる。こうしてただ歩いているだけで、沢山のものを見せてくれた散歩道に今年も「ありがとう」と言おう。

| | コメント (3)

2011年12月10日 (土)

落ち葉が雨のごとく

今年の11月の気温は比較的高く推移した。12月に入ってから少し冬らしくなり、ここ数日で一気に寒くなった。今朝、起きてみると一面霜で真っ白。部活のため中学校まで自転車で通う次女が、自転車では危険そうだというので、学校まで送っていけという。車も車で凍結路面でスリップしないか気になりつつも、無事中学校まで送りとどけた。

今日は久々の冬晴れ。快晴の青空が広がっている。こういう冬晴れの日は、全ての色彩が鮮やかで気持ちいい。昼の用事を済ませて、散歩道に向かう。久しぶりにワクワクした。Sampoent20111210 つい先日まで、最後まで生き残ったカネタタキが草むらで小さく「チン、チン、チン...」と鳴いていたのも、もうすっかり静かになり、静寂の冬が来た。少し風が吹くと、落ち葉がパラパラと雨のような音をたてて降ってくる。今日はこんな青空だから、雨が降ってきたとは思わないが、今にも雨の降りそうな曇り空だったら、落ち葉の音に騙されるに違いない。

地面は霜がとけてぬかるんでいる。霜がとけたあとのぬかるみは滑りやすいので、用心して進む。今まで何度あぜ道で滑って転んだことか。

くねくね峠へと向かっていくと、向こうからトンボの最後の生き残りが飛んでくる。マユタテアカネだろう。最盛期は真っ赤になるのだが、冬になると、だんだんと枯葉色にかわってくる。これが最後の生き残り。12月末までは、かろうじているが、年があけるとみかけなくなる。ヒラヒラと地面すれすれに飛んできて、私の足元につかまった。Tombo20111210

くねくね峠。Kunetoge20111210 もう、くねくねの主も冬眠しているのだろう、このところいつもの穴にいることはないが、それでも毎回穴をのぞきにいってしまう。

Konara20111210 コナラの林を見上げると、ヒラヒラと沢山の落ち葉が舞い降りてくる。今が落ち葉を落とす最盛期。年末にはすっかり葉は落ちてしまう。一時期、葉の色がおかしくて心配したが、今はいつも通りの色だ。しかし、今年はこんな落ち葉にも放射能のことを気にしなくてはならない。そんなことは、こんな風景からはまったくわからない。

くねくね谷が最も色鮮やかになるのは、この紅葉の時期と、そして、春、田んぼに水が入る時期。今は空も鮮やかで本当に色彩が濃い。Kunekune20111210 ここは羽田に降りる飛行機の通り道でもある。ときおり、ゴーッと飛行機が飛んでいくが、そのあとにうっすらと飛行機雲。それが広がっていき、うっすらとした筋になる。

何も考えず、静かにたたずむ。そして、静かに歩く。カサカサと落ち葉を踏みながら。

県道近くにあるモミジ。竹やぶとモミジのグラデーションが美しく、いつもここで立ち止まってしまう。Momiji20111210 冬の散歩は本当に静かに、心も静かに無心で歩く。昨日までの喧騒をすっかり忘れ、心が空っぽになる。心を空っぽにしながら、眩しい冬の日差しを浴びて歩く。そうして、短い昼間があっという間に終わる。それが冬の昼間の散歩。私はこの静かな時間がたまらなく好きだ。

| | コメント (3)

2011年11月 5日 (土)

曇り空の秋の午後に

このところ落ち着かない毎日を過ごしてきたように思う。音楽を聴いても、耳に入ってこない。せわしい毎日、色んな事をこなすのに必死で、心に余裕がないのかもしれない。そんな中、どんよりと曇り空の下、散歩に出かけてみたら、今日は落ち着いて歩ける気がした。散歩に出かける時、「今日はあのあたりを歩いてみよう」と思うのだが、珍しく、森の道から川沿いを歩いてみたくなった。森の道を歩く時、何故か自分自身とじっくり向き合い、自分の心とじっくり会話することが出来るように思う。

Sampo2011110501 散歩道はすっかり秋の色だ。意外なことに思うかもしれないが、秋はカエルがよく鳴く。今日もアマガエルがグワッグワッとあちこちで鳴いている。藪の中からウグイスのジッジッという地鳴き。地面からはコオロギたちが静かにないている。あたりは野焼きの煙でもやっている。野焼きの煙。これもまた秋の風景だ。Sampo2011110502 道端の菊をみながら歩く。菊といっても色々ある。Sampo2011110503 今、道端には、リュウノウギクにシロヤマギク、シロヨメナ、ヨメナなどなど、静かに咲いているという印象だ。春の花が、パッと明るく咲く印象にくらべ、本当に静かに落ち着いて咲いているという感じがするのは何故だろう?Sampo2011110504 花を見る人間の気持ちの問題なのかな?とも思う。色の乏しい冬を越え、明るくなっていく春に、色彩を与えてくれる春の花。それに対して、生き物が激しく命を燃やした夏が終わり、次第に静かに色が落ちていく秋。秋の花は色彩が穏やかに思う。実際、白や紫の花が多い。

Sampo2011110505 道端にピョコンとイナゴのカップルが飛び出した。暮れゆく季節、次の季節に命をつないでいく彼ら。イナゴも秋が深まるにつれて色が少しずつ枯葉色になってゆく。

道端からフワフワとオオアオイトトンボが飛んだ。フワフワと数匹が飛んで、目の前で2匹が一本につながったのだ。Sampo2011110506 この季節、こうしてつながって飛ぶ彼ら。夕日に向かってフワフワと飛ぶ沢山の彼らを見る時、その命のいとなみが、私が生まれるずっとずっと昔から延々と続いてきたのだなということに思いをはせ、気の遠くなるような時の流れ、数限りない地球の回転を感じるのだ。

Sampo2011110507 森の道を歩いて行くと、道端にひときわ目をひく花があった。トリカブトだ。こんなところにあったのか?いや、去年はみなかった。ただ私が見つけることが出来ていなかっただけなのかもしれない。草花も、年々と少しずつ生える場所を変えていく。ずっとそこにあると思っていたものが消え去り、また別なところからひょっこり現れる。いままでそこになかったものがある日突然現れる。自然はじっとしているのではない。動いているのだ。それはここの自然が自分の力で生きている証だろう。

Kawa20111105 森の道を抜け、川のほとりをずっと歩いていく。川辺にある田んぼで、キジがけたたましく鳴く。見ると、田んぼに数羽のキジが歩いている。犬の散歩をしている子供連れの人に「ほら、キジがいるよ」と言う。すると、「ずっとつがいでいたのに、今日はオスが2羽。どうしたんだろう?」という。確かに、オスと、そしてカラス。

Sampo2011110508 道端には大量のカナムグラ。道端で実をつけているのがとても気になった。そう、これはいわゆるビールに使われるホップの親戚だ。気になったので、実を一つ摘んで香りを確かめる。しかし、青臭い草の香りのようなものしか感じない。でも、悪い香りではない。大量に集めれば、なかなか良い香りかもしれない。

川を見ながらゆっくり歩く。ずいぶん日が暮れてきて、あたりはうす暗くなってくる。モズがギチギチとけたたましく鳴く。この季節、モズの声があちこちで鳴り響く。「モズってうるさいなあ」などと独り言をいう。

川にはカルガモの群れがところどころに見える。そうしてみていたら、川辺にイソシギがいたので、写真を撮ろうかとカメラを向けたら飛んで行った。残念がっている、その直後をカワセミが飛んで行った。あわててカメラで追いかける。Sampo2011110509 カワセミは素早く、もうあたりは随分暗くなっていたので、ちゃんとした写真は撮れなかった。少しだけ残念。でも、いつもは、あっという間に過ぎていくので、撮ることも難しいのだけれど。もっとも、ずっと待ち構えていれば撮れるだろうけど。

散歩道、ぐるっとまわって東のメイン通りまでやってきたとき、近くの田んぼで草刈り機の音が響いていた。その音を聴いた時、私の中の何かがジワジワとよみがえってきた。そうだ、あの音を聴きながら、こうしていつも歩いていたのではないか?それが私の散歩の風景。せわしなく日々を過ごしていた私の心に、忘れかけていたものがすっとよみがえってくる。今日は本当に珍しく落ち着いている。日々、あれやこれやとせわしなく色んなことを考え過ぎていた。そんなことより、こうして季節を感じて歩けたこと。そのことがじわっと心に広がった。Sampo2011110510 ザクザクと音をたてて歩く砂利道に目を落とすと、小さな虫が歩いていた。そうだ、こんな風に様々な生き物を見て、感じて歩いてきたんじゃないか。今、また、新鮮な気持ちで歩き始めることが出来る気がした。また、季節はめぐってくる。また歩こう。ずっと歩こう。

| | コメント (0)

2011年10月10日 (月)

この秋の異変

土曜、日曜の昼間に仕事で出かけることが多い妻が、久しぶりの日曜日の休日に庭仕事をしている。庭仕事といっても、草をとったり木の枝を少し剪定したり、そんなことなのだけれど。妻は庭の草木とたわむれるのが好きなようだ。剪定ばさみの音がチョキンチョキンと鳴り響く。そして、それはあたりが暗くなるまで続く。庭の草木や、そこにすむ生き物と接して、色んな発見をする。遠く散歩に出かける私に「自然観察なんて庭でもできるんだよ。こんな庭だっていろんなものがいるよ」という。確かに、一日見ていても飽きないほどにいろんなものがいる。Yochu2011101001 今日も何気なくみていたユズリハの木に、なにやら丸い葉っぱ?いや、これは蛾の幼虫。おそらくスズメガの仲間、模様からしてクチバスズメかな?を発見した。ちょっと驚いた。

そんな風にいつも小さな庭の自然をよく見ている妻に、最近気になることがあるので、きいてみた。

「今年は葉っぱが早く枯れない?」

するとやはりそうだという。特に常緑で枯れない筈のグレープフルーツの木の葉の上の方がかなり枯れているという。他にも、枯れている葉が庭には沢山あった。Kareha2011101002 妻が庭の木をよく見ているように、私は毎日電車の中から外の風景をよく見る。すると、8月の終わり頃から、線路わきの草がことごとく枯れていくのを見た。9月に入った頃、それはもうまるで真冬のようであった。

その頃、庭の草は元気に青々と伸びていたのだが、近くの空き地などでも一面の枯れ草の場所がある。Kareha2011101003_3 最初は除草剤でも撒いたのかと思ったのだけれど、草がぼうぼうに伸びた空き地に草刈りもせずにいきなり除草剤なんて撒くだろうか?それに、線路わきに延々と除草剤を撒くとは思えない。9月でこんな風景になるとはちょっと驚きである。

このあたりによくあるコナラの木も、かなり汚れたようになっている。毎年ずっと見ているからわかるが、コナラは例年11月の終わり頃に、きれいに紅葉し、12月頃、パラパラと雨が降るように葉っぱが落ちてくる。夏の天候によっては、紅葉の色が汚くなることもあるが、10月からこんなに汚く枯れてしまう年は記憶にない。今は、他の木も含めて、雑木林全体が汚く枯れてくすんだ色になっている。Kareha2011101004 さて、去年はどうだったのだろうかと、コナラの森の定点観測写真を出してみる。Kyonen2010101101 この写真は去年、2010年の10月11日の写真である。この木のほとんどがコナラなのだが、まだ綺麗な緑色をしている。そこと同じ場所でとった今日、2011年10月10日の写真。Kareha2011101005 光線の加減も多少はあると思うが、明らかに色が違う。くすんだ茶色だ。

とにかく、今はあちこちで葉っぱが汚く枯れているのを見る。

季節の進行具合もあるかもしれないと思い、去年、2010年の11月13日の写真を見てみる。Kareha20101113 11月でもまだこんなに緑色だ。

もっとも、年によって葉っぱの色は違ってくるから、今年のようにいきなり汚くくすんだ色になる年もあるかもしれないからと、過去の写真をずっと見てみた。たとえば2009年11月7日の写真は、Koareha20111107 このようにまだ緑だ。10月の中旬前に既にくすんだ茶色というか灰色がかった色になっていることはいまだかつてないようだ。

私がもう5年以上も同じ場所、同じアングル、同じカメラで撮り続けている場所の写真がある。その場所の今日、2011年10月10日の写真。Kunetoge20111010 別にどうってことない写真だが、奥の方にあるコナラの葉っぱは既に茶色になってきている。

去年、2010年10月11日の写真はこれだ。Kunetoge20101011 多少、ホワイトバランスの違いはあるのでそのまま比較するのは難しいが、それでもまだまだ青々としている。

一昨年の2009年10月13日の写真はKunetoge20091013 これまた光線の加減もあるのでなんとも言えないが。

とにかく、定点観測を続けてきているので、こういう比較が出来る。そして今年は何か違うということは私の感覚のアンテナに届いているものがある。これが何によるものなのか?季節の移り変わり、天候、気温の変化、そういうものの違いで毎年微妙に違うものだが、今年はそれ以上に気になることがある。

さて、毎日乗る電車にも最近、見たことのない変化がある。それは、アルミの車両の壁面にシミのような錆のような痕がついている。最初は、「なんだ、この電車、汚れているな」と、思っていたのだが、それがその電車だけではなく、何度も、あちこちで見かけるようになった。Denshoku2011100101 何か、水滴(雨?)がついたあとが、錆びたようになっている。単なる汚れではなさそうだ。

これ、別の路線でも同じようになっているところを見た。2011100607340000 これはいったい何だろう?単なる汚れではなさそうだ。

電蝕?直観的にそう思った。電蝕とは、イオン化傾向の異なる金属同士が接触すると、接触面に電位が生じ、そこに電流が流れるため錆びたりする現象である。

イオン化傾向....イオン化傾向の高い金属に気になるものがある。それは、セシウムだ。もっとも、これが電蝕とは限らないだろうし、仮に電蝕だとしても、原因がセシウムとは限らない。また、まったく違う他の可能性も含めて考えなければならないだろう。

しかし、身の回りの変化をキャッチすることは、どんな場合でも必要だ。そのためには、しっかりご身の回りを見続けていくことだろう。世の中に溢れる情報には騙されても、自分の目で見て確かめたことには騙されることはない。

| | コメント (0)

2011年10月 2日 (日)

秋の訪れと新たな発見

あっという間に秋が来た。今年の9月はいつもとは少し違った過ごし方をした。そういうこともあって、散歩道をじっくり歩く頻度も少なかった。いつも思うのだが、散歩道の自然の中を歩くということは、自然の中の自分をとりもどす時間でもある。ゆっくりといろんなものを見ながら、五感をつかって、ありとあらゆる自然の中のものを感じてあるいていき、自然の中のリズムと取り戻す。普段、いかに自分が日々の雑多なことに追われているのかに気付く。人間社会のいろんなものにがんじがらめになりながら、毎日を過ごしている。おそらく、自然と接する時間がなかったら、人間社会のゴタゴタが生活の全てになり、いつの間にか自然との接点がなくなっていくのだろう。

 多くの現代の人々はそうして自然との接点がどんどん希薄になっていく。だから、身近な自然がいったいどうなっているか見ることも出来ないまま、一度もみたことのないホッキョクグマが温暖化で絶滅するといった大規模な詐欺に騙される。そうして、二酸化炭素を出さないようにしたり、ゴミをリサイクルすることが地球にやさしいなどと、無批判に受け入れる。多くの人を絶望のふちに追いやっている原子力でさえ、ほとんど自分の頭で考えることなく、「なくては困る」キャンペーンに騙されかける。そうして、目の前の自然がことごとくゼロにされていくことに気付くこともないのだろう。なぜなら、目の前の自然を見たり感じたりする時間が限りなくゼロに近いのだから。見えていないものは見えていない人には最初からゼロだ。そんな人々が平気で「自然を大切に」だの「地球に優しく」だのという。ほとんど詐欺だ。偉そうに、地球温暖化や環境問題を知ったかぶりをして語っている人々はよく自分の胸に手を当てて考えてもらいたい。あなたは、自分が住んでいる半径10kmの自然がどうなっていて、そこに何が生きていて、それがどういう現実にさらされているか述べてみよ。それが述べられないのであれば、それをさらに100kmに広げてもいい。1000kmでもいいぞ。広いから難しいというのなら、1kmにしてもいいぞ。500mでもいいし、100mでもいい。さあ、どうだ。Sampo2011100201 ついつい熱くなってしまったが、散歩道はすっかり涼しくなった。まず耳につくのがカネタタキのチンチンという声。つい先日までは蝉時雨だったというのに。そして、モズがけたたましい声で鳴く。そんな音風景の中を歩いていく。田んぼはすっかり稲刈りがすんでいる。

そんな中を静かに静かに歩いていく。暑い日にはよく「くねくねの主」に会った。くねくねの主は暑いと出歩くのを躊躇するのだろうと思う。土手の穴の中は涼しいことだろう。しかし、涼しくなった今は留守が多くなった。少し寂しい。

目の前をスズメバチが横切る。自然と緊張する。気がつくと、汗をかいている。Suzume2011100201 秋はスズメバチの活動が活発になる季節でもある。ブーンと大きな羽音をさせて突進してくるスズメバチ。最初のブーンとやってくる一撃。時に、身体にカチンとぶつかってくることもあるが、その最初の一撃でその場を去ることが大切だ。そうそう、今の季節は地面も油断ならない。マムシの動きも活発だからだ。ちょっとした緊張感とともに歩く。

稲刈りが終わった田んぼでは、カラスが集会を開いていた。大量のカラス。近づくと、カアカアと大騒ぎをしながら散り散りに飛び去る。Karasu2011100201 稲刈りの終わった田んぼは餌の宝庫なのだろう。カラスの他にもキジバトが何かをついばみながら歩いている。

今日は涼しいし、時間もあるので、最近あまり歩いていなかったコースを歩こう。道端はすっかり秋の草花になっている。黄色いのはキバナアキギリ。Kibana2011100201 そしてシロヤマギクにシロヨメナの白い花が点々とある。ヒガンバナが田んぼの畦に赤いじゅうたんのようになっている。Higanbana2011100201 色とりどりの花。春の花のキラキラと光るような色彩とは違い、しっとりと、しかし、しっかりと色づく秋の花。

そうして歩いていると、紫色の花が一面に咲いているのを発見した。Tsurifune2011100201_2 なんだろうこれは?みると、それはツリフネソウの群生だった。確か、数年前にここでツリフネソウが咲いているのを見たが、それはこんなに沢山はなかった。それがいつの間に増えたのだろう。Tsurifune2011100202 もう、他の植物を圧倒するがごときツリフネソウの群生だ。そいつはもう近くの竹やぶまで広がり、竹を追いやりそうな勢いだ(竹を追いやることはないとは思うが)。その不思議な形をした花を立ち止まってしばし見とれる。ああ、しかし、この花に気付いている人がどれだけいるだろうか?ここを散歩している人は沢山いるのだがなあ。これだけ沢山咲いているのだがなあ。

それよりも、人々は先のヒガンバナやあるいはコスモスを注目する。それはおそらく「知っている花」だからだろう。こんなに不思議な花がこんなに大量に咲いていて、誰も何にも気付かずに通り過ぎる。それでいて一面に咲いている、ヒガンバナやコスモスを指差して「きれいだね」などと言っている。Cosomos2011100201 知らない花はみんな雑草。見えもしないのだ。

今日は随分歩きまわった。少し暗くなって家にたどりつく。そういえば、昨日、妻が庭にアシナガバチの巣を発見したといってたっけ。そう思って用心しながら探す。あったあった!Ashinaga2011100201 しかし、随分低いところにあるな。アシナガバチが低いところに巣を作る年には、台風が上陸するらしい。そういえば、もうすでに上陸したなあ。この先も台風注意か。それと、こいつらに刺されないように気をつけないと。

| | コメント (2)

2011年9月18日 (日)

さよならヤモリ

ある日どこからともなく我が家にやってきたヤモリ。うちの猫につかまって、死んでしまった。玄関脇に置いておいたらダンゴムシが来た。ダンゴムシは枯葉などの植物の残骸を食べて分解するのだと思っていたが、動物の死骸も食べるのか。Bikkuri2011090803 ヤモリはおそらく、家の明かりに集まってくる昆虫を目当てに我が家にやってきた。そして餌が沢山ある環境を気に入り、住み着いた。

ただ、家の中に入ってはいけなかったのだ。そこには天敵(猫)がいた。猫が食べてしまう前に、人間に見つかり、引き離されたものの、致命傷を負った身体ではもはや歩くこともできなかった。もし、最後の力を振り絞って歩くことが出来たとしても、そんな身体では餌を得ることは出来ないだろう。

その死のにおいをかぎつけて、ダンゴムシがやってきた。大きい大人のダンゴムシも、小さい子供のダンゴムシも、ごちそうにかぶりつく。

翌日にはあばら骨が見えていた。金色に光っていた目の輝きは消えた。Yamri2011090901 さらに翌日は、ダンゴムシが引っ張り合いをしたのか、あるいは風で飛ばされたのか、向きがかわっていた。さらに分解は進んだ。Yamori2011091001 さらに翌日、そこにヤモリもダンゴムシもいなかった。

ヤモリの身体はダンゴムシの栄養となり、ダンゴムシは他の昆虫や昆虫を食べる生き物の餌となり、また、ダンゴムシの糞は土の中で分解されて、植物の栄養となる。そうして、何十年、何百年という長い時間の中で物質が循環する。いろんなものに形を変え、いろんな時を経て、数千年後には再びヤモリになっているかもしれない。そして再びヤモリとなった時、そこにどんな世界が広がっているだろうか?もっとも、ヤモリが生きられる環境がそこに残っていればだが。

| | コメント (0)

2011年9月 9日 (金)

我が家のヤモリ

子供の頃、私の生まれ育った尾道の実家では、夏になると窓辺に毎晩ヤモリがやってきていた。吸盤のある足でペタペタと窓ガラスにはりついて動く様子は、とても愛らしかった。子供の私は一度そいつを捕まえたくてしかたなかった。だが、窓にはりついて動く様子からは想像できないほど、そいつはすばしっこく、なかなか捕まえることはできなかった。

ある日、部屋の中にはいってきたそいつを部屋の隅までなんとか追い詰めて、捕まえられそうになった。間近でみるそいつは、眼が金色にキラキラと輝いていた。その眼の輝きにビックリして覗き込んでいる私にむかって、ピョンっと飛びかかり、サササッと家具の隙間に逃げ込んだ。

千葉の今の住まい。まわりは自然だらけ。夜になればいろんな虫が飛んでくる。昨夜はカマキリモドキも飛んできた。Bikkuri2011090802 カマキリモドキという虫、図鑑では見たことがあったが、実物は初めてみた。世にも不思議な格好をした虫だ。カマキリとは何の関係もない虫なのに、こんなにソックリというところに世の中の不思議を感じる。

そんな様々な生き物がやってくる我が家。ここに移り住んでもう十数年になるのに、ヤモリを見たことがなかった。ヤモリの餌となる昆虫は無数にいるのに、ヤモリがどうしていないのか不思議だった。それでもいつかヤモリがきてくれるような気がしていた。

そして、今年、次女が我が家の窓に張り付いているヤモリを初めて見つけた。中学生の女の子だが、爬虫類などが好きな彼女は、「ホント、かわいいんだよ!」といってケイタイで撮った写真を私に見せてくれた。私も、ようやくヤモリが来てくれたかと喜んだ。

昨夜、うちの猫がヤモリを咥えているのを次女が発見した。次女はあわててヤモリを猫からとりあげたが、牙が身体を貫通しており、生きてはいるが相当に弱っていた。次女はそいつを玄関わきにそっと置いておいた。まだ逃げる元気があれば、そのうちどこかにいくだろう。そう思った。

夜もふけ、さあそろそろ寝ようかという頃、「ヤモリはどうなっただろう?」という次女。わたしと次女は、玄関わきのヤモリを見に行った。懐中電灯で照らしてみると、残念ながら、そいつはもうダメだった。無数のダンゴムシがヤモリの身体にかじりついていた。しかし、その眼はしっかりと見開かれ、金色に光っていた。私が初めてヤモリの眼を見た時の、その綺麗な眼だった。やがて、ヤモリは虫たちに食べられて綺麗になくなってしまうだろう。どこからかやってきたヤモリ。どこかにすっかり消えていく。Bikkuri2011090803

| | コメント (2)

2011年9月 4日 (日)

時には感情的になることも必要だ

いつのまにか秋になろうとしている。歩みの遅い台風がやってきて、紀伊半島などでは大きな被害をもたらした。こちら千葉では、たいした被害もなかった。時折、スコールがやってきて、散歩中に雨宿りをすることがあったくらいだ。

8月は毎年忙しい。今年も例年通りの忙しさで8月が過ぎていった。これ以上ないくらいにクタクタになった。散歩に出かけても、いつもの1/3くらい歩いただけで疲れて帰ってしまうくらいだ。

Sampo201100400 9月の谷津田はすっかり黄金色。ところどころで稲刈りが行われている。すでに稲刈りが終わった田んぼもある。そんな中を久しぶりに自然を感じながら歩く。日々の雑多なことを回すことに必死で、自然と接してこなかった8月だ。ちょっと季節が飛んでしまった感じがする。汗をたらしながら歩く夏の日々が今年は例年より少なかった。

ツクツクホウシの大合唱の中を歩く。ふと20年前のことを思い出す。妻と初めて歩いた千葉の谷津田。ここよりも、いくらか北の、北総とよばれるあたり。都会に住んでいた私たちにはとても新鮮だった。ちょうど、田んぼは黄金色になり、様々な色のトンボが飛び交い、蝶がヒラヒラと飛ぶ。そんな中を一日中歩いた。一日中歩いても、飽きることもなく、どこまで行っても谷津田の風景だった。それが私と千葉の谷津田の出会いだった。

千葉は、どこまでいっても平坦で、森もほとんど平坦なところにある。これが驚きだった。私の生まれ育った広島では、森というのは山にある。平坦なところは街や田んぼで、森は平坦なところにはないものだ。だから、それがとても新鮮だった。

それからしばらくして、この地に来て、この周辺にも素晴らしい谷津田が広がることを知り、その美しさ、素晴らしさに魅せられた。道端には様々な草花。ありとあらゆる形をした昆虫がそこかしこにいて、色とりどりのトンボが飛び交い、蝶が舞う。一日歩いても、飽きることのない素晴らしい自然。

しかし、それから、その自然が日々失われているのを目の当たりにすることになる。都会に隣接したこの地は、都会がどんどん押し寄せてくる。それまで谷津田だったところがことごとくタダの荒れ地になり、ただの砂漠になり、そしてどこにでもあるスーパーが出来、マンションが建つ。そのことを何年も目の当たりにしてきた。大好きだった自然。自分の中の大事な思い出、記憶。それらがどんどん失われていく。

やがて子供が生まれて、子供たちにみせてやりたいものが、このままでは何もなくなってしまうという危機感。それが私の「散歩道プロジェクト」の原点だった。しっかり自然を見よう。しっかり記録しよう。そう思ってひたすら記録を続け、考え、悩み、今日までやってきた。

その動機に理屈なんか一つもない。感情だけに動かされてきたといっても過言ではない。ただ、人々に説明するときには、理屈の一つも付け加えなければ、誰も振り向いてくれないのではないか?とは思うこともあったが。

3月の震災で、生まれ育った土地を完全に失ってしまった人々が信じられないくらい沢山いる。ひたすら電気を使い、お金を儲けたい人々は、そんな人々にさえ、理屈を強要してはいないか?感情的になってどこが悪い!人間は理性だけで生きてきたのでは決してない。感情的なことから進歩だってあり得る。不治の病で家族を亡くした人が、その病気について一生をささげて研究し、ついに治療方法を発見した、という話しが世間的には美談として語られることがあろう。その動機は理屈ではない。感情的なものであろう。感情的になってどこが悪い。それより、日本人はもっと感情的になっていい。もっと感情的になるべきだ。何万人という人々が家を失い、生まれ育った土地に一生帰ることが出来ないかもしれないというのに、どうして、それと同じ過ちを犯そうとするのか。どうして生き方を根本的に考え直すことが出来ないのか?

Sampo2011090401 谷津田を歩いていると、クズの花の甘い香りがただよってくる。こういうところで、日々の糧を得て、日々、家族を養うことが出来て、日々、自然を感じることが出来て、ごく当たり前の一生を終えることが出来るならば、それだけで充分すぎるくらい幸せだ。

取り返しのつかないほど自然を破壊しなくとも、無駄に電気を浪費し、何万人という人を不幸のどん底に陥れる必要なってどこにもない。今、そのことに気付いて、何かしなくて、いつ行動するというのだ。今、感情的になる人々に「感情的になるな」などという必要はない。もっと感情的になれ!もっと怒れ!何万人という人々を不幸にしておいて、これからも平気な顔で生きて行こうとしたり、さらにもっと多くの人を不幸に陥れようとしている人に、もっと怒ってよいだろう。もっと感情をぶつけてよいだろう。感情的になることが全て悪ではないし、人類は感情的になることで進歩もしてきた筈だ。Sampo2011090402

美しいトンボが目の前に止まる。そして、私はトンボとたわむれる。こんな虫ケラ、何の役に立たないと言われようとも、私はこいつらが好きだ。それが感情的といわれようが、私はこいつらとずっと暮らしていきたいのだ。子供たちも、ずっとこんな自然の中で暮らしてほしいと思う。金持ちにならなくてもいい。自然とともにごく普通に幸せな一生を送ってほしいと思うだけだ。Sampo2011090404

| | コメント (2)

«オオムラサキふたたび